『今はまだ人生を語らず』で確信する
アーティスト・吉田拓郎の
桁違いの風格
体制に対する反論、形骸へのカウンター
《おはよう!/死んだふりは やめなさい/おはよう!/生きていくのが 下手な男たち》《おはよう!/てれ人間が あふれてる/おはよう!/働きすぎる やさしい男たち》(M4「おはよう」)。
《理由のわからないことで/悩んでいるうち 老いぼれてしまうから》《いじけることだけが/生きることだと 飼い馴らしすぎたので/身構えながら 話すなんて/ああ おくびょうなんだよね》(M7「襟裳岬」)。
M4は高度経済成長期の影を指しているようでもあるし、アイロニカルな視点が感じられる。M7はこの歌詞単体ではその意味はぼんやりとした印象だが、M2を経てから聴くと、実は結構な攻撃性を帯びているのでは…と考えてしまう奥深さがあるように思う。いずれにしても、大衆に迎合しているような印象は受けないし、軟弱だとも思えない。
個人的に最も強烈なインパクトを感じたのはM8「知識」である。
《どこへ行こうと勝手だし/何をしようと勝手なんだ/髪の毛を切るのもいいだろう/気づかれするのは自分なんだ》《人を語れば世を語る/語りつくしてみるがいいさ/理屈ばかりをブラ下げて/首が飛んでも血も出まい》《言葉をみんな食い荒らし/知識のみがまかり通る/一人になるのに理由がいるか/理由があるから生きるのか》《自由を語るな不自由な顔で/君は若いと言うつもりかい/年功序列は古いなどと/かんばんだけの知識人よ》(M8「知識」)。
具体性には乏しいけれども、心情を吐露する…なんてレベルではない。明らかに何かを主張している。何かを攻撃していると言ってもいいかもしれない。ここでもまた政治的メッセージはないけれども(たぶん)、《髪の毛を切るのもいいだろう》には時代性があるし、《年功序列は古いなどと》辺りは完全に社会派なフレーズと捉えてもよかろう。当時、フォークソングは反体制であり、反体制でないものはフォークではないと、生粋のファンから糾弾されることもあったという。あくまでも個人的には…と前置きするが、このM8の歌詞からは、そうした“フォーク=反体制”といった構図を含む、ひとつの体制に対する反論が感じられる。形骸へのカウンターという言い方でもいい。そんな風に思ってアルバムを聴き進めていくと、ラストM12「贈り物」に辿り着く。ブラックミュージックテイストのある、ザラっとしたバンドサウンドに乗って聴こえてくる歌詞はこんな内容だ。
《終わってたんだよ 何もかもが/その時から みんなまちがいだらけさ/もう行くよ もう何も言えなくなった》《それから君の好きだった“雪”は/誰かに唄ってもらえばいいさ/今はわかり合おうよって時じゃないんだ/これで少しは気が楽になるだろうネ》《笑ってたんだよ 心の中で/僕にはそれがきこえてくるんだ/捨てちまうよ 君のくれたものなんて》《それは小さな物語なのさ/暗い路地に吐き捨ててしまおう/だから とどまるよって言わさなかった/そんな君にも罪などありゃしない》(M12「贈り物」)。
吉田拓郎作品は本作くらいしかちゃんと聴いてないし、前述した通り、それもリアルタイムで体験したわけじゃなく、先週初めて聴いた。よって、筆者は吉田拓郎や当時のミュージックシーンについて本質的な理解はできていないと思う。だけれども、このアルバムは風情ある大衆歌を綴っただけのものではないことははっきりと分かったし、むしろメッセージは多めのように思われるところは、ここまで述べてきた通りである。明確な意思表示があることは明白である。そのアルバムに『今はまだ人生を語らず』というタイトルを付けていることに、比類なきセンスを感じる。1970年代前半以降、フォークソングが吉田拓郎の代名詞になったというのも無理からぬところだったであろう。ひとりのアーティストとして群を抜いていたのだ。
TEXT:帆苅智之