“黒いジョン・レノン”と謳われたレ
ニー・クラヴィッツが発表した魂の一
枚『Let Love Rule』

デビュー25周年を迎えた昨年、10作目のアルバム『ストラット』をリリース。健在ぶりをアピールしたソウルフルでファンキーなロックンローラー、レニー・クラヴィッツ。その活動の原点となったデビューアルバムが当時のシーンに与えた衝撃を今一度振り返る。

レニー・クラヴィッツと言えば、『レット・ラヴ・ルール』と題されたこのデビューアルバムよりも彼の人気を決定付けた2ndアルバム『ママ・セッド』('91)、あるいは日本でもたびたびCMソングに使われ、認知度も高い「自由への疾走」(「Are You Gonna Go My Way」)が収録されている3rdアルバム『自由への疾走』('93)といったハードロッキンなサウンドとタフなイメージを打ち出したアルバムを取り上げたほうが分かりやすいかもしれない。
確かに『レット・ラヴ・ルール』は代表作として取り上げるには、やや内省的すぎるかもしれないし、アメリカでもイギリスでもそれほどヒットにはならなかった。しかし、89年に当時、まだ無名だった25歳のミュージシャンがリリースしたデビューアルバムがロックシーンに衝撃を与え、少なくないリスナーから熱狂的に受け入れられたことは今でもはっきりと記憶している。クラヴィッツの登場が衝撃的だったのは、彼の音楽が新しかったからではない。それどころか逆にとことん古臭かったからこそ衝撃的であると同時にホンモノのロックを聴きたいと思っていたロックファンから大歓迎されたのだ。
当時、彼を語る際、使われた“黒いジョン・レノン”というフレーズがビートルズからの影響とR&Bの要素がひとつに溶け合ったその音楽性を見事に言い表していた。89年と言えば、ロック・シーンでその後、一大ムーヴメントに発展するさまざまな胎動が始まりながらも時代を代表するサウンドという意味では空白だった時期だ。そこに“黒いジョン・レノン”はロックの黄金時代と多くの人が信じている60~70年代のヴァイブスとサウンドとともに現れたのだから歓迎されないわけがなかった。ビートルズはもちろん、『レット・ラヴ・ルール』にボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスの影響を聴きとったリスナーも少なくなかった。
現代とは違って、ネットが普及する前の時代の話だ。その魅力が多くのリスナーに伝わるには多少時間はかかかったが、クラヴィッツの人気は『ママ・セッド』でいきなりブレイクしたわけではない。即効性という意味では確かに弱かったものの、このアルバムが衝撃とともに受け入れられたからこそ、その後のブレイクにつながった。それを考えると、目下の最新アルバムである『ストラット』はもちろん、『ママ・セッド』『自由への疾走』とともに、やはりこの『レット・ラヴ・ルール』も代表作の一枚として聴いておきたい。
皮肉なことにセッション・ミュージシャンをしながらレコード契約を探していた時、その後、“黒いジョン・レノン”と謳われる音楽性が黒人向けなのか白人向けなのか分からないという、なんだかなぁという理由からクラヴィッツはなかなかデビューのチャンスを掴めずにいたそうだ。それでも諦めず、デビューを夢見て、レコーディングエンジニアのヘンリー・ハーシュの助けを借り、ヴィンテージ機材によるアナログレコーディングにこだわりながら、『レット・ラヴ・ルール』のレコーディングを始めたクラヴィッツはテレビプロデューサーの父、女優の母、そしてやはり女優だった当時の妻のコネクションを使い、メジャーレーベル各社に売り込むと、ついにレーベル契約に漕ぎつけたのだった。
デビュー当時、なぜ無名のミュージシャンがいきなりメジャーレーベルから、しかもセルフプロデュースおよび、ほとんどの楽器を自ら演奏したアルバムでデビューできたのか不思議だったのだが、そう事情があったわけだ。デビューアルバムが内省的になったのは、ひょっとしたらそんな状況を反映しているからかもしれないが、なんでもレコーディング費用はおやじさんに出してもらったらしい。なんだ、ちゃっかりしてやがんなぁ。いや、だからって、“黒いジョン・レノン”の面目躍如と言える「レット・ラヴ・ルール」「アイ・ビルド・ディス・ガーデン・フォー・アス」、クラヴィッツが不世出のシンガーであることを印象付けるソウルバラードの「マイ・プレシャス・ラヴ」、そしてその後の展開を予感させるファンキーな「フィア」といった曲の魅力がもちろん変わるわけではないんだけれど。

著者:山口智男

OKMusic編集部

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