ポジティブなロックスピリッツと、高
い文学性を同居させたパティ・スミス
のパンク期の名作『ラジオ・エチオピ
ア』

 代表的な女性ロックシンガーを挙げろと言えば、誰が思い浮かぶだろう。ただ単にシンガーとすると、すぐに幾つもの名前が羅列されるけれど、ロックとなると古いところでジャニス・ジョプリンや同じスタイルで人気があった英国のマギー・ベル、ジェファーソン・エアプレーンのグレース・スリック、新しいところでビョークとか…案外思いつかない? 吟味すればいろんな人がいるのだが、70年代以降、最も女性ロックシンガーとして、色褪せることなく存在感を示し続けているのはパティ・スミスではないだろうか、と。今回は彼女の名作『Radio Ethiopia (邦題:ラジオ・エチオピア)』('76)を取り上げつつ、リリースされた当時の状況、彼女の活動などを振り返ってみたいと思う。

 現在においても彼女、パティ・スミスのことを“クィーン・オブ・パンク”と呼ぶ人はまずいないと思うのだが、デビュー当時、そしてこのアルバムが出て雑誌やラジオなどのメディアが取り上げる際の謳い文句はまさにそれだった。
 私自身、その文言に乗せられてデビュー作『Horses (邦題:ホーセス)』('75)をまず買ったのだが、第一印象は世間で言われているような〈パンク=破天荒、過激〉荒々しさをまるで感じることはなく、ずいぶん大人しいというか、文学的だな、と感じたものだった。実際に彼女は女流詩人としてニューヨークのアートシーンでは既に認められる存在だったわけで、前評判とは違ったものの、内容同様その雰囲気を詰め込んだデビュー作は彼女らしさが100パーセント発揮されたアルバムだと言っていい。モノクロームで撮影されたジャケット写真は、かつての恋人であった写真家ロバート・メイプルソープによるもので、これはロック名盤ジャケットの10指に入る素晴らしいものだ。あまり女性的と言えない、かといって男性的とも言いがたい。じゃ、中性的なのかと言われれば、そういうのとも違うのだが、パンクと言われるイメージとは異なる、案外清楚な風を写真から感じたものだった。このデビュー盤は元ヴェルベット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルがプロデュースを担当したもので、オープニングはヴァン・モリスンのアイルランド時代のR&Bバンド、ザ・ゼムのヒット曲「グローリア」だ。これには一発でノックアウトという感じだった。ここから何かが始まることを暗示させる、静かなイントロ、後半へ熱を帯びていく展開が最高に格好良い。だが、アルバム全体としてはそれほど激しいロックサウンドが支配しているわけでもなく、パティも痛烈に言葉を吐き出すことも、歌い込んでいる風でもない。ステージでの写真などを雑誌で見ると、相当に激しいステージングを見せているふうだが、その雰囲気はアルバムにはない。そこのところが、物足りなく思えたのも確かだった。
 それでも、しゃっくり上げるような個性的な歌い方、性別などに頓着するのではなく、言いたいことを真正面から主張するというような強気な姿勢はそれまでのシンガーにはないもので、圧倒的に格好良く思え、当分この人についていこうと…惚れ込んでしまった。そして、『Horses』がターンテーブルに乗らない日はなかったものだ。
 当時を振り返ってみると、パティのいたニューヨークパンク派は彼女の他に、ラモーンズ、テレヴィジョン、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ、ブロンディ、ウェイン・カウンティ&エレクトリック・チェアーズ、少し遅れてトーキング・ヘッズ…等々が、対するイギリス勢はセックス・ピストルズを筆頭にクラッシュ、ダムド、ストラングラーズ、ジャム、ゼネレーションX…等々といったところが有名どころとして認知されていた(あくまでマニアに)。
 この時代(パンク、ニューウェイブ)というのは、こうしたバンドがアンダーグラウンドから出没してミュージックシーンを掻き乱しつつあるものの、ストーンズやツェッペリン、エルトン・ジョン、その他のロングヘアーな、一般にはオールドウェイブと揶揄されたバンドが相変わらず幅をきかせており(エルトンは既に髪はなかったが)、アメリカでもイーグルスやドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、フリートウッド・マックらの西海岸ロックがヒット作を連発し、またビージーズが映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』で大ヒットを飛ばし、世間では空前のディスコブームが巻き起こっていたのだった。オールドウェイブ勢が作るアルバムがクズばかりというわけではないのだが、何となくポジティブなクリエイティブセンスを感じさせず、惰性でやってるようなロックが蔓延し、それに異を唱えることなくリスナーも受け入れているというユルい状況だったような気がする。一方で、そうしたロックに辟易したマニアなリスナーが飛びついたのがパンクロックであり、もう一つはジャマイカやロンドンを震源地とするレゲエだった。さらに加えるとすれば、カンやファウスト、ノイといった、それまで見向きもされなかったドイツのロックもにわかに注目を浴び始めたという感じだったろうか。
 パンクロックのスピリッツは60年代初期にビートルズやストーンズ、ザ・フー、さらに多くのビートバンドが出現した際に彼らが抱いていた志と大差ない。体制に巻かれたような音楽ではなく、真に独創的な姿勢を貫く姿勢は実に新鮮だった。それでも、セックス・ピストルズがスキャンダラスなニュースをまき散らしていた頃の、パンクロックに対するメディアの論調は、せいぜい60年代、70年代をリードした“ロック=体制”からの視点で語られるものばかりで、おおむね「陳腐」「稚拙」「主流派への反抗」みたく、ひどく偏見に満ちた語られようであったと思う。いかにロックが産業化した結果、保守派に傾いていたかという表れだと言えようか。しかし、現在において再検証すれば、あのセックス・ピストルズだってなかなかしっかりした演奏をキメている。ヴォーカリストの力量が言うに及ばず、曲作りのセンスも抜群だ。彼らに関して言えば初代ベーシストのグレン・マトロックはうまいプレイヤーだった。誰の入れ知恵か(マルコム・マクラーレン?)、彼を袖にしてシド・ヴィシャスみたいなクズを引っ張り込んだのが間違いだったのだ。今回の主役であるパティ・スミス・グループもなかなか演奏力は高い。トム・ヴァーライン率いるテレヴィジョンは、もしかするとマーク・ノップラー率いるダイヤー・ストレイツに負けず劣らず超絶技巧なギターバンドだったのではと、今にして思う。エリック・クラプトンには、ぜひ主宰する『クロスロード・ギター・フェスティヴァル』には、テレヴィジョンもしくはトム・ヴァーラインに出演要請することを進言したいものだ。本当に、あのバンドを当時、稚拙と決めつけた歪んだリスナーの気が知れない。と話が逸れかけたところで、ロンドンパンクとニューヨークパンクはそもそもの発生から違うし、音楽の指向性も似て非なるものだったと思う。ロンドンパンクが最初は労働者の不満や社会への不満、若者のやり場のない怒りを音楽にぶつけるというものであったのに対し、ニューヨークパンク、とりわけラモーンズやブロンディのような音楽を聴いていると、あきらかに50年代、60年代のロックンロール・リヴァイバル・ムーブメントなのではないかと思ったりした。またアートシーンとの関わりも大きく、パティ・スミスなどはやはり詩の分野ですでに活躍し、前述の写真家ロバート・メイプルソープや劇作家、俳優としての活動でも知られるサム・シェパード、そしてボブ・ディランらとも交遊があった。
 当時、パンク/ニューウェイブのシーンをとらえたドキュメンタリー短編映画『Blank Generation (邦題:ブランク・ゼネレーション)』というのがあった。日本でもミニシアター系で公開され、私はそれを伝説の京大西部講堂で行なわれた上映会に参加して観た。記憶を手繰ると、凄惨な雰囲気漂う会場には翌日に同会場で行なわれるイベントのために来ていたのだろうか、フリクションやリザードといった東京ロッカーズと呼ばれた日本のパンクバンドの連中がぞろぞろ集まっていて、彼らが醸し出す殺伐とした雰囲気の中で、息を潜めてスクリーンを見つめていた覚えがある。今となっては笑えるが、ただでさえ薄暗闇の中、メンバーの多くが黒いサングラスで革ジャンという出で立ちでうろついており、禁煙なんて無視してタバコを吹かし、酒をラッパ飲みしながら、周囲にガンを飛ばしているという中では、二十歳になるかならないかのガキには恐ろしくて縮こまっているしかなかったのだ。
 このドキュメンタリー映画『Blank Generation 』は時代のアンセムというか、言うまでもなく、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズの代表曲からタイトルは取られている。ちなみに、この映画を監督したのはパティ・スミス・グループのアイヴァン・クラールだ。映画は京都での上映会から何カ月かして、一度テレビ(たぶんNHK)でも放映されたのを観たような記憶があるのだが、曖昧な記憶でやや心許ない。試しに動画サイトをチェックしてみたのだが、見当たらないのだ。映像の中ではパティの姿は文句なしに格好良かった。颯爽としていて尖っていて、緩んだところが微塵も感じられない。意外だったのは、トレーニングジムに通って懸命に筋トレに励んでいるシーンが有り、あの痩せた体躯も不健康な生活によるものではなく、シェイプアップしているのだな、と、やけにと感動したものだ。そんなシーンを確かに観たと思うのだが、本当かと問われると心許ないのだ…(すいません)。
 その映画でも感じたが、キリッと屹然とした姿はいかにもニューヨークという街そのものというか、自分の中ではいつしかニューヨークを象徴する人物としてパティ・スミスの姿がかぶさってきたものだった。それにしても、映像の中でも時折見せる屈託のない子供のような笑顔が妙に可愛らしく、その落差も彼女を魅力的にしていた。だが、何と言ってもあの独特のヴォーカルのスタイルである。上手い下手ではなく、感情に訴えてくるスタイルは、ジャニスのようなロック、ブルースのシンガーとも全然違っていた。むしろ、シャンソンやイタリアのカンツォーネなんかのほうが、探せば似たシンガーが見つかるかもしれない。ちなみに彼女にこのユニークなヴォーカルスタイルのアドヴァイスしたのは、付き合いのあったトッド・ラングレンとも、かつての恋人で、パティ自身バンドに一時加入したこともあるブルー・オイスター・カルトのアラン・レニエとも言われているが。
※映像作品としては、ライヴを収録した公式アイテムもリリースされているようだが、『Dream of Life / パティ・スミス』(2010)という、彼女の半生を本人へのインタビューを織り交ぜつつ構成されたドキュメンタリー作品がある。彼女の人となり、生き様、人生への向き合い方、闘うさまがうまく映像化されており、おすすめだ。
 パティは1946年生まれ。ニュージャージー州のウッドベリーというところで育っている。父親は工場従業員で、母親はウェイトレスをしていたという。二人の妹と弟が一人いて、彼女は長女だった。あまり学校には馴染めなかったようで、高校生ぐらいからリアルタイムでストーンズやジミ・ヘンドリックス、ドアーズなどのロックに傾倒していく。ハイスクール卒業後、一応は大学に進学するものの、やはり馴染めずに中退すると、1967年頃、家出同然でニューヨーク・シティに向かう。実家のあったウッドベリーを調べるとほぼフィラデルフィア(都会)近郊なのだが、やはりニューヨーク・シティに憧れがあったのだろう。アートスクールに通って美術や演劇を学ぶうちにロバート・メイプルソープと知り合う。メイプルソープはゲイで、後にエイズで亡くなるのだが、この頃はパティと、そう恋人同士だったのだ。有名なチェルシーホテルに住み、ニューヨークのアンダーグラウンドのアートシーンと関わりを深め、やがて詩作を始め、街頭や舞台で朗読を始める。有名なグリニッジ・ヴィレッジのセントマークス教会での朗読会に参加するうち、レコード屋の店員(兼業で音楽ライターもやっていた)だったレニー・ケイと知り合い、彼が詩の朗読の際にギターの伴奏を付けるようになる。この二人に次第にメンバーを加え、出来上がるのが後のパティ・スミス・グループである。
 1974年にはロバート・メイプルソープが費用を負担し、その頃恋人だったテレヴィジョンのトム・ヴァーラインが制作に協力してパティの初のシングルレコード(Hey Joe/Piss Factory)が発表される。その頃はまだ世間ではまるで報じられることはなかったが、ニューヨークではアンダーグラウンドのロックシーンが少ずつ脚光を浴び始め、ニューヨークにおけるパンクロックの総本山として知られるようになるクラブCBGBやMax's Kansas Cityといったライヴハウスで様々なバンドがギグを行なうようになっていた。パティたちもそこに含まれていたわけだが、様々な交友関係と詩人として認められるうち、彼女はすでにメジャーアーティストになっていたブルー・オイスター・カルトやトッド・ラングレンのアルバムに詩を提供したりしていた。時期的にはMax's Kansas Cityの常連だったニューヨーク・ドールズのアルバムをラングレンがプロデュースしたのもその頃のこと。パティはまさにこの周辺にいて、同じパンクバンドの中でもその才能において図抜けた存在になっていたわけだ。
 やがて、1975年になってパティとバンドの評判を聞きつけたアリスタレコードが契約を申し出、制作されたのが記念すべきデビュー作『Horses 』('75)だった。レコーディングはパティあこがれのジミ・ヘンドリックスゆかりのエレクトリック・レディ・ランドで行なわれ、バンドの他にトム・ヴァーラインやブルー・オイスター・カルトのアラン・レニエ(キーボード)も参加している。
 ちなみに、この頃はまだパティ・スミスとそのバンドというものだったが、2作目となる『Radio Ethiopia (邦題:ラジオ・エチオピア)』('76)からは“Patti Smith Group”と明記され、パティもあくまでバンドのヴォーカリスト、ソング・ライターという役割になっている。
 メンバーはデビュー時からレニー・ケイ(ギター)とジェイ・ディー・ドーハティ(ドラム)にリチャード・ソール(キーボード)、アイヴァン・クラール(ギター)というラインナップ。パティの一番の理解者とも言えるのがレニー・ケイなのだが、彼はサイドギタリストだけでなく、作曲やアレンジにも協力してバンドリーダーとしての役割をこなしている。元はロックライターとして雑誌の編集者の仕事をしていたという、そうしたエディター的な才能を発揮し、B級(失礼)ロックバンドばかりを集めたCD集『ナゲッツ』をディレクションしたことでも知られる。このうち、2014年現在もレコーディングやライヴでパティを支えているのはレニー・ケイとジェイ・ディー・ドーハティのみ、アイヴァン・クラールはパティ・スミス・グループ活動休止後はイギー・ポップと活動を共にしていたが、その後、出身地であるチェコに戻り、現在も祖国で暮らしているようだ(音楽活動を続けているかは不明)。リチャード・ソールもイギー・ポップのバンドに入っていたが、惜しいことに急性心不全により1990年に亡くなっている。

時代の空気感までリアルに封じ込めたよ
うな、ロック史に残る傑作

 ようやく、本稿で選んだアルバムを紹介するところまで辿り着いた。先を続けよう。
 デビュー作から1年と置かず制作されたのが『Radio Ethiopia』('76)だった。今度は最初からロック色ムキだしのラウドなサウンドがガッと来る。どうやら、パティをはじめメンバーらも前作の出来に対して、内容には満足したものの、サウンドが貧弱であることに不満を抱いていたらしい。そこで白羽の矢を立てたのが、ジャック・ダグラスというエンジニアだった。エアロスミスの諸作を手がけたことで知られるこの男は、ニューヨーク・ドールズやブルー・オイスター・カルト、アリス・クーパーなどの作品を手がけており、エッジの効いたロックアルバムの制作で名を上げていた。本作から数年後にはジョン・レノンの遺作となる、あの『Double Fantasy』('80)の制作も手がけることなるのだが、長い経歴のエンジニア時代には、既にジョン・レノンの『Imagine』('71)にも関わっていたそうだ。
 レコーディングもダグラスの根城としていたレコードプラントで行なわれている。調べてみると、チャートの記録ではビルボード200で最高位122位となっている。なーんだ大したことないじゃん、という感じだ。もっと売れていたような気もするのだが…。まあ、パンク、パンクと紹介されているうちは、一般には何となく煙たがられていたし、やっぱり絶賛していたのは自分も含め、マニアックなリスナーたちばっかりだったのだろうか。そう、私や数少ない友人関係の間では、このアルバムが大絶賛されたのだった。
 オープニングの「Ask The Angels」からいきなり格好いい。狂おしいパティのヴォーカルが頭の中を突き抜けていくようで、全身全霊、吹っ飛ばされるような圧力を感じたものだった。続く「Ain't It Strange」では一転してレゲエのリズムを取り入れ、ドスンと重点の低いサウンドで責めてくる。そして「Poppies」「Pissing In a River」と続く、レコード時代で言うところのA面の流れが素晴らしく良かった。曲のところどころに聴けるパティのポエトリーリーディングもいい。耳を傾けていると、ヴォーカルやサウンドの背後にニューヨークの街路に轟音を立てて吹きすさぶ寒風のようなものを感じさせるのだ。
 本作を彼女の最高傑作とするファンも多い。私も彼女の一つのピークを示す作品だと思う。
 これを足がかりに世界規模のツアーも行なわれるようになり、パティの評価は高まる一方だった。そうした多忙なスケジュールのせいか、1年のインターバルを置いて制作された次作『Easter』('78)はパンクロックに関心のなかったロックリスナーにまで注目される成功作となる。アルバムに収録されたブルース・スプリングスティーンから贈られた「Because The Night」が英国チャートで5位、ビルボードチャートで13位とヒットを記録し、アルバムも英16、米20位と大ヒットとなったのだ。それまでモノクロのイメージで制作されてきたアルバムのジャケットがカラーになり(撮影は前作に続き、リン・ゴールドスミス)、痩せているわりに薄いキャミソール越しにそれとわかる豊かな乳房や脇毛も話題になったものだ。その頃に来日公演を行ってくれていればと願っていたがそれは叶わなかった。
 翌年、トッド・ラングレンがプロデュースを手がけた秀作『Wave』('79)がリリースされると、パティは元MC5のフレッド・スミスと結婚して、ミュージックシーンから身を引いてしまうのだ。『Easter』の大ヒットによる多忙な日々に嫌気がさしたとか、神を冒涜した報いを受けているのだとか(「Rock'n Roll Niger」という曲でジーザスもニガーだったと言う一節があり、物議を醸した)いろいろな噂が囁かれたが、アルバム『Wave』にはフレッドへの深い愛やどことなく幕引きのニュアンスが色濃く漂っていた。彼女は『Radio Ethiopia』リリース後には活動を停止することをほのめかしていたとも言われている。
 まぁ、仕方ないのだな、と納得はできていたのだが、もうパティのアルバムもライヴも観ることも叶わないのだと、やはりその才能を仕舞い込んでしまうのは惜しまれた。その後、時折伝わってくるニュースでは、彼女はフレッドとの間に子供をもうけ、完全に育児、母親業に専念しているということだった。それはある意味、潔いものだったが...。
 その数年後、デトロイトで暮らしているはずの彼女が久々にアルバムをリリースするというニュースが伝わり、ファンを驚かせた。そして発売された9年ぶりの新作『Dream of Life』('88)は、珍しくレニー・ケイは不参加だったが、ジェイ・ディー・ドーハティやリチャード・ソールといったかつての仲間も参加し、夫フレッドの全面的な協力があり、なかなか素晴らしいものだった。冒頭を飾った「People Have The Power」もヒットを記録した。かつては愛や死、セックス、闇、宗教といった事柄をテーマに歌われる作品が多かったが、ここでは人類愛とでも言うべき、宇宙的なスケールで歌われている作品が増え、家庭を持った安定した生活の中にパティはいるのだ、それも悪くないと思ったものだった。制作中には二人目の子供の出産もあり、アルバムは一度中断するなど、時間をかけて完成している。当時のインタビューでは、パティは別に音楽から身を引いていたわけではなく、幼い子供がいるのにレコーディングだのギグをやれるわけがないではないか、と発言していた。

ニューヨークで体験した、静謐さと激烈
さを併せ持ったライヴ・パフォーマンス

 パティはこれまで1997年、2001/2002年(『フジロックフェスティバル』)、2003年、2009年(『フジロックフェスティバル』)、2013年と日本でコンサートを行なっている。初来日で訪れて以降、日本はお気に入りらしく頻繁にやってきてくれている。特に2002年の『フジロック』のステージでは反戦を強く訴え、また米国人として第二次世界大戦における自国の広島、長崎への原子爆弾投下を謝罪したことも話題になった。また、昨年の2013年の単独ツアーでは東日本大震災のことを思い、ツアーは最初に仙台からスタートするなどの深い気遣いも示されたものだった。
 実は、私は初来日に先立つこと、1995年、旅行で訪れたニューヨークで偶然、彼女のライヴを観る機会に恵まれている。街を散策していた時、たまたま街角に貼られていたポスターを目にしたのだ。ポスターと言っても白地の紙に“Patti Smith/Central Park Summer Stage”の文字ぐらいのもの。ところが日時を確かめたらひっくり返りそうになった。何という幸運か、自分のNY滞在中に行なわれることになっていたからだ。さすがに自分はなんという幸運なのだろうかと思ったものだった。『Dream of Life』のリリースこそあったものの、まだパティがライヴ活動を再開するという情報も何もなかっただけに、俄には信じられなかったが、『Village Voice』などの情報誌を確認すると、確かに彼女のライヴ出演の記載があった。
 あのパティ・スミスのライヴが、ニューヨーク・シティで観られるなんて! ちなみに、その頃は知らなかったのだが、ニューヨークのセントラル・パークでは夏期のシーズン、様々なアーティストが野外ライヴを行うのが恒例行事になっているのだった。
 当日、半信半疑で公園に行ってみると、ゾロゾロと人が集まりかけていた。広い公園とはいえ、周囲には高級アパートも並ぶ界隈なので、ライヴは6時くらいから始まったと思う。チケットも日本では考えられないが、せいぜい15ドル程度だったと思う。予定時刻になると、もったいつけるでもなく、さっさとパティが出てきて、バックの演奏に合わせて詩の朗読が始まった。大歓声だった。最初はゆっくり、それが次第にスピードアップして、猛烈な勢いで言葉が吐き出されていくというのが、かなり長く続いた。悲しいかな、最初から何を語られているのかまったく理解できなかったが、このオープニングのポエトリーリーディングには圧倒されたものだ。最後に「….New York City !!」と叫んで大歓声に包まれたのだが、あとで分かったのには、その時期、数々の不幸(夫フレッド・スミス、弟トッド、ニルヴァーナのカート・コバーン、元バンドメイトのリチャード・ソールらの死)に見舞われ、絶望していたパティはその悲しみを振り払うように音楽活動を再開することを決意し、この日、観衆にもうすぐニューヨークに戻ってくることを告げたのだった。もちろん凄まじいばかりの大歓声が起こった。やはり、ニューヨーカーにとっても、パティ・スミスという人はすでに象徴的な人物の一人になっていたのではないだろうか。
 それから演奏が始まったのだが、かつての代表作から選りすぐりの曲に加え、終盤に拳を突き上げながら歌われた「People Have The Power」の迫力は忘れられない。いや、本当にすごかった。長いコートのようなジャケットを羽織り、すくっと背筋を伸ばして屹立し歌う様は神がかって見えた。ライヴの中盤では彼女が大学中退後、工場で働いていた頃に出産し、生活苦のために養子に出していた息子がステージに上がって共演するという、なかなか感動的なシーンもあった(数年前に再会を果たしていたそうだ)。
 ライヴの感動なんて、なかなか上手く人に伝えられるものではないが、何だかライヴを観る前の自分と、観た後の自分は違う人間になったように感じたことを覚えている。
 彼女はまだフレッドが存命中の1993年頃から時たま『Central Park Summer Stage』に出演して、リハビリを繰り返すようにライヴパフォーマンスを再開していたらしい。この翌年、パティは待望の初来日を果たした。もちろんライヴ会場にも足を運んだものだが、やはり、念願のパティの姿をラッキーな偶然とはいえニューヨークで観られた感激は今も忘れられない。
 現在まで、パティはコンスタントにアルバムを制作し、ツアーも精力的にこなしているようだ。『Dream of Life』以降も『Peace & Noise』('97)、『Gung Ho』(2000)、『Trampin'』(2004)、ジミ・ヘンドリックス、ストーンズ、ニール・ヤング、ニルヴァーナ等のカバー曲で構成された『Twelve』(2007)、『Banga』(2012)と非常に重みのある作品が制作されている。かつてのようなロック云々の世界というよりはオルタナティヴというべきか、より深い思索をもとに、人間の抱える問題や自然、環境問題にも踏み込んだもので、中途半端な作品は一つもない。日本に限らず、アメリカにおいても肝心な時にもの申すアーティストが少ない中、パティは時の政権(大統領ジョージ・ブッシュ)の始めたイラク攻撃に明確に異を唱え、痛烈な批判を浴びせていたものだった。音楽だけでなく、近年は詩作や写真の分野にも才能の幅を広げ、2013年の来日時にはタイミングよく自伝『ジャスト・ キッズ』と、詩集『無垢の予兆』の出版もあり、書店でトークショーも行なわれたようである。現在、彼女も68歳。“クィーン・オブ・パンク”と呼ばれたかつてのそれは、“ゴッドマザー・オブ・パンク”などと呼ばれたりするらしいが、今なお格好いい彼女の姿に、それは相応しい呼び方なのかどうか、私には分からないけれど。

著者:片山明

OKMusic編集部

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