GOING STEADYが放った渾身の豪速球、
唯一無二の青春パンク作『さくらの唄

加藤ミリヤが歌う「ピース オブ ケイク ―愛を叫ぼう― feat. 峯田和伸」がなかなかすごいことになっている。映画『ピース オブ ケイク』の主題歌という話題性だけでなく、この楽曲は加藤と峯田のふたりで歌詞を書き上げ、この映画の劇中音楽を担当した大友良英氏の作曲で実現したという奇跡のコラボだ。加藤は中学生の時から峯田のファンだったというから感慨もひとしおだったに違いないが、今回の本コラムではその峯田和伸のかつてのバンド、GOING STEADYを取り上げてみる。

日本のパンクロックシーンを語る上でGOING STEADYは欠くことができないバンドである。2000年代前半の“青春パンク”を牽引した…というよりも、“青春パンク”とは即ちGOING STEADYであり、GOING STEADYのキャッチフレーズと捉えてもいいのではないかとすら思う。このカテゴリー自体、相当に曖昧なものであるのであえて解説するのも憚られる感じではあるが、“青春パンク”とは「恋愛や友情、トラウマ、夢と情熱など若者の個人的なできごとや感情を主にテーマにした詞が特徴」とのことである(「」内はウィキペディアより引用)。まさにGOING STEADYの音楽性を表している。メロディック・ハードコア=所謂“メロコア”、さらに言えば日本のフォークソング由来のメロディーラインをエッジの立ったギターサウンド+疾走するリズムに乗せたスタイルで…という説明を付け加えれば完璧にGOING STEADYの形容になる。この彼らならではの音楽ジャンルがいかに当時の同世代の若者から支持を得たのか? GOING STEADYが活動を始めた時代を振り返ってみるとなかなか興味深いものが見えてくる。
GOING STEADYが1stアルバム『BOYS&GIRLS』をリリースしたのが1999年。CDセールスがピークを迎えたのが1998年だから、その年から日本のCD市場は下降を一途を辿ることとなる。しかしながら、同年、宇多田ヒカルの1stアルバム『First Love』が700万枚を超す爆発的なセールスを記録しているので、表面的にはまだまだCDバブルの絶頂期といった雰囲気だったろう。宇多田ヒカル以外では、浜崎あゆみ、ZARD、鈴木あみ、globe、Every Little Thingら女性ヴォーカル勢が人気だった他、GLAY、L'Arc〜en〜Cielの2大バンドへの支持も凄まじく、GLAYが幕張で20万人ライヴを成功させたのもこの年だ。シーンのトップはなかなか華やかだったことが分かる。ロックとは元来カウンターカルチャーだと言われる。“青春パンク”はその華やかなエンターテインメントへの対抗だったと考えてみるのはどうだろうか。一方、1999年に黒夢が無期限活動停止を発表し、翌2000年にはBLANKEY JET CITYが解散、そしてLUNA SEAが終幕するといった具合に、一時代を築いたバンドたちがシーンを去ったのもこの頃であった。1997、1998年にはHi-STANDARDらが中心になって企画されたロックフェス『AIR JAM』が開催されており、明らかにバンドシーンには地殻変動が起きていたと言える。パンクロックには追い風が吹いていた。“青春パンク”を育むには十分な土壌だったと言えまいか。
GOING STEADYはインディーズのまま、基本的にはライヴ活動だけで(フェスやイベント出演を含む)その知名度を全国に広めていった。2000年以降の単独公演はそのほとんどがソールドアウト。そして、2001年には2ndアルバム『さくらの唄』をチャート初登場10位に叩き込む。1stアルバム『BOYS&GIRLS』に比べればしっかりとマスタリングされているが、正直言って音は粗いし、ピッチのおかしいところがないわけじゃない。ポップなもの、キャッチーなもの、メロディアスなものが揃っていて、メロディー自体はとても分かりやすいが、ミネタカズノブ(Vo・現:峯田和伸)のヴォーカリゼーションはシャウトが多く、聴きやすいという代物ではない。これを生理的に受け付けないという人がいても何ら不思議ではないアルバムだと思う。だが、ここに収録されている周波数を超えた“何か”…所謂バンドマジックとはまた別の、どう仕様もなく滲み出てしまった“汁”みたいなものを掴めたリスナーにとってはこの上なく堪らないものになった。熱狂的ファンに支持される映画をカルトフィルムと呼ぶが、GOING STEADYはカルトバンド化したと言い替えてもいいのかもしれない。すでにインターネットは普及していたとはいえ、現代ほどの情報発信力はなかった頃である(その辺は、今も残るGOING STEADYの公式サイトを見てもらえれば分かってもらえるのでは…と思う)。本作がチャート初登場10位になったのは、 それだけ“青春パンク”を渇望する全国各地の若者たちが自発的にGOING STEADYを求めた結果だったと思う。或いはメインストリームの音楽に飽き足らない若者たちが大勢いた結果だったのかもしれない。
『さくらの唄』収録曲は、歌詞もまた聴き手を選ぶものがほとんどだ。M3「BABY BABY」の《永遠に生きられるだろうか/永遠に君のために…》や、M7「グレープフルーツムーン」の《苦しみに立ち止まり 見上げたのはいつの日か/その時 あのメロディとあなただけが僕を包んでた》、さらにM9「佳代」の《二人のために 二人にだけに この星は周っていたのだろう/あなたを乗せて自転車こいだ 真夜中の純情商店街/耳元で聞こえた吐息 今は遥か遠く…》などはラブソングとして汎用性が高いかもしれないが、これ以外のミネタの圧しの強い声で繰り出される雄々しいメッセージは万人向けとは思えない。以下、列挙する。
《まだ見ぬ明日に何があるのか、何があるのか僕は知らない/待つべきなのか、向かうべきか薄ら笑いで歩いてゆこうか/まだ、もう、くたばりたくない!!/生き恥をさらしてでも行け!!》(M1「アホンダラ行進曲」)。
《僕等は若くて 心が歪んだ/叫ぼう!叫ぼう!僕等は此処だ!!!》(M2「東京少年」)。
《もがく日々、僕は誰、何処へ行くの?/今ここで、泣くには、僕は若すぎる》《あの真っ赤な夕陽を忘れるな!/そら見ろ 真っ赤な夕陽だろう/泣くには若すぎるだろう》(M5「TOO YOUNG TO CRY」)。
《もしも君が泣くならば僕も泣く!!/もしも君が死ぬならば僕も死ぬ!!/もしも君が無くなれば僕も無く!!/もしも君が叫ぶなら僕も叫ぶ!!》(M8「もしも君が泣くならば」)。
《僕達は振り切れない青き衝動!!!》《GO FOR IT.永遠の声、永遠にとどけ/頑張れ!!頑張れ!!頑張れ!!!!!》(M10「GO FOR IT」)。
熱い。とても熱い。そしてピュアだ。前述した通り、シーンのメインストリームにはデイーヴァが顔を揃えている中で、このパッションを敬遠する人がいても何ら不思議ではない。それは仕方がない。しかし、この豪速球は、これまた届くところにしっかりと届き、がっちりと受け止められた。筆者は残念ながらGOING STEADYのライヴを観たことがなかったが、聞くところによると、彼らのオーディエンスには朴訥な少年たちも少なくなかったと聞く。シーン全体を振り返れば、この辺りを境にインストのヒット曲が生まれたり、GOING STEADY以外のインディーズバンドでミリオンセールスを記録するアーティストが生まれてきたのもこの頃で、当時は邦楽シーンに多様性がもたらされた時期だったのかもしれない。GOING STEADYは間違いなくその一躍を担っていた。
『さくらの唄』リリース後、全国ツアーの決行、イベント出演、そして2002年にはシングル「童貞ソー・ヤング」をリリース(インディーズながらチャート3位を記録)、さらには自身のレーベル“初恋妄℃学園”を設立と、側からは極めて順風満帆に活動を展開しているように見えたGOING STEADYだったが、2003年1月、予定していた全国ツアーをキャンセルし、突然解散を発表した。あまりにも唐突だったため、彼らの解散を知らぬままに当日ライヴ会場へ足を運んだファンもいたそうで、その子らはスタッフから説明を受け、肩を落として去って行ったという。後に銀杏BOYZの活動開始後、峯田和伸にGOING STEADY解散の理由を尋ねたことがある。あまり多くを語りたがらなかったが、「バンドが楽しくなくなった」という趣旨のことを話してくれた。唐突な解散発表とそれ以後に予定されていたスケジュールの白紙撤回の罪は決して小さいものではない。しかし、GOING STEADYの“青春パンク”とは若さゆえの直情を内包したロックであったはずで、その衝動的な行動は極めて彼ららしかったと言える。何しろGOING STEADYの1stアルバム『BOYS&GIRLS』は“DON'T TRUST OVER THIRTY”という題名の楽曲で幕を開けるのである。仕組まれていた…などと言うつもりはまったくないが、あの時点で彼らがGOING STEADYを封印してしまったのはその出自を考えれば当然のことでもあった。

著者:帆苅智之

OKMusic編集部

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