馬場俊英が
流行に塗れない歌い手であることを
天下に堂々と示した
『人生という名の列車』

自主制作からのメジャー復帰

ブームの下り坂での契約終了となると、もはや浮上の目はない。浮上どころか、そのまま音楽業界から消えてしまったとしても何ら不思議ではない。当時そんなアーティストはあまた居たと思う。しかし、馬場俊英はそうではなかった。2000年にレーベルとの契約が終わってから、活動の場をインディーズに移した。自主レーベルを設立し、前述したアルバムを制作。聞いたところによると、その時期には自分のCDを自らショップに納品したこともあったというから、インディーズというカテゴリではなく、自主制作と言った方がしっくりくるかもしれない。自身のライヴ活動と並行して、他者への楽曲提供も行なっていたそうだが、少なくとも、1~2年は地味な活動が続いたようだ。

そうした活動を続ける中、2004年にラジオ番組内の企画として生まれた「ボーイズ・オン・ザ・ラン」がコブクロにカバーされ、2005年には、これもまた同番組内で制作された「人生という名の列車」を、その後、テレビのバラエティー番組において内村光良やさまぁ〜ずらがカバー。馬場俊英にも注目が集まり、ついに彼はメジャーレーベルと再契約を交わすこととなる。2005年8月にリリースした、「ボーイズ~」も収録した4曲入りシングル「BOYS ON THE RUN 4 SONGS」が再メジャー音源の第1弾であり、それに引き続いて、満を持して発表されたのが今回紹介する7th『人生という名の列車』である。本作には彼の再浮上のきっかけとなったと言える、その2曲も収録されており、ともにそのインディーズ期に彼が何を想って活動していたのかがよく分かる代物である。

《一体誰があの日オレに一発逆転を想像しただろう?/でもオレは次の球をいつだって本気で狙ってる/いつかダイアモンドをグルグル回りホームイン/そして大観衆にピース!ピース!ピース!ピース!ピース!/そしてさらにポーズ!》(M1「ボーイズ・オン・ザ・ラン〜Album version〜」)。

《前略 父さん母さん あなたたちもこの風に吹かれていたんだと/この向かい風に立ち向かっていたんだと/遅まきながら知った気がした あれは平成十年》《どんなときも信じる事 決してあきらめないで/向かい風に立ち向かう 勇敢な冒険者でありたい 平成十八年》(M9「人生という名の列車」)。

M9の《平成十年》は彼が最初にメジャーデビューした年。《平成十八年》は当初“平成十七年”だったものを改変したというが、前者は本作がリリースされた年で、後者は再メジャーデビューした年なので、どちらにしても、馬場俊英の個人史にとって重要な年である。M1は4th『フクロウの唄』と5th『鴨川』にも収録されており、それをメジャー復帰アルバムの1曲目に置いたことでも、彼にとっていかに大事なナンバーであったかがうかがえる。ともにフォークロック的楽曲で、今聴いても音源に見事に閉じ込められた迫力──“鬼気迫る感じ”と言っていいかもしれない──を体験できるのは間違いない。M1は過去に挫折を味わったことがある人なら必ずや共感できるだろうし、M9は彼と同世代(…ということ今はいわゆる“アラカン”か?)は今も落涙必至ではなかろうか。もちろん、世代や背負ってきたものが違う人でも、これらの楽曲に何かしら感じるものはあるだろう。だからこそ、この楽曲群は“CDバブル”の終わりとともに一旦メジャーを離れた馬場俊英自身を再びシーンに浮上させたのだ。それは疑いようのない事実だろう。

OKMusic編集部

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