イーグルスの盟友であるジャクソンブ
ラウンの最高傑作『レイト・フォー・
ザ・スカイ』

イーグルスの大ヒットナンバー「テイク・イット・イージー」の作者のひとりであり、70年代前半の日本でのシンガーソングライター・ブームのきっかけを作ったのがジャクソン・ブラウンだ。74年に発表された本作のヒットで、日本でもファンは激増した。彼の3rdアルバムとなる本作『レイト・フォー・ザ・スカイ』は、シンガーソングライターというジャンルの中にあって、キャロル・キングの『タペストリー』やジョニ・ミッチェルの『ブルー』などに比肩し得る最高の成果のひとつである。

ロックフェスとヒッピー文化

60年代後半、アメリカではロックフェスティバルに人気が集中していた。特によく知られているのは、ニューヨーク郊外で開催された『ウッドストック・フェスティバル』だ。今では日本でもフェスが定着しているので珍しくはないが、当時30万人以上が集まった『ウッドストック』の映像を観た時、その観客の多さに僕は腰が抜けそうになった。
同じ頃、西海岸のロサンゼルスやサンフランシスコでも、大掛かりなフェスが開催されており、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、スティーブ・ミラー・バンド、モビー・グレイプなど、サイケデリックロック(1)のグループが人気を博していたのだが、これら西海岸のフェスは、日本に向けて映像で紹介されることが少なかった。当時の西海岸はドラッグの規制が緩く、ヒッピー(2)たちがマリファナやLSDでキメて、奇妙な行動をすることが多かったため、日本では教育的配慮からそういった映像の公開を自粛していたのではないかと僕は推測している。
ヒッピー文化は凄惨を極めたベトナム戦争(3)への反発から生まれたものであり、ベトナム戦争が終結しつつあった72年頃から徐々に衰退していくのだが、“ラブ・アンド・ピース”“長髪にジーンズ”“ウーマン・リブ”“原発反対”“自然へ帰ろう”“フリーセックス”などのスローガンやライフスタイルは、アメリカ全土だけでなく世界中に広がっていく。特に日本では高度成長期が終わり、アメリカの若者たちと似た環境にあったためか、西海岸発の文化は大いに浸透し、80年代に入っても長髪&ジーンズ、サーフィン、ジッポライター、ウエスタンブーツ、ウエストコーストロックなどが流行した。

ロックバンドからシンガーソングライタ
ーへ

ロックの世界もこのヒッピースローガンの影響を強く受け、それまでの“抑圧された自己の解放”“怒りの発散”“反社会・反体制”といった社会に向けたメッセージ性の強いハードなサウンドから、“自己を見つめ直す”“自然と共生する”“ゆっくり行こうよ”など、個人の生き方を模索するようなソフトなサウンドへと移行していく。
それらのメッセージを受け登場してきたのが、フォークソングやカントリーに影響されたシンガーソングライター(自作自演歌手)というスタイルだ。70年初頭に相次いで登場してきたキャロル・キング、ジェームス・テイラー、ジョニ・ミッチェルらは、リスナーの身近な存在として急激にファンを増やしていた。日本でも同様に、岡林信康や高田渡らに代表される社会派のシンガーから、吉田拓郎や井上陽水らのような個人的な題材を歌うシンガーへと人気が移行していくのだが、これは世界的な潮流であったと思う。
蛇足であるが、ボブ・ディランは60年代中期にはすでにこのスタイルを確立していたので、シンガーソングライター的な歌手から神格化され現在に至っている。

アサイラムレコードの躍進

70年初頭の音楽業界においては、大手レコード会社はまだ第二のレッド・ツェッペリンのようなハードなロックグループを発掘していたのだが、ローラ・ニーロやクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ、ジョニ・ミッチェルらの敏腕マネージャーとして知られるデビッド・ゲフィン(4)は時代の風を読み、若手のシンガーソングライターを発掘しようとしていた。
そのゲフィンがジャクソン・ブラウンを知り、デビューさせようと大手のアトランティックレコードに話を持ち込むが、「資本を出すから君がレコード会社を作って出せばいい」と助言され、友人のエリオット・ロバーツと立ち上げるのが新興のインディーズレーベル『アサイラムレコード』だ。アサイラムは、言わばジャクソン・ブラウンのアルバムを出すために立ち上げたようなものだが、ゲフィンの手腕は際立っていただけに、ジャクソン・ブラウンの他、イーグルス、リンダ・ロンスタット、トム・ウエイツらドル箱スターたちを次々に送り出し、アッと言う間に世界中に知られるレーベルとなった。
その後、アサイラムレコードを売却したゲフィンは、80年代にはゲフィンレコードを創設し、ニルヴァーナやソニック・ユースと契約、グランジ〜オルタナティヴロックを世界中に認知させることになる。

『レイト・フォー・ザ・スカイ』の制作

アサイラムからリリースした、ソロデビュー盤の『ジャクソン・ブラウン』(‘72)、2nd『フォー・エブリマン』(’73)の2枚は、アメリカ西海岸のトップセッションマンがバックを務め、セールス的には奮わなかったものの、どちらも文句の付けどころのない仕上がりであった。しかし、ブラウン自身はソロシンガーであるにもかかわらず、自分のバンドでレコーディングやライヴ活動をやりたかったようだ。実際、先の2枚は参加ミュージシャンたちへの指示や説明を何度も繰り返し行ない、スタジオ内での作業に多くの時間を使ってしまうので、ゲフィンから「もっと録音時間を短縮するように」との助言(叱責かも)を受けていた。
ブラウンはあらゆる手を尽くし、3作目のレコーディング前に、ようやくパーマネントのジャクソン・ブラウン・バンドが結成される。前作で驚異的なギタープレイを披露したデビッド・リンドレーをはじめ、ラリー・ザック、ジェイ・ワインディング、ダグ・ヘイウッドら、優れたメンバーによってレコーディングは開始され、ブラウンの目指していた音楽が完成した。彼が予定された〆切と予算を守ったのは、本作が初めてのことである。
レコーディング時には、イーグルスのドン・ヘンリー、ジョン・デビッド・サウザー、ダン・フォーゲルバーグ、テリー・リードら、彼の旧友たちが日替わりでスタジオを訪問し、バックヴォーカルで参加している。リンダ・ロンスタットも来たそうだが、声が合わなかったのかクレジットはされていない。

本作の私小説性と陰鬱さ

74年に本作がリリースされると、ビルボードで14位まで上がり、彼のアルバムとしては初のゴールドディスクも獲得する。評論家からも絶賛されるのだが、本作のヒットは実は普通のパターンではない。なぜなら、本作にはシングルヒットがないのだ。前の2作にはどちらもシングルヒットがあったのだが、本作ではシングルカットされたものの、ランク外の結果となっていた。アルバムは売れるがシングルは売れない…これは何を意味するのか。リスナーたちは、『レイト・フォー・ザ・スカイ』をアルバムとして聴くべき作品であると判断したのだろう。そして、その判断は正しかった。
ビートルズの『サージェント・ペパーズ〜』やビーチボーイズの『ペット・サウンズ』のようなコンセプトアルバム(5)とも違う、ブラウン独自のストーリー性を持った作品が本作(前作『フォー・エブリマン』も同じコンセプトだ)で、主人公の日常を描いた短編の連作を読む感覚とでも言えばよいだろうか。
アルバムを聴き終わった時、何を感じるかと言えば、彼の深い孤独と悲しみの感覚である。陰鬱な重苦しさがアルバム全編を貫いているので、これを読んだ人は「そんなアルバム聴きたくない」と思うかもしれない。でも、彼の悲しみの源がどこにあるのか、きっと知りたくなると思うし、裸の自分をとことんさらけ出すジャクソン・ブラウンという孤高のシンガーソングライターがいるってことを知るだけでも、本作を聴く意味はあると思う。
この作品が気に入ったら、彼のことをもっと知りたくなるはずなので、ほかの作品もぜひ聴いてみてほしい。少なくとも、1枚目から5作目の『孤独のランナー(Running On Empty)』(‘78)までは、どれも甲乙付けがたい名盤なので…。

著者:河崎直人

OKMusic編集部

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