『今はまだ人生を語らず』で確信する
アーティスト・吉田拓郎の
桁違いの風格

『今はまだ人生を語らず』('74)/よしだたくろう
日本音楽シーンの変革者
もう少し広く見て、吉田拓郎の名を世に知らしめた「結婚しようよ」が収録された『人間なんて』の発売が1971年で、森進一に提供した「襟裳岬」が第16回日本レコード大賞を受賞したのが1974年である。さらに言えば、1975年には小室等、井上陽水、泉谷しげると共にレコード会社“フォーライフ・レコード”を設立していて、その年の夏には静岡県掛川市・つま恋で、野外オールナイトコンサート『吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』を開催しているので、1970年代前半を吉田拓郎の絶頂期と捉えてもいいだろうか。いや、自作のヒットだけでなく、提供曲の大ヒット、新たなレコード会社の設立、さらには今となっては“元祖夏フェス”とも言われる大規模コンサートの開催となると、絶頂期だの何だの言う以上に、吉田拓郎はこの時期、日本の音楽シーンの中心に居て、けん引していたという言い方がぴったり来るのではないかと思う。当コラムは連載初期、メジャーデビュー作『元気です。』を取り上げている。
その中で著者の河崎直人さんは吉田拓郎を指して<“アンダーグラウンド”だと考えられていたフォークが、“オーバーグラウンド”にある歌謡曲と同じ土壌である音楽産業の中に浸透していく瞬間であり、Jポップ誕生のひとつのきっかけであったと僕は思うのだ>と書かれている。シンガーソングライター、アーティストと言う以前に、変革者、革命家と呼ぶに相応しい人物なのかもしれない。
さも“私、拓郎のこと、よく知ってます”みたいな書き出しで始めたけれど、その1970年代前半というと、筆者はまだ物心が付くか付かないかの頃。「襟裳岬」は薄っすら覚えているものの、それを吉田拓郎が作曲したとは思ってもいなかったし、「旅の宿」や「結婚しようよ」を知るのはそこから先のことであった。“フォーライフ・レコード”設立の経緯に至ってはこの仕事を始めてから知った。氏の活躍がどのくらいのものであったのかをリアルタイムで見聴きしていないので、自分の中での吉田拓郎はほとんど“歴史上の人物”枠に入っている。ちなみに総理大臣・田中角栄やサードを守っていた長嶋茂雄もその枠である。なので、斉藤和義「僕の見たビートルズはTVの中」じゃないけれど、自分が知る吉田拓郎は大概文章の中において…ということになる。後年、熱心に音源を聴いていたわけでもないので、音楽性に対する知識も先達の評論から仕入れたものがほとんどである。
ここでまた河崎直人さんのコラムを引用させていただく。<拓郎登場以前のフォークは、社会性を持つものや、思想的な主張を歌に乗せることが大切だと考えられていたが、拓郎が登場してからは、個人的な心情や、男女間についてなど、よりパーソナルな内容を歌うことのほうが大切だというように変わっていく><フォークに“意味”や“思想”を求めていた、これまでの旧世代のファンではなく、歌のバックボーンにこだわりを持たない、フォークを新しい歌謡曲の一種として受け止める、新世代のリスナーを拓郎が獲得した(中略)。絵空事のような歌謡曲が時代にそぐわなくなったのと同様に、反体制を売り物にしたフォークも古くなってしまっていただけに、一般大衆は吉田拓郎を選択したのである>。自分が抱く吉田拓郎のイメージもまさにこれである。吉田拓郎以前のフォークソングはプロテスト寄りで、以後は、さすがに軽佻浮薄とまでは言わないけれど、社会への主義主張のない楽曲が中心となったと教わった気がする。「結婚しようよ」や「旅の宿」もそのカテゴリーに当てはまると思っていたのである。しかし、イメージの大掴みの何と危険なことか。
今回、『今はまだ人生を語らず』を聴いて、それを痛感して反省したし、吉田拓郎に対する個人的な印象は大分改まった。少なくとも“吉田拓郎以前=硬派、吉田以後=軟派”と単純化されるものではない。先輩方から“今さら言うな!”と叱られる話ではあると思うが、それは覚悟の上。以下、筆者が本作『今はまだ人生を語らず』から感じた、言わば“社会派・吉田拓郎”を抽出してみたいと思う。(本稿の<>はすべて当コーナーで2014年4月に掲載された河崎直人さんのコラムから引用。是非こちらもお読みください)
https://okmusic.jp/news/38635
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