ボブ・マーリー&ウェイラーズ、永遠
に冷めることのない熱狂を伝える傑作
『ライヴ!』

 今回はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの『ライヴ』('75)を取り上げてみたい。ボブ・マーリーは1981年に36歳の若さで亡くなっているので、それからでもすでに34年の歳月が過ぎているのだが、今年が生誕70周年なのだそうだ。それを記念して、さきごろ絶頂期の1978年にボストン・ミュージック・ホールで行われたコンサートを全曲収めた『ライヴ・イン・ボストン'78』(CD+DVDエディション)がリリースされたばかり。CDには当時の代表曲、全13曲が収録されている他、DVDには貴重な未発表ライヴ映像が46分にわたって収録されている。映像はファンが手持ちのカメラで撮影したもので、現在の感覚でいえば決して良好なものではないが、至近距離からマーリーのパフォーマンスをとらえた貴重なもの。アニメーションを加えたり、苦肉の編集作業がうかがえるが、彼のライヴを間近で体感することができるようで、今更ながらそのすごさを追体験できるもの。
 本作はライヴ盤としては現在の感覚から言えば短いとも言える約45分ほどの収録時間となっている。先に紹介した『~ライヴ・イン・ボストン'78』同様に、死後発掘されたライヴ音源の中には、2003年にリリースされた『ライヴ・アット・ロキシー'76』など、音質、内容ともに、本作を上回るような作品もある。他にもブートレグまがいの粗製盤なれど凄まじい熱気を伝えるコレクターズアイテムなど多数あるのだが、それでも当時のことを振り返りつつ、このライヴ作が出た時の衝撃の大きさを思えば、やはりこの『Live!』を取り上げないわけにはいかない。

 アーティストのディスコグラフィーの中から、その代表作として“ライヴ”が選ばれることは珍しくない。オールマン・ブラザーズ・バンドの『Live At The Fillmore East』なんかも典型的な例だろうし、リトル・フィートの『Waiting for Columbus』を数多いアルバムの中からあえて選ぶファンもいるだろう。ビルボードで10週連続1位という驚異的な記録を残したピーター・フランプトンの『Frampton's Come Alive』なんかもまさにそうだ。理由はいくつも考えられる。コンサートならではの熱気あふれる内容で、ノリもいい。しかも、ギミックのないアーティストの生の姿を伝える魅力もある。代表作を集約したベスト盤的な効率の良さもある。今なら映像作品にはこと欠かないだろうが、かつてはライヴ盤を通してアーティストのコンサートを疑似体験するという楽しみもあった。
 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとしては、『Live!』は通算(アイランド・レーベルと契約して世界的にアルバムが配給されるようになってからという意味で)4作目となる。発売年から辿ると、1973年のデビューからわずか2年目ということになる。デビュー作『Catch A Fire』('73)と同年には早くもセカンド『Burnin』('73)が、そしてサード『Natty Dread』('75)が出ると、間髪を入れず『Live!』('75)と続くわけだ。ライヴは既発曲で固められているとはいえ、この矢継ぎ早のリリースは、いかにも飛ぶ鳥を落とすような当時の彼らの勢いを表すようなものだろう。
 それにしても、デビューが1973年と知ると、そんなに早く彼らが? レゲエが?…とお思いの方もいるだろう。まだ、ロックでさえビートルズの元メンバーたちがソロ作の制作に明け暮れ、ピンク・フロイドが超大作『狂気』を出す一方、エルトン・ジョンやT・レックス、デヴィッド・ボウイらが登場して多様なスタイルを作り出し始めた頃のことだ。それどころか、このデビュー盤は発売こそ1973年となっているが、アイランド・レーベルと契約し、レコーディングが始まったのはさらにさかのぼること2年前、1971年にはスタートしているのだ。そんな段階で早くもボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは最初のステップを踏み出しているわけである。
 なんという早さだ。というよりは、アイランド・レコードのレーベル・オーナー、クリス・ブラックウェルの慧眼ぶりには驚かされるというものだろう。私がこのレーベルを知ったのは中学生の頃で、それはスティーヴ・ウィンウッド率いるトラフィックやフェアポート・コンヴェンションといったバンドのレコードがこのレーベルから出ていたからなのだが、実はこの、レーベルに対する私の認識は完全に逆というか、間違ったものだった。
 アイランドというレーベルはもともとジャマイカ生まれのブラックウェル(ちなみに白人である)が1959年頃にレゲエのルーツというか、親子関係というか、親戚とも言えるスカの音楽を広めるために設立されたレーベルだった。その後、ジャマイカを離れてロンドンに移住したブラックウェルが先述のウィンウッドやフォーク系アーティストと知り合ううちに、ロック、フォークのアーティストの作品をリリースするようになるのだが、結果、そちらのほうのジャンルからヒット作が生まれたことによって、ロックのレーベルとして認知されるようになったのであるが、あくまで最初はジャマイカン・ミュージックの専門レーベルだったのである。
 そんな背景を持つレーベルの総帥ブラックウェルが世界進出を目指すマーリーたち、すでにジャマイカではトップクラスのバンドであったウェイラーズと契約するのに躊躇することはなく、むしろ彼らを大々的にバックアップすることで、マーリーはもちろんのこと、レゲエ・ミュージックの世界的なブレイクをも目論んだのであろうことは想像に難くない。レーベルからはマーリーたちの成功を足がかりに、他にレゲエのアーティストとしては「ハーダー・ゼイ・カム」の世界的なヒットを記録したジミー・クリフ、アスワド、バーニング・スピア−、オーガスタス・パブロ、ブラック・ウフルー…他が所属することになる。
 もっとも、レゲエと米英の音楽界との出会いは思ったより早い。古くはビートルズの2枚組アルバム、通称“ホワイト・アルバム”こと『The Beatles』('68)に収録した「オブラディ・オブラダ」などは、世界初のスカ/レゲエのリズムを取り入れた曲だとも言われている。なるほど、聴いてみると、スカだと言われればそうだなと思う。でも、レゲエ(当時そういう呼び方があったのかどうか)というか、ジャマイカン・ミュージックを明らかに意識したものとして制作された最も有名なのはサイモン&ガーファンクル(以降S&G)の活動で知られるポール・サイモンがS&G名義でリリースした名盤『Bridge Over Troubled Water 明日に掛ける橋』('70)に収録された「Cecilia」におけるレゲエ風のアレンジだろう。実際にポール・サイモンはその頃、相当ジャマイカン・ミュージックに入れ込んでいたと言われ、レコーディングにはジミー・クリフと活動していたミュージシャンが起用されている。また、S&G解消後、ソロアーティストとなったポール・サイモンは72年にリリースするソロ第一作でもジャマイカに飛び、レコーディングには再びジミー・クリフと活動していたミュージシャンが起用されている。といった、レゲエ前史みたいなエピソードもあるのだが...。また、音楽としてのレゲエの前にはロックスタディ、さらに遡ったところにスカがあるといったリズムスタイルの変遷などもあるが、ちょっとここでは書き切れないので省かせていただく。

アイランド・レコード契約後、音楽世界
を激変させるマーリーたちの歩み

 今、改めてボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのアルバムをデビュー盤から順に聴いていくと、そのどれもが本コラムの『名盤紹介』で取り上げたくなるほどの密度の濃い内容を伴ったアルバムであることに気づき、いささか圧倒されているところだ。
 『Catch A Fire』('73)は「Catch A Fire」や「Kinky Reggae」といった後年まで演奏され続ける代表曲が収められていることもあるが、マーリーにとっては同志ともいうべき、バーニー・ウェイラーやピーター・トッシュも在籍しており、まだまだジャマイカ時代のコーラスグループの名残を残しつつ、世界へ羽ばたこうとする姿、レゲエのハンマーが振り下ろされたような衝撃を伝えてくれるアルバムだ。
 この『Catch A Fire』('73)などは、Delux Editionの拡大版で聴くと(微妙に曲順も異なる未発表のJamaicanバージョンとリマスターIsland盤の2種がセットになっている)、あまりにも生々しい音がグサグサと心臓を刺してくるようだ。余談ながら、ジャマイカからロンドンに渡ってきたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ一向が持参した楽器や機材は粗末なもので、チューニングも狂い、まともに使えそうなものはひとつもなかったそうだ。レコーディングにはロンドンのスタジオミュージシャンも多く関わっているのだが、彼らがまず行なったのは、とにかくまともな楽器をバンドにあてがい、調整をすることだったという。そう聞くと、レコーディングが1971年頃からスタートし、約2年を費やしたというのも納得できるものだ。とはいえ、実際に粗末な楽器で演奏をしたものが採用されているのか、Delux EditionのJamaicanバージョンなど、その生々しさが最高なのだが。
 2作目となる『Burnin』('73)にも、彼の生き方、メッセージを伝えてくるような名曲「Get Up, Stand Up」や後述するが、エリック・クラプトンがカバーし、マーリーの名前を世界中に知らせることになった「I Shot The Sheriff」が収録され、一段とすごみを増していく彼らの生々しい姿をとらえた名盤だ。まだ、この頃の写真を見ると、自慢のドレッド・ロックスも短く、その風貌は指名手配の犯罪者みたいだ。
 そして、サード『Natty Dread』('75)。このアルバムはそれまでステージのフロントをともにしてきたバーニー・ウェイラーとピーター・トッシュが脱退し、ついにフロントマン、リーダーとしてボブ・マーリーが独り立ちし、ザ・ウェイラーズを束ねることになった記念すべき作品だ。「Lively Up Yourself」や何と言っても名曲「No Woman No Cry」が入っている。
 これら3作がリリースされた段階では、まだまだ日本では彼らのことはほとんど知られていなかった。当時を振り返ってみると、インターネットもない、音源メディアはレコードであった時代に、“レゲエ”、“ボブ・マーリー”という名前が届き始めたのは、ようやく1975年ぐらいではなかったかと思う。私などはまだ高校生だった。
 音楽雑誌にもポツポツとではあるが、彼の、やがてはレゲエのアーティストを象徴するようになっていく、ドレッド・ロックスと呼ばれるヘアスタイルを振り乱して歌うマーリーの写真が掲載されるようになっていた。そのきっかけとなったのが、先に紹介したように、その前年の1974年に長いドラッグ中毒の迷路を抜け出して、音楽の最前線に戻ってきたエリック・クラプトンの待望の復帰作『461 OCEAN BOULEVARD』('74)、その中に収録され、シングル盤としてリリースされて世界的な大ヒットとなった「I Shot The Sheriff」の影響だったと言っていいだろう。そのオリジナルの作者=ボブ・マーリーということで、一躍、彼は脚光を浴びることになったのだ。その頃、放送されたNHK『ヤング・ミュージック・ショー』などでもボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのライヴ映像を観た記憶がある。まだウブな高校生には、その異様なヘアスタイルの風貌、労働者のような服装、腰にズシンと響いてくるような異様に黒いグルーブにドキドキさせられつつ、どこか祝祭的なステージングなど、コワいものを見るような気持ちで画面に見入っていた。
 たぶん、私も含め、まだレゲエというものがどういう背景を持って生まれてきた音楽なのか云々も分からなかった頃、スピーカーから響いてくるそのサウンドを、誰もがほとんどロックの感覚で聴いていたのだろうと思う。ロックのような衝動を伴っている、しかし、どこかソウルミュージックのような黒さやノリがある。でも、ファンクとも異なる。ジャマイカで生まれた音楽とはいえ、アフリカやカリブ音楽のような民族音楽のようなものとは明らかに違うのだが。
 何か得体の知れないものを見るようで、一発でノックアウト、ということにはならなかったと思う。ロックに夢中な高校生にとって、黒いアーティストと言えば、それまでの最大のヒーローはジミ・ヘンドリックスだった。スライ(&ザ・ファミリー・ストーン)やオーティス・レディング、ジェイムス・ブラウンも知らないわけじゃなかったが、ジミのようなヒーロー然とした佇まいに比べると、ボブ・マーリーの姿は違いすぎたというか、目の前の画面を見ながら、これをどう感じたらいいのだろうかと、大いに戸惑っていたのだ。
 音楽以外にもジャマイカでの政争のあおりを受けて、暴漢に狙撃されてマーリーが怪我をするという事件が伝えられたりと、まるでヤバい人物のようにマーリー像というのは伝わってきていたものだ。まだそのころはレゲエ=レベル・ミュージック(政治や物質主義、植民地主義、奴隷問題などへの批判や反抗…等々)というものの理解や彼らが信奉するラスタファリズムといったことも、ほとんど理解できていなかった。

未来永劫、色褪せることのないライヴの
傑作

 そんな高校生にとっても『Live !』の登場はそれまでの躊躇、戸惑いも吹っ飛ばすようなものだった。今でも思うのだが、これを聴いて気持ちが奮い立たないのなら、もうお前は終わりだと。これを聴いて熱くなれないようなら、もう死んでいるようなものではないかと問うてくるようなアルバムだ。だから、挫けそうになった時にはこのアルバムを聴いて、自分を確かめるようにしている。興奮できるようなら、まだやれるというわけだ。
 レゲエにそれほど思い入れがなかった高校生の時にこれを「聴け」と、目上の人に強く勧められ、とにかく買ったのだ。今ではよく勧めてくれたものだと感謝している。多感な高校生の時にこのアルバムと出会えたことは、生き方まで左右するくらいの影響力を及ぼしたと思う。1曲目の「Trenchtown Rock」には本当にぶっ飛んだ。カールトン・バレット(ドラム)とアストン・バレット(ベース)のバレット兄弟による、うねるような強靱なリズムセクションに煽られ、徐々に熱くなっていく演奏に接して、膝が動かない人なんているだろうか。
 録音は1975年7月18日、ロンドン・ライシアムでの公演をとらえたものだ。実際に行なわれたショーからは3曲ほどがカットされているようだが、通しで聴けるようになったCD/ネット配信時代だとコンサートをまるごと体験したような気持ちになるのではないだろうか。ちなみにLP時代と異なり、現在ではリマスター盤CD、iTunes Storeでのダウンロード配信では、このライヴアルバムは当時行なわれたセットリストをほぼ再現するように、かつては未収録だった「Them Belly Full」(But We Hungry)、「Kinky Reggae」が追加されたものとなっている。
 LP時代はB面が「No Woman No Cry」から始まり、これまた次第に熱狂する観客がマーリーやバンドと呼応するように会場全体で歌い、盛り上がっていくさまが目に浮かぶようだ。これは何度聴いても感動的だ。そして、ラストナンバー「Get Up, Stand Up」まで一気に登り詰めていくすごさといったらない。
 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのライヴとしてはもう1枚、マーリー存命中にリリースされた『Babylon By Bus』('78)もあるが、やはり絶頂の上に超が付くほどの時期の彼らの姿をとらえてものとして、やはり『Live !』のすごさには及ばない。また、ライヴということで紹介すれば、マーリー没後10周年を記念してリリースされた『Talkin' Blues』('91)というアルバムがあるが、こちらは1973年のアメリカツアー中に、サンフランシスコのスタジオで、観客6人だけを前にした初期の彼らの熱演が収められている他、『Natty Dread』('75)制作時の未発表音源などで構成され、これはなかなか強烈なアルバムなので、お勧めだ。
見逃してしまったことが悔やまれる。これは終生後悔の念に付きまとわれる失態といってもいいだろう。そのコンサートを観た人に当時のことを聞くと、コンサートが始まってもマーリーは袖にいて、しばらくウォーミングアップするように身体を揺らしているのだそうだ。歌い始めはそれほど声が出るわけでもないのだが、次第にリズムに乗って熱くなっていき、気が付いたらもう熱狂のそのもので、神が憑くというふうな…。ということだったらしい。彼らを日本に招いた招聘元の関係者も、ホテルなどではほとんど喋らずに床に足を投げ出して座っているぐらいで、とにかく静かな人という印象が強かった。それがステージが始まったらあんなふうで…という証言をされている。亡くなってしまった今では神格化されている部分も多々あるとは思うのだが。この熱狂、人物像、同じ場所の空気を吸いたかったな。

パンク・ムーヴメントと共闘したレゲエ

 そう言えば、この『Live!』が出た1975年というのは、他に大ヒットを記録したアルバムとしてはクイーンの『シアー・ハート・アタック』、ポール・マッカートニー&ウィングスの『ヴィーナス&マーズ』、ピンク・フロイドの『炎 あなたがここにいてほしい』、バッド・カンパニーの『バッド・カンパニー』といったところが名前としては出てくるのだが、音楽界ではこれまた世間を揺るがせ始めていたパンク・ムーブメントがそろそろ…といったタイミングである。1975年はあのセックス・ピストルズが結成された年である。ベースのグレン・マトロック以外は楽器を触ったこともないチンピラが顔を揃えたわけで、それから練習を重ね、悪態をつきながらさんざんに話題を提供し、デビュー盤『勝手にしやがれ』がリリースされるのは1977年になってからのことなのだが、その頃にはセックス・ピストルズだけでなく、ザ・クラッシュ、ストラングラーズ、ジャム、スージー&ザ・バンシーズ等々、続々とパンク勢力が台頭してきていた。まるで雨後の筍のように新人アーティストが出現している時期で、夥しいバンドのアルバムが毎月のように店頭に並んでいた。一方、レゲエもボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの成功によって新規参入音楽などではなくなり、瞬く間に一般に浸透していった。ボブ・マーリーを足がかりに、ジャマイカから、あるいは在英のバンドと、さまざまなアーティストが紹介されるようになっていた。マイナーなバンドのもの、粗雑な作りのジャケット(だから妙にそそられる)の得体の知れないバンドのものなど、ショップにも週単位でドッとアルバムが入荷してくるようなあんばいだった。
 実に、その頃、尖った音楽の品揃えを意識していた輸入盤専門のレコードショップでは日増しにパンク/ニューウェイブ関係のものとレゲエ関係のレコードの棚が幅をきかせるようになっていたものだ。旧来のロック、フォーク、ポップスの棚はどんどん縮小されるようになり、いかにこのふたつの音楽が流れを変えようとしているのかを如実に示していたように思う。もちろん、これは特異なショップに限った話で、巷のレコードショップは相変わらずな品揃えで、パンク/ニューウェイブ、レゲエはマイナー音楽の扱いだった(それでもボブ・マーリーのコーナーはどこの店でもちゃんと仕切られていた)。
 私はもっぱら“特異”なほうの店に出入りしていたのだが、いくらパンク/ニューウェイブ、レゲエが要注意音楽であるのは認識していても、貧乏な学生にとって両方を制覇していくのは無理だった。今となってはもっと要領よくうまい手を考えればよかったのだが、私は単に金銭的な理由で二者択一を迫られ、パンク/ニューウェイブを選んだのだった。そのくせ、80年代の入ってから猛烈にレゲエにはまってしまい、CD化されたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズはもちろんのこと、未発表音源を集めたCD、ウェイラーズを組む前のコーラスグループ、ウェイリング・ウェイラーズ時代のもの等(すごくいい!)も入手したし、ダブ・マスターとも言えるリントン・クウェシ・ジョンソン、リー・ペリーなどのアーティストのものまで買いまくったものだった。
 面白いことに、台頭してきた時期が同じであったということだけでなく、音楽的にもパンク/ニューウェイブとレゲエは歩調を合わせていたようなところがある。その代表的なバンドとして挙げられるのが、セックス・ピストルズと並ぶパンクの雄、ザ・クラッシュだった。メンバーの中でも特にベース奏者のポール・シムノンは出身地がジャマイカ系移民が多く暮らす地域だったこともあり、子供の頃からスカやレゲエに自然と馴染んできたのだという。ろくすっぽ楽器が弾けなかったバンド結成時はパンク一辺倒の前のめりのベースを弾いていたが、ギグを重ね、鍛えられるにつれ、身体に染みついたレゲエのリズムがプレイに顕れるようになり、デビュー作『The Clash 白い暴動』('77)が制作される頃にはパンクならではのストレートなベースとレゲエのリズムパターンが合体するという、ユニークなプレイになっていた。そうした要素はザ・クラッシュの音楽性に大きな影響を及ぼすようになり、アルバムを追うごとにパンクという枠におさまりきらないスケールを持ったバンドへと成長していったものだ。ザ・クラッシュはCBSというメジャーなレーベルからデビューしたが、このパンク/ニューウェイブ勃興期にはインディペンデントのレーベルも多く生まれ、ラフトレード・レーベルからは女性3人からなるザ・スリッツが、やはりレゲエ、ダブを大々的に取り入れた音楽性でデビューしている。
 そんなふうにパンク/ニューウェイブ、さらに言えばポストパンク勢力とレゲエは混ざり合い、そうした音楽性を持ったバンドがインディーズから次々とアルバムを発表していった。それは今思えば実に面白い音楽的な融合であり、追いかけるのは大変だったが、私はどっぷり浸かっていたものだ。その一方でレゲエ・ミュージックは安易なリゾートミュージックのような方向に流れていってしまったきらいもある。レゲエのリズムに合わせてDJスタイルというのか、半分ラップのようなトーキングレゲエの一派が大挙して現れたこともあったが、その類のものは未だに好きになれないでいる。
 レゲエ人気は定着し、街にはレゲエのグッズを扱うジャンクな店や飲食店なども見られるようになった。毎年のように夏になると『レゲエ・サンスプラッシュ』などのフェスも開催されるようになったのだけれど、そうした何となく“夏=レゲエ”、“マリファナ=レゲエ”みたいな安易な図式にのっとって沸いている空気というのは、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが目指したものと全然違うように思えたし、少しも馴染めなかった。やっぱり、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズやブラック・ウフルー、オーガスタス・パブロ、ジミー・クリフらのように、レゲエの独特の重いリズムに乗せて、切っ先鋭く、こちらの背中をムチ打ってくるようなレゲエには、心を震わせるものがある。また、コーラスグループ出身ということも少し影響しているのか、マーリーの作る曲、自身の歌唱には“歌心”のようなものがあるというのか、ストレートに訴えかけてくるのがいい。
 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは『Live !』以降も『Exodus』('77)や『Kaya』('78)と傑作を連発していき、その勢いのままに、先述したように、今となっては奇跡とも言える初の来日公演も行なわれているのだが、バンドの勢いとしては少しずつ衰えていったように思う。あれほどの勢いで登り詰めれば、少しテンポダウンも無理はないとも思う。政争に巻き込まれて、ほとんど逃亡生活というか、活動拠点をジャマイカ以外に求めなければいけなかったことも影響しているのかもしれない。
 そして、終焉はあまりにも早く訪れる。生前最後のアルバムとなった『Uprising』('80)がリリースされた時には彼が癌で余命いくばくもない状態であることも伝わっていたように記憶している。これが最後のアルバムになるのだということを知ってしまったファンは、諦観に満ちたような美しくも哀しさの漂う「Redemption Song」をどんな気持ちで聴いたことだろう。
 享年36歳と知ると、ボブ・マーリーってそんなに若かったんだと驚かれる人もいるんじゃないかと思う。苦労人だった。だからと言うわけじゃないが、神がかった雰囲気とともに、どこか老成した風貌でもあった。我々の感覚で言えば、36歳なんてまだ若造でしかないではないか。そんなに早くして神様の聖域まで達してしてしまった人だもの、神様(がいるとするならば)はやはりその存在に嫉妬したに違いない。要するに葬られたのだ。そんな気がしてしまうのだ。意味のないことだけれど、仮に生き延びていたなら、どんな人生を送っていただろうか。これを書いている4月、ボブ・マーリーと同時期にレゲエのスーパースターに登り詰めたジミー・クリフが来日公演中だ。現在クリフは67歳なのだそうだ。レゲエを世界に知らせることになり、彼自身も出演した映画『Harder They Come』(サントラは名盤)や「Many River To Cross」など、彼もボブ・マーリーに負けず劣らず名曲を残したアーティストだ。ヒット曲満載のライヴ『In Concert』('76)など、録音、制作された時期はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの『Live !』と似通っている。この機会に聴き比べなどされると最高ではないかと思う。

著者:片山明

OKMusic編集部

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