戸川純が『玉姫様』に宿した
深淵なる情念と性

『玉姫様』(’84)/戸川純
衝撃だった《玉姫様 乱心》
ちなみに、「玉姫様」が収録されたアルバム『玉姫様』で3曲作詞を担当しているサエキけんぞう(※註:本作では佐伯健三名義)はパール兄弟以前にハルメンズというバンドを組んでおり、そこに戸川純がゲストヴォーカルとして参加していた。その縁もあったのだろう。「玉姫様」の歌詞が完成した時、戸川はサエキに電話をかけ、受話器越しにそれを読み聴かせたという。彼はそれに衝撃を受け、自身が執筆するコラムで[女性の生理感覚を肉体性に結びつけ、狂気さえも感覚の爆発として理路整然と表現に結びつけている完成された世界があった]と述懐している([]は『大人のMusic Calendar』からの引用)。以下、その歌詞である。
《ひと月に一度 座敷牢の奥で玉姫様の発作がおきる》《中枢神経 子宮に移り/十万馬力の破壊力/レディヒステリック 玉姫様 乱心》《もう何も見えない もう聞こえない/あなたの話が理解できない》《神秘 神秘 月に一度/神秘 神秘 神秘の現象》(M6「玉姫様」)。
こちらのほうが《あなたの話が理解できない》である。いや、理解できなくはない。女子だけ別の授業を受けることに対してキョトンとしていた小学生時代ならいざ知らず、その頃になるとさすがにその意味は分かっていた。ただ、《レディヒステリック 玉姫様 乱心》とかは、当時は噂で聞くレベル。正直言って、簡単に共感できるわけもない。だが、それゆえに「玉姫様」を最初に聴いた時、何かいけないものを見てしまったような、まさしくタブーに触れたような感覚を抱いたことは確かだし、それが余計にパンク、ニューウェイブ感を強くしたとも思う。
緊急避難的に始まったソロ活動
そのゲルニカは1982年にメジャーデビューするも、諸般の事情で活動休止を余儀なくされ、その代替案として戸川のソロ活動がスタートする。もともと女優志望であり、ミュージシャンになるつもりはなかったという彼女。ゲルニカでもフロントに徹して、音楽的志向は他のメンバーに任せていたそうである。そんなところ、言わば、緊急避難的に始まった“ソロ・戸川純”だけに、当初は彼女自身の主体性がなかった…とは言わないまでも、ゲルニカとは別の方向性を出そうといった明確な音楽性の提示はなかったという。お茶の間にも浸透した彼女のキャラが手伝ったのも確かだろうが、そんなふうに臨んだソロがヒットするのだから、やはり世の中は分からないものである。当初、ゲルニカは1984年から活動を再開させる予定だったというが、戸川純のヒットにより、結果的に再開したのは1988年だった。
カバー曲多く、実は大衆的な作品
さらに言えば、民謡、クラシックをチョイスしたことで(これはもしかすると図らずも…だったのかもしれないが)作品自体に大衆性が出たとも言える。M2「諦念プシガンガ」もM9「蛹化の女」も決して明るいタイプではない。それゆえにこれらはポップという意味での大衆性はないかもしれないが、当然メロディーがしっかりとしているので、とても耳馴染みがいい。さすがに彼女独特の歌詞を乗せても土台がびくともしないというか、むしろその世界を奥深くしているかのような印象がある。そして、ポップさはM3「昆虫軍」やM8「踊れない」、あるいは本作のオリジナル曲であるM5「隣の印度人」やM7「森の人々」が司り、アルバム全体に彩りを加え、うまくバランスを取っていると思う。
80’sサウンドに乗せた見事な歌唱
もちろん、戸川純のヴォーカルパフォーマンスの素晴らしさを忘れてはならない。そうした80年代ならでは…と言える、ある意味でアクの強いサウンドに耐え得るヴォーカリストであったからこそ、『玉姫様』を始めとする彼女の作品は時代に愛されたのだと思う。M3「昆虫軍」、M5「隣の印度人」ではエモーショナルで激しい抑揚を見せる一方、M7「森の人々」ではキャッチーなメロディーを可愛らしく、M9「蛹化の女」では綺麗な旋律を丁寧に歌い上げる。また、M8「踊れない」での幼児っぽいテイストでありつつ、それでいて感情を表に出し過ぎない表現は、ロボットを綴った歌詞にぴったり。M6「玉姫様」は比較的淡々とした生真面目な歌唱といった雰囲気もあるが、それがどこか思春期を感じさせるようでもあって、文字通り、成長の神秘、神聖さを感じるようなところだ。
高い文学性を感じさせる歌詞
《空の彼方に 浮かぶは雲/嗚々 我が恋愛の名において/その暴虐の 仕打ちさえ/もはやただ 甘んじて許す/牛のように/豚のように 殺してもいい/いいのよ 我 一塊の肉塊なり》《空に消えゆく お昼のドン/嗚々 我が恋愛は終止せり/あの泥流の 恩讐が/もはやただ あとかたもなしや/愕然とする間もなく/腐敗し始める/我 一塊の肉塊なり》(M2「諦念プシガンガ」)。
同梱の歌詞カードには《一塊》となっているが、本当は《一介》だそうである。レーベルからの指摘で変更したのだという(おそらく、《一介》だと人を指す意味になってしまうからだろう)。♪ライラライラライ〜がキャッチーだが、ポップに響かないのはマイナーなメロディーにせいでもあるが、歌詞によるところが大きいだろう。彼女の著書によれば、歌詞の意味するところは“受身側の攻撃”だという。何がどうしてどうなったのかはっきりと分かるものではないが、情念は十分に感じられる。エキセントリックに歌うのではなく、落ち着いた歌唱だからこそ、より迫力が増すことを分かっていたのだろう。それは女優としての本能だったのか。それとも、それだけ自身の抱えた情念が大きかったからだろうか。
アルバムを締め括るM9「蛹化の女」も、青白い炎のような、見た目のクールさに反して熱量は高い情念を感じるところだ。この楽曲で終わっていることで、アルバム『玉姫様』は当時、話題の女優が作った作品というだけでなく、本作は戸川純の血が通い、肉を成した作品であることを示しているように見える。戸川純という人のアーティスト性をしっかりと見せているのである。
《月光の白き林で/木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出てきし/ああ/それはあなたを思い過ぎて変り果てた私の姿》《私に気づくころ/飴色のはらもつ/虫と化した娘は/不思議な草に寄生されて/飴色の背中に悲しみのくきがのびる》(M9「蛹化の女」)。
アイドルでも女優でも、もちろん所謂、不思議ちゃんでも何でもなく、表現者として一本筋が通った文学性に、彼女の性根のようなものを感じるのである。
TEXT:帆苅智之