竹内まりやが
アルバムアーティストとしての
ポジションを確立した
『LOVE SONGS』

『LOVE SONGS』(’80)/竹内まりや

『LOVE SONGS』(’80)/竹内まりや

2018年11月にデビュー40周年を迎え、映画『souvenir the movie -Mariya Takeuchi Theater Live-』が公開されたり、過去音源のリマスター盤が相次いでリリースされたりと、アニバーサリーに相応しいニュースの続く竹内まりや。今週の名盤紹介は、まさにデビュー40周年記念リマスター盤が発売されたばかりの、彼女の3rdアルバム『LOVE SONGS』を取り上げる。

恵まれた状況下で活動する
アーティストのひとり

当webサイトにて連載されている『臼井孝のヒット曲探検隊~アーティスト別 ベストヒット20』。昨年11月、“デビュー40周年を迎えた竹内まりやのヒットを探る”と題した寄稿の中で著者の臼井氏がこんな文章を寄せている。

「目まぐるしく移り変わる日本の音楽界の中で、竹内まりやは最も幸運な立ち位置で活動しているアーティストの一人だろう。(中略)新作を発表しないうちに売上を大きく落としてしまう邦楽アーティストが大半の中、竹内の場合は作品が出るたびに「○年ぶりの新作!」と大きな話題となるので、やはり恵まれた状況にあるのは間違いないだろう」。

うむ。確かに。直近の竹内まりやのオリジナルアルバムは2014年の『TRAD』。これですら発売からすでに4年以上も時間が経っている。現在、彼女の新作の話は聞こえてこないので、リリースタームはさらに空きそうだ。『TRAD』の前が2007年の『Denim』。その前が2001年の『Bon Appetit!』。その前は1992年の『Quiet Life』で、さらにその前は1987年の『REQUEST』と、この30年間、次作まで6〜7年間空くことはざらであった。前例からすれば少なくともあと2〜3年待たねば『TRAD』に続く新作は届かないのではないかと思う。ファンの間でその辺は織り込み済みだろう。当然もの作りにおけるご苦労はいろいろあるだろうが、予定に追い立てられて制作するようなことはないと想像できる。“Quiet Life(=平穏な日々)”とはよく付けたものである。

無論、彼女とて最初から6〜7年間もリリースタームを空けていたわけではなく、1978年11月にシングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』でデビュー以降、1981年までの間にシングル9枚、アルバム5枚を制作し、毎年コンスタントにリリースを続けていた。ただ、竹内まりやのディスコグラフィを見てみると、デビューから2年間で発表したシングルが3枚と、当時としては結構少なめであったことが若干気にかかる。これは、この時期、彼女がまだ大学生であって、学業を優先したのだろうと想像はつくが、あれこれと調べていたら興味深い記事を見つけた。5thアルバム『PORTRAIT』(1981年)まで竹内まりや作品のプロデューサーを務めた宮田茂樹氏が2017年、シングル「SEPTEMBER」の発売日である8月21日に寄せたものだ。“なにせ40年近くも前のことであるし、日記をつけていたわけでもなく、記憶も心許なくなってきている”と前置きしながらも、当時、竹内まりやというアーティストの方向性をどう見据えていたのかを、レコード会社の実態を交えながら綴っている。少し長くなるが以下に引用させていただく。

Q:「SEPTEMBER」でのA&Rの仕事とはどのようなものだったのでしょうか?
A:彼女のファースト・アルバム『BEGINNING』もセカンド・アルバム『University Street』も、大方の予想を大きく上回る実績をあげていました。ただ、シングル・ヒットにはいまだ恵まれていなかったのです。
第三作のシングル制作の段になって、「年末の賞レースに参戦する、世間受けのする曲を作れ」という会社の思惑が介入してきたのです。竹内まりやを賞レースにだなんて考えてもいませんでしたし、世間受けのする曲だなんてなんともナンセンスな話だと思いましたが、社運を賭けたかのごとき社命に逆らうことはできませんでした。当時は賞獲りレースが過熱していましたからね。まぁ、社内政治をうまく仕切るのもA&Rの資質としては欠かせないものですから、命令に従ったふりをして自分の意思を貫きましたが、、、
年末の賞レースに参戦するには遅くとも9月新譜として発売しなければなりません。ですから発売日の8月21日は自動的に決められてしまいました。

Q:9月新譜だからSEPTEMBERにしたのですか?
A:いくらなんでもそこまで安直に考えたわけではないですよ。ただ、9月は大学生達にとって特別な意味があると思ったのです。ご存知のように欧米の大学(学校)は9月から新年度が始まる。夏休みともなれば付き合っているカップルもそれぞれの故郷に帰り、離ればなれに過ごし、いろいろな夏の出来事を経験したあとで、9月になればもう一度逢える。でも9月には別れが待っているのかもしれない、そんな大学生の、今風に言えば恋バナをテーマにしようと考えました。たまたま、まりやは慶應の4年生で、2枚目のLPでもキャンパス・ライフを大きなテーマにしてましたから。
(『大人のMusicCalendar・1979年の本日リリース、竹内まりや「SEPTEMBER」制作時の話』より)
周辺スタッフが竹内まりやをアルバムアーティストとなることを期待し育てていたこと。1stアルバム『BEGINNING』も2ndアルバム『University Street』もその期待を超えて好セールスを記録したこと。しかしながら、会社の上層部はシングルヒットを求めて芸能色を打ち出そうとしたこと。直近のスタッフの寄稿だけあって、生々しくも実に面白い内容だ。

なぜレコード会社はシングルヒットを求めたのか不思議に思う人もいるだろう。当時はシングルがセールスの中心だったのだ。竹内まりやがデビューした1978年で言うと、シングルもアルバムも年間売上1位はピンク・レディーで、1位「UFO」はミリオン超え。2位「サウスポー」、3位「モンスター」とベスト3をピンク・レディーが独占しており、この2曲とも売上は100万枚を超えたと記録にある。一方、アルバムで年間首位だった『ベスト・ヒット・アルバム』は100万枚には届かなかった。そんな状況だったのだから、当時の所属レコード会社上層部がシングルヒットを狙ったのも止むなしだったとは言える。彼女と同じ年にデビューしたサザンオールスターズは、1stシングル「勝手にシンドバッド」をヒットさせたものの、一旦活動を休止した1985年までに23枚のシングルを制作、発表している。つまり、そういう時代だったのである。

その点、宮田氏も述べている通り、竹内まりやとそのスタッフは実にうまく立ち回る。“世間受けのする曲なんてナンセンス”と思いつつも、その要求に応えるべく楽曲を発注(この辺の件は先ほどの引用元に詳しいのでご興味があればそちらを是非)。1stアルバム『BEGINNING』ではオープニング曲「グッドバイ・サマーブリーズ」、2ndアルバム『University Street』では「想い出のサマーデイズ」を手掛けた林哲司に作曲を、はっぴいえんど解散後、プロの作詞家となっていた松本隆に歌詞を依頼した。シングルヒットを考えたとは言え、それまで2枚のアルバムで培ったスタイルを大きく変更する方向へ舵を切らなかったのである。そこで生まれたのが「SEPTEMBER」。見事にスマッシュヒットを記録して、この曲で彼女は1979年の『第21回日本レコード大賞』において(当時のレコード会社上層部の)悲願であった新人賞を獲得する。この楽曲は決してビッグセールスとなったわけではないが、今も9月になると街のそこかしこで聴こえてくる、彼女の代表曲のひとつであることは言うまでもない。

OKMusic編集部

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