“ドクター・ジャズ”こと
知性派ベン・シドランが作り上げた
メロウグルーブの傑作
『フィール・ユア・グルーブ』
シドラン流クール・ジャズ+ファンクが
描いた先見性
※シドランが尊敬するモーズ・アリソンと共演したアルバム『Tell Me Something: The Songs Of Mose Allison』('96)も必聴盤として、おすすめしておく。同盤は他に共演者として、ヴァン・モリスン、ジョージ・フェイムと重鎮揃い踏みの好盤である。
他の曲も実によく練られた上に、余計な味付けなど凝らさない、引き締まった演奏でまとめられている。シドランのオルガンが唸るファンキーな「Poor Girl」もたまらない。ジェシ・エド・デイヴィスが巧みなギターを弾いている。実にタイトな仕上がりだ。だからなのか、このアルバムが1971年に作られたもので、デビュー作だということが俄かに信じられないような完成度なのだ。それに、当時より、2000年代のほうが受け入れられやすいのではないかと思ったりする。実際に現在の耳で聴いても、古臭さは感じないだろうし、ヒップホップやジャズ演奏をバックに詩を朗読するスポークンスタイルなども早々と実践しているシドランの柔軟な音楽性は今日的だ。50年前だと、モダン・ジャズ信奉者には、彼の音楽は見向きもされなかっただろう。
シドランはこの後もブルーサムやアリスタ、ウィンダムヒル…etcといったレーベルでジャズやR&Bをベースとしたリーダー作を発表し続ける。セッションワークを含めれば、ほとんど休みなく活動を続けている。本作で聴かれる若い歌声とは打って変わり、渋みの増した声で全曲ボブ・ディランをカバーするなどの意欲作『Dylan Different』('09)を聴くと、こんなに洒脱なセンスでディランの曲を自分のものにしてしまうシドランのジャズ感覚に唸らされてしまう。1990年以降は自身が主宰する「GO JAZZ」、「Nardis」といったレーベルからコンスタントにアルバムをリリースし続けている。両レーベルからは他のアーティストのアルバムも意欲的に発表されるなど、制作者としての手腕も示された。
そう言えば、こんな逸話もある。レーベル名の元となった「Nardis」はマイルス・デイヴィスの作で、ビル・エヴァンス(ピアノ)、キャノンボール・アダレイ、他の演奏で知られる名曲だが、シドランの姓Sidranのスペルをひっくり返してタイトルとしたもので、マイルスからシドランに贈られた曲だというのである。マイルスが「Nardis」を書いた1958年当時、シドランはまだ15歳の子供で、ウィスコンシンに住んでいたはずだから、この話はにわかに信じがたい。しかし、早熟のシドランが憧れのマイルスに会いたくてウィスコンシンのクラブにやってきたマイルスの楽屋を訪ねて…という可能性は否定できない。マイルスがウブそうなシドラン少年にサインをしてやりながら、タイトルの決まっていない曲に「お前の名前をつけよう」という話になったのだとしたら、それはなかなかドラマチックではないか。シドラン本人にたずねてみなければ真相は確かめようがないのだが、素敵な話はそのまま生かしておくのも悪くない。もっとも、80年代にシドランがNardisレーベルを発足させた時、両者は交友関係にあり、マイルスは自作のレーベル・ロゴをシドランにプレゼントしているのだ。これは事実で、あの帝王マイルスから直筆のロゴを贈られるシドランというだけでも、とんでもなく凄い話である。
J-POPでも近年、メロウグルーブを意識させるミュージシャンがチャートを賑わせる、なんていうことが珍しくなくなってきたが、シドランや、それからタイプは異なるものの、どこか日本人に馴染みそうなグルーヴ感がその音楽に感じられるダニー・ハザウェイ、ビル・ウィザースといったアーティストがもっと聴かれると、いっそう面白いことが起こりそうな気もするのである。ぜひ聴いて、彼のセンスに触れてみてほしい。
TEXT:片山 明