小泉今日子がオンリーワンの
アイドルなことを
証明するアルバム
『今日子の清く楽しく美しく』

『今日子の清く楽しく美しく』('86)/小泉今日子
1980年代女性アイドルの三傑
つまり、松田聖子、中森明菜、小泉今日子は1980年代女性アイドルのトップ3、ベスト3と断言しても差し支えはないはずだが、“その根拠はどこにあるのだろうか?”と少し気になって調べてみた。まず音源のトータルセールスの比較を試みた。トータルの売上は公式記録があるわけではないので、個人でやられているwebサイトをいくつか参考させてもらった。こと1980年代においては、松田、中森、そして小泉が、女性アイドルという括りにおいて、少なくとも売上累計ではトップ3であることは間違いないようだ。ただ、抜きん出た存在であった松田、中森に比較すると、小泉はそこに肉薄するまでには至っていない。はっきり言ってしまえば、松田、中森がダブルスコアで小泉を離していた感じである。松田、中森両名が高レベルすぎたということもある。1980年代中盤まではふたりで女性アイドルシーンを独占していたと言っていいかもしれないほどで、松田、中森、小泉が1980年代女性アイドルのトップ3であることは間違いないけれども、少なくともその数字を見ると、三すくみということではなかったということになる。
それでは、記録のほうはどうだろうかと、これも調べてみた。個人的にも、小泉今日子のブレイクポイントは、彼女が髪型をショートにした5th「まっ赤な女の子」(1983年5月)だったと記憶している。とりわけファンというわけではなかったけれど、1982年のデビュー時から“この人は人気になるだろうなぁ”と思っていて、ラジオからよく流れて来た「まっ赤な女の子」を“やっぱりなぁ”と思って聴いていたこともよく覚えている。そういう輩は多かったと思う。彼女がシングルチャートで初めて首位を獲得したのは、その「まっ赤な女の子」から1年足らず。9th「渚のはいから人魚」(1984年3月)である。そこから、7作連続チャート1位を獲得している上(12インチシングル「ヤマトナデシコ七変化(Long Version)」(1984年11月)や、KYON2名義の「ハートブレイカー」(これも12インチ。1985年6月)は除く)、「水のルージュ」(1987年2月)、「キスを止めないで」(1987年10月)、「見逃してくれよ!」(1990年3月)、「あなたに会えてよかった」(1991年5月)と90年代になっても首位となったのだから、これはもう小泉今日子がトップアイドルであったことは疑いようがない。
さて、ここで本稿は小泉今日子をディスりたくて書いてるわけではないことを一応断りつつ、もう少しデータ分析(?)を続けることをご了承いただきたい(一見、貶めるように見えて最後にはちゃんと持ち上げるのでご安心ください)。彼女が多くのシングル作品で1位を奪取したことは紛れもない事実であるが、これを年間チャートを通して見てみると、少し興味深い側面が見えてくる。週間でチャート1位を獲得した楽曲であっても、発売年の年間チャートのトップ10にそのタイトルは出てこない。それもまた事実なのだ。つまり、やや乱暴に言ってしまえば、彼女にはロングセールスがないのである。1980年代、松田聖子と中森明菜は年間シングルチャートのトップ10に2、3曲入れている年も少なくない。
また、同時代に活躍した薬師丸ひろ子は年間に1枚しかシングルを発表していないにもかかわらず、1982年に「セーラー服と機関銃」を年間2位に、1983年には「探偵物語/すこしだけやさしく」を年間4位にランクインさせている。1986年には、おニャン子クラブから最初にソロデビューした河合その子の「青いスタスィオン」も年間10位となっているにもかかわらず、小泉今日子の楽曲はそこにないのである(おニャン子クラブならびに河合その子のファン方、何かすみません。一応謝っておきます)。この年間シングルチャートも50位まで広げると、もちろんそこには小泉も登場してくるのだが、それにしても彼女が初めて1位を獲得した「渚のはいから人魚」にしても年間では25位。1985年に「The Stardust Memory」が年間14位、1987年に「木枯しに抱かれて」が年間11位と、もう少しでトップ10というところまで行っているが、あとは全て20位以下という結果である。