中西圭三の
さわやかなハイトーンヴォイスが
自身の方向性を導き、
『Yell』へ辿り着いた

『Yell』('92)/中西圭三
人柄が表れたようなクリアーな歌声
ハイトーンのヴォーカリストは古今東西ナンボでもいる。特に日本では、2000年以降、レンジの広いソロシンガーが増えてきたような気がする。それは中西圭三や、その少し前の世代の久保田利伸、米倉利紀、あるいは平井 堅らがシーンを活性化させ、パイが大きくなったからではないかと考えるが、一時期、男性のハイトーンヴォーカルと言えば、ハードロック、ヘヴィメタルのバンドと相場が決まっていた時期があったように思う。男性ヴォーカリストの表現方法、表現手段は意外と狭かったのだろう。1980年代以前にも小田和正や山下達郎というレジェンドはいたけれど、それぞれ出自はオフコースであり、シュガー・ベイブであり、ともにもともとはバンドのヴォーカリストだ。杉山清貴もそうで、デビューは杉山清貴&オメガトライブであった。ちなみに、HR/HMからの流れはいわゆるヴィジュアル系の一部が受け継いでいったと考えられる。そう考えると、昔の日本では、レンジの広さやハイトーンのヴォーカルは迫力や圧力とニアリーイコールだったと言えるのかもしれない。少なくとも“さわやかさ”とは無縁のパフォーマンスであった時期は確実にあった。そんな中、“さわやかさ”を押し出した中西圭三というシンガーの存在は当時としては少し特異だったのかもしれない。本稿作成のために彼の歌声を聴いてそんなことを思ったりもした。
2023年現在、ハイトーンを駆使して歌うソロシンガーというと、コンテポラリR&Bによく見られる、情感たっぷりに歌い上げるパフォーマンスを想像する人も少なくないのではなかろうか。愛情やそこから派生した悲哀だけでなく、怨念…とまでは言わないけれど、憤りや焦りのようなものも表現する人たちもいて、本当にシーンの裾野が広がったと思うところではある。
そして、中西圭三はどうかと言うと、少なくとも今回紹介する『Yell』においては、ネガティブなほぼ印象がない。そこが本作の大きなポイントだと考える。本作のプロデューサー、ディレクター、スタッフを含めて、アルバムタイトル通りの作品にしようという意志があったことは間違いないけれど、それも彼自身の歌声によるところが大きかったのではないかと思う。滑舌も良く、クリアーな声質ということも大きいし、何と言うか、その声からまったく嫌味を感じないのだ。人柄が歌声にも表れているとも推測できる。実際に本人にお会いしたことはないけれど、テレビやラジオに出演されている様子を見聞きする限り、いい人である確率は99.9パーセント以上であろう。
シンガーに限らず、アーティストの素のキャラクターがそのまま作品に反映されなければならないという法はない。実際に人を○したことがない人は○人事件を題材にした小説を書けない…なんてことはないとよく言われる。しかしながら、滲み出るものは止められないとも思う。○人事件を題材にした小説ならば、その動機や過程において、作者の性格や背負っているものが投影されることもあるだろうし、それがはっきりと表れなくとも行間からにじみ出ることもあろう。シンガーにおいてはメロディーや歌詞がそうだろうし、コードや楽器の音色にそれが出ることもあるように思う。中西圭三作品を全て聴いたわけでないけれど、彼の音楽には彼のキャラクターがそのまま出ているものが多いと容易に想像できるし、『Yell』はそれが色濃く出たアルバムであろうと確信する。