鈴木雅之が抱いてきた
ブラックミュージックへの敬愛を
日本の大人の音楽へと昇華させた
『FAIR AFFAIR』
特有の泥臭さを脱臭、中和
M2、M8のいずれにもそれが見て取れる。まず大前提として、M2、M8以外もサビメロはキャッチーで分かりやすいものばかりではあるのだが、そこに乗せる歌詞を英語に逃げることがない。これは鈴木雅之の楽曲の特徴だと思うし、そればかりか、メロディーに沿った言葉選びが実にお見事なのだ。個人的に最も白眉なのはシングル「違う、そうじゃない」(1994年発表)だと思うが、M2、M8もそれに劣らない独自のポップさを備えていると考える。M2は楽曲タイトルがそのままサビの歌詞になっており、《冗談》が《冗》と《談》とに分かれてそれぞれ音符に乗っていて、それが他にないリズミカルさを生んでいる。《冗談》をひとつの音符に乗せることもできたと思うが、そうしなかったのは大正解だろう。歌詞の描く物語もポップに昇華させているとも思う。M8は、サビで《あせるなよ あせるなよ》《あきれるよ あきれるよ》とリフレインしており、これもとてもポップだ。そのダンサブルなリズムと相俟って、自然と口ずさんでしまうような効果を作っている。M1の《もう涙はいらない》も同様の言葉の乗せ方だと思うけれども、ポップさではM2、M8に軍配が上がるだろうし、巧みさを通り越して、鈴木雅之のポップアーティストとしての凄みのようなものを感じてしまうのは筆者だけだろうか。
歌詞に関しては、もう2点ほど付け加えたい。全部が全部そうだとは言わないけれども、本場のR&B、ソウル、特にコンテポラリR&Bのリリックには性表現も少なくないと聞く。中には、日本であればコミックソングと思われてもおかしくないような(我々から見たら)とんでもソングもあるそうな。本作にはさすがにそこまでのものはないにしろ、セックス描写と思しきものは見受けられる。
《裸のまま Standby/無闇にさぐったのなら 痛い/汗をかいて All Right/どちらからともなくて最初の Yai Yai Yai》(M3「最初のYaiYai」)。
《耳たぶの裏 小さなほくろ 知らなかったよ こんな所に/ささやきすぎた 僕の心が 黒い点になった/こんな真昼深く抱き合えば 世間なんて どうでもよくなるね》(M4「ためいき」)。
お分かりかと思うが、内容としては本場に忠実でありながらも、日本らしい奥ゆかしさを忘れていないのだ。M3は元BARBEE BOYSの杏子を客演に迎えることで分かる人は分かる内容だし、間奏に配された吐息もそうで、言葉ではなく、聴き手の想像力を搔き立てる、実に巧みに作られた楽曲となっている。そこもお見事だ。
もう一点は、M8に注目した。鈴木雅之を指して“大人の音楽を世に広め、定着させた”と前述した。この“大人”にはM3、M4のような、映画で言えばR18的な描写もあろうし、M1やM11見せる相手を包み込むような愛情も大人ならではのものだろう。そんな中、M8はこんな内容だ。
《所詮 消えるのさ 泡みたいに/打算でふくれた 情熱は/高い料理や 服だけじゃ/おとなには なれはしない》《まるで治らない 病気みたいさ/甘い自堕落も 快楽も/ミツに溺れた その代償を/軽くする クスリはない》(M8「十年はやいよ」)。
こういったことをさらりと言うことができるのもまた大人だろう。決してラブアフェアだけを描くのでないところに本作、そして鈴木雅之の良さを見る。
TEXT:帆苅智之