『これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!』

『これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!』

メンフィス録音で臨んだ加川良の
『南行きハイウェイ』

『南行きハイウェイ』(’76)/加川良

『南行きハイウェイ』(’76)/加川良

1970年、日本における初期の野外フェスのひとつ『第2回全日本フォークジャンボリー』(『中津川フォークジャンボリー』とも言う)に飛び入り参加のようなかたちで出演し、3曲歌っただけにもかかわらず大きな評判となり、加川良の名は広く知られるようになる。翌年URCレコードから『教訓』でデビューし、大きな評価を得るのだが、ブルーグラスやオールドタイム的なサウンド(いわゆる関西フォーク的なもの)から、徐々にルーツロック的なスタンスへシフトしていく。74年にリリースした4thアルバム『アウト・オブ・マインド』は、カントリーロックの名盤として、僕も含め今でも愛聴している人は多い。76年にはメンフィスへ出向いて、サザンソウルのテイストとルーツロックを結合させた5枚目となる本作『南行きハイウェイ』をリリースする。

フォーク・リバイバルと
日本のフォークシーン

1950年代末、アメリカで起こったフォーク・リバイバルの影響で、60年代初めには日本でも大学生たちを中心にフォークソングが急速に浸透した。当初はカレッジフォークなどと呼ばれ、ロックを聴くのは不良だがフォークソングは真面目で良いと、大人からは見られていた時代である。ただ、当時は高度成長期の日本だけに、音楽も含めて日々の生活が数カ月単位で変わっていった。

例えば、僕の子供時代を思い出してみる。幼稚園に通っていた頃、トイレは汲み取りでテレビなし、エアコンなしだったが、小学校に上がると東京オリンピック(1964年)のおかげでテレビ(白黒)が家に来た。それまではテレビを持っている近所の家に観に行ったり、駅前にある大きなテレビモニターで野球やプロレスを観たりしていた。中学に入る頃にはトイレは水洗になり、エアコン(当時はクーラーと呼んでいたが)がつき、気づけばテレビもカラーになっていた。大阪万博(1970年)の時には、駅はキレイになり道路も整備され広くなっていった。他にも、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、ラジオ、テープレコーダーなど、あっと言う間に進化していったのだ。たった5〜6年のうちにこれだけの変化があった時代は、この時期を置いて他にはないと思う。
60年代中期には学生運動が盛んになり、音楽の世界では若者が好むものが歌謡曲からグループサウンズへと移り変わって、並行してエレキバンドブーム(おそらく世界で日本だけのブームだろう)がやってきていた。当時、日本の若者にとって洋楽への憧れは強かったが、英語の歌を歌うのが苦手だったがゆえにインスト中心のエレキバンドブームがやってきたのだと思う。僕が小学生の頃、日本ではビートルズよりもベンチャーズのほうが人気は高かった。僕が身をもって体験している事実として、これは伝えておきたい。
フォークの世界では、本場アメリカのフォーク・リバイバルで人気を集めたピート・シーガーやボブ・ディランらのプロテストタイプと、キングストン・トリオやブラザーズ・フォーのようなポップスタイプがいたように、日本人のフォークソングも、森山良子やマイク真木のようなポップなものと、高石友也や中川五郎といった政治的なものが共存していた。やがて、関西各地で行なわれていたフォークキャンプの影響で関西フォークに大きな注目が集まっていく。フォーク・クルセダーズやジャックスのように突然変異的で驚異のグループも生まれたが、ジャックスについては以前このコーナーで取り上げたので、フォークルはまた別の機会に取り上げるつもりだ。
■『ジャックスの世界』/ジャックス
https://okmusic.jp/news/36498

全日本フォークジャンボリー

60年代の関西フォークシーンで活躍した代表的なシンガーやグループとしては、高石友也をはじめ、藤村直樹、中川五郎、古川豪、岡林信康、ザ・フォーク・クルセダーズ(68年10月に解散)、ひがしのひとし、豊田勇造、五つの赤い風船、フォーク・キャンパーズなどが挙げられる。そんな中、1969年に『全日本フォークジャンボリー』が開催される。1回目は関西フォークと関東フォークを代表するアーティストらが出演したにとどまり、観客も2000人強ぐらいであった。
全国的にその名が知られるのは、翌年の第2回目だ。1970年は僕が覚えているだけでも大阪万博、学生運動の過激化、よど号ハイジャック、三島由紀夫自殺などの大きな事件があった。ちなみに69年も、沖縄返還、アポロ11号月面着陸、東大安田講堂への機動隊投入などがあり、高度成長が生み出した歪みが表面化した時代であったことが分かる。そういう時代だからこそ、若者たちは自己のアイデンティティーを模索していた。そういう意味でも『フォークジャンボリー』は若者の想いを代弁する役割を果たしていたと言えるだろう。
そんな中で、飛び入りの形で突然現れた加川良は、これがデビューステージであったにもかかわらず、観客を掴む力量を既に身につけていたようで、リスナーを自分の世界に引き込んでしまう“語り部”としてのパワーで大きな喝采を浴びた。その時に歌った「教訓I」は、彼の代表作であると同時にフォークを代表する名曲でもある。彼はそれまで洋楽(特にロック)ばかりを聴いていたらしく、他のフォーク歌手とは出自が違っていただけに異彩を放っていたのかもしれない。そして、71年にURCレコードからリリースされたデビューアルバム『教訓』で、一気に全国レベルの認知度を得ることになる。
その同じ年に開催された『第3回全日本フォークジャンボリー』では、観客は2万人以上に膨れ上がり、フォークだけでなくロックやジャズのグループも出演した大きなフェスとなった。加川はデビューアルバムをリリースしたばかりで、このコンサートでも大きな話題を集めたが、吉田拓郎事件や安田南事件などで出演アーティストはかすんでしまった。興味のある人は『第3回全日本フォークジャンボリー』で検索してほしい。

加川良の音楽

先ほども述べたように、加川良の魅力は“語り”のような歌が歌えることである。稲川淳二が怪談を語る時、聴き手は作り話だと分かっていながらも引き込まれていくように、加川良の歌にリスナーは引き込まれるのだ。それはデビュー作の『教訓』から晩年に至るまで変わることはなかった。要するに、そもそも彼の歌に力があるわけであり、ソロでやろうが、バックを従えていようが、そんなことには関係なく、人に強い印象を与えるタイプのシンガーなのだ。僕はずっとそう思っていた、彼の4thアルバム『アウト・オブ・マインド』が出るまでは。
ところが、高校1年か2年の時に『アウト・オブ・マインド』が出て、僕の考えは変わった。このアルバムはお馴染みの中川イサトの他、鈴木茂、佐藤博、田中章弘、林敏明(このセッションがきっかけで、ハックルバックが結成された)、村上律、長野たかし、高田渡らが参加している。中でも、後のハックルバックの面々と村上律の素晴らしいサポートは加川の歌をより一層引き立たせ、聴いている者の心を震わせるほどのインパクトで、歌というよりは人生そのものを聴かせてくれるのだ。『アウト・オブ・マインド』はそれまでの加川の泥臭い関西的な土着性を生かしつつ、さわやかなアメリカ西海岸の香りも感じさせているところに特徴がある。当時アメリカで話題となっていたアサイラムレコードのシンガーソングライターのサウンドに負けないサウンドであったと思う。僕はこの時点で、『アウト・オブ・マインド』を超える作品はできないだろうと浅はかな考えを抱いていた。

本作『南行きハイウェイ』について

そして76年、アメリカ南部のメンフィスでレコーディングされた本作『南行きハイウェイ』がリリースされる。前作があまりにも素晴らしい仕上がりであっただけに、当時は聴くのが少し怖かった記憶があるが、1曲目の「転がり続ける時」を聴いただけで、このアルバムの素晴らしさが確信できた。
ザ・バンドのロビー・ロバートソンのような魂のこもった石田長生のギター、ハイサウンドを支えたリズム陣のホッジズ兄弟、アメイジング・リズム・エイシズのキーボード奏者であるジェームス・フッカー、メンフィス・ホーンズ、メンフィス・ストリングスなど、アメリカ南部のロックやソウルが好きな人間にとっては最高のメンツが揃っていたのである。
『アウト・オブ・マインド』ではアメリカ西海岸の香りが少し感じられたが、本作ではアメリカ南部独特のゴスペル臭とサザンソウル風味にプラスして、ザ・バンド的な音作りも意識して加えられているようだった。このシンプルかつ力強いサウンドに、加川の本来の持ち味である泥臭さと語り部としての魅力がプラスされ、彼の歌はこれまで以上に芳醇で濃厚なものになっている。
ただ、全編ずっと濃厚なサウンドだと息苦しくなってしまうが、そこはプロデューサーも兼ねている石田長生だけに、カントリーテイストを持つノスタルジックなものやラグタイムっぽいアレンジの曲をしっかりと挟み込んでいる。そういった曲では中川イサトがストリングベンダーを弾き、加川のやさしい面を盛り立てている。「ジョーのバラッド」はザ・バンドそのもので、その上にサザンソウルのホーンが絡んで、加川のストーリーテラーとしての魅力が炸裂する逸品。往年の関西フォーク的な「地平線」、田舎っぽいファンク「あの娘に乾杯」など、軽い仕上がりの作品も楽しい。7分半にもおよぶ「ホームシック・ブルース」は加川の本当か嘘か分からない物語が延々と語られるのだが、もちろんいつものように最後まで完璧に引き込まれてしまう。いつもいつも彼の歌に引き込まれてしまう自分に腹が立つほどだ。
そんなこんなで全10曲、文句なしの完成度である。特に石田長生のいぶし銀のギターワークは、大塚まさじの『遠い昔ぼくは・・・』(‘76)と並ぶ日本ロック史に残る名演奏のひとつである。そうそう、忘れてはいけないが、アル・グリーンやO.V.ライトを聴くといつも出てくる独特なフレージングのメンフィス・ストリングスの素晴らしさも特筆ものである。
残念なのは、石田長生も加川良もすでに鬼籍に入っていることだ。石田は2年前の2015年7月に62歳で、加川良は今年の4月に69歳で亡くなっている。僕の人生に大きな影響を与えたくれたふたりに心から感謝したい。

TEXT:河崎直人

アルバム『南行きハイウェイ』1976年発表作品
    • <収録曲>
    • 1.転がりつづける時
    • 2.カントリー・ハット・ポップ
    • 3.高知
    • 4.ホームシック・ブルース
    • 5.あの娘に乾杯
    • 6.窓辺にもたれて
    • 7.アラバマ
    • 8.ジョーのバラッド
    • 9.地平線
    • 10.北風によせて

OKMusic編集部

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