タイタニックの
沈没事故から歌が生まれ、
ポピュラー音楽の側面が見えてくる
バラッドが音楽と結びついていく
そして、アメリカにおける大衆音楽、ポップミュージックのある意味で最深部にいて、立役者となったのがストーンマンやカーター・ファミリー、スキレット・リッカーズ、フィドリン・ジョン・カースン、デルモア・ブラザーズ…ら、先に挙げたウディ・ガスリーやレッドベリーを含め、ボブ・ディランが教科書のようにしていた人たちだ。そして、その音楽は彼らが活動した主に米国南部、ヴァージニアからジョージアまで、アパラチア山脈に近接した丘陵地帯で奏でられ、移民を先祖に持つ、垢抜けない田舎者の音楽と揶揄され、ヒルビリーと呼ばれていた。ヒルビリー(やや差別的なニュアンスが含まれる)という音楽はカントリー・ミュージックの前身とされ、ブルーグラスやフォークに流れていく一方、ブルースやR&B、ゴスペルと融合することでロックと結びつき、ロカビリー…つまりエルヴィス・プレスリーに出現に結びついていくのだが、元をたどり、その音楽の成り立ちの背景には移民としてヨーロッパから大西洋を渡ってアメリカにやってきた人たちがいて、さらに祖先を遡ればスコットランドやイングランド、アイルランドなどの、バラッドの郷にたどり着くわけである。ストーンマンやカーター・ファミリーの音楽にマーダー・バラッド、災害ソングが受け継がれているのも納得できることではないだろうか。
最後にアーネスト・ストーンマン(Ernest Van “Pop” Stoneman)について触れておく。アメリカ音楽のパイオニアのひとりである彼は、1893年にヴァージニアの農家で生まれたとされる。鉱山で働きながらファミリーで音楽に親しみ、彼自身ソングライター兼ヴォーカル、ギター、オートハープ、ハーモニカ、クローハンマーバンジョー、ジューハープなど、多彩な楽器演奏にも秀でた才能を発揮する。ファミリーをメンバーとしたストリングバンド(弦楽器主体のバンド)を率い、1925年から1929年にかけて、200曲以上をレコーディングしたとされ、カーター・ファミリーやジミー・ロジャースらとともに後のカントリーミュージックの礎を築く。1968年に75歳で没している。
タイタニックに関連する事故から、ポピュラー音楽の流れのひとつを辿ってみた。けっして重苦しく、沈痛な音楽ではないので(むしろ楽しい)、まずは聴いてみてほしい。
TEXT:片山 明