『終わらない歌』収録の
「天使達の歌」
名曲誕生の背景を
坂本サトル本人に訊く

メジャーデビューした途端、
失速していく感じはすごくした

──そして、その限定版からメジャー復帰して、アルバム『終わらない歌』につながっていくわけなんですが、これがなかなかいいアルバムで。バラエティー豊かだっていうのがさすがソロだなという感じはしましたね。バンドサウンドも本当多彩だし、それこそケルトからサイケまであらゆる音が入っている感じでした。ちゃんとロックバンドというか、ロックの音になってるアルバムだなって感じはしますね。
「そこはやっぱり棚谷さんの手腕によるところが大きいですね。バラエティーには富んでるんですけど、結局演奏は全てカーネーションでやっているから、やっぱり一体感もありますしね」

──で、そこからメジャーに復帰するわけですけど、最後に私がインタビューさせていただいた2000年には…これは原稿にはしなかったですけど、“メジャーを離れて自分たちだけでやっていく”というようなことをおっしゃっていたんですよ。“「天使達の歌」が北海道、東北であそこまで行ったというのに、メジャーに戻ったあと、何かテンションがそんなに上がってないんだよね”みたいなこともおっしゃっていました。
「もう20年以上経ってるから言うと、要はアイディアなかったんだと思うんですよ、レコード会社に。インディーズでの活動は良くも悪くも秘密にしていたから、坂本サトルが急に『ミュージックステーション』に出て、“あれ? どうなってるの!?”みたいな。コロムビアの事情を知らない人たちにしてみれば…ね。で、北海道と東北でやったことを全国でもう一回やろうとしたんですよ。それは多少当たりはしましたけども、せっかくあるところまで行ったのにもう一回、一に戻るみたいなことだったから、「天使達の歌」があんだけ話題になって、『ミュージックステーション』にも出て、そのまま全国ツアーとか行っちゃえば、でっかいところでコンサートができなくても、それなりに全国どこ行ってもお客さんがある程度入るみたいなシーンって作れたと思うんです。だけど、それをやらないで、もう一回路上ライヴをまた半年くらいやるわけ(苦笑)。“何だ、こりゃ!?”と。小林は小林で、その頃、大抜擢されて本社に呼ばれるわけですね。「天使達の歌」がうまくいったことで」

──2001年度にTRIAD宣伝勤務となったそうですね。
「いずれにしてもメジャーデビューした途端、失速していく感じはすごくしたんですよね。それは小林もきっとすげぇ感じていて、焦ってもいたと思うんですけど。…本当にその時、もうインディーズになるって言ってました?」

──“そう決めた!”くらいな感じで。その後、コロムビアから離れられて、東北を中心に活動されていたので、なかなか取材の機会がなくなったっていうのはあるんですよね。
「そうですね。でも、“独立するなら小林とやる”っていうのは決めていましたね。結局、2002年にコロムビアを離れたわけですが」

──株式会社ラップランドを設立ですね(※註:株式会社ラップランドは、レコード会社プロモーション業務、アーティストマネージメント、原版制作などを行なう会社)。
「でもね、今みたいに…そんなタラレバの話しても仕様がないんですけど、“当時SNSが今くらいあったらどうなんだろうな?”って思うんですよね。例えば、路上でやっていることとか、ものすごい速さで拡散したと思うんですよ。そうすると、もっと状況も変わったと思いますし、ひとりで…というか、独立してやっていくっていうことに確信がもっと持てたんじゃないかと思うけど、当時はなかなかメジャーを離れてやってる人は…もちろんいましたけど、やり方も分からなかったし、成功例もあんまり聞いたことなかった」

──ってことは、ラップランドを設立した時はそこまで確信があったわけじゃないということですか?
「そうですね。確信があった…ということではなく、楽しくなくなったんですよね、本当に」

──メジャーで活動することが?
「レコーディングも苦痛だし、“何でこんなに楽しくないんだろう?”と。小林は小林で本社勤務になった途端、“もうつまんない”と。あいつが仙台営業所の時って放任主義っていうか、好き勝手やれたんですよ。仲間もいっぱいいたから、東京へ行っちゃうと東北にいた頃みたいにマスコミを自由に動かせないし、逆に言うこと聞かなきゃないし、ノルマもあるし、特に本社勤務になると全アーティストをやらなきゃない。“好きなアーティストだけをやりたい”みたいなことは言えない。で、どちらからともなく“辞めようか”って言って。ちょうど俺もソロとして“次の契約はどうなるんだろうね?”みたいな時期だったらしいんですよね、後で聞くと。だから、“切られる前に辞めちゃえ”みたいな」

──ソロのアルバムは思ったほど売り上げはいかなかったんですか?
「どうだろう? 10万枚くらいは売れたと思うんで、“十分じゃん”と今にしては思うけど、当時は“もっといくんじゃないの?”ってみんなが思っていたんじゃないかな?」

──その辺は難しいですね。でも、独立して東北を中心に活動するように至ったっていうのは、今になってみると、芸人さんを含めてローカルでやってる人たちは多くて。今、アイドルがそうですよね。アイドルはもう各地にいて、そういうエンターテイメントの形ができつつありますけど、サトルさんがやり始めたのは早かったと思います。
「そうね。ただ、とりあえずスタートを東北と北海道にしたっていうだけで、自分たちの活動拠点を東北にしようっていうのはまったく思っていなかったですよ。事務所は神奈川の川崎にあったし。2006年か2007年に小林が仙台に戻っちゃって、僕ひとりで川崎に残ったから“どうしようかな?”みたいな。全然、東北を中心に活動しているって意識はなかったんですよ(※註:株式会社ラップランドは2005年、本社業務を仙台市に移転)」

──そうですか。例えば、ラジオ番組にしても東北放送だったりとかそういうのが多かったのかなと。そのイメージがちょっとあったんですけど。
「ラジオはね。だけど、ライヴの本数とかツアーに関しては特に東北が多いってことでもなかったんですよ。独立した当初は俺と小林のふたりで川崎に拠点を持って、コロムビアと同じことができると思っていましたよ。実際最初のレコーディングはメジャーと同じくらい金をかけちゃって(苦笑)、それで後々ひどい目に遭うんだけど…。ただメジャーっていうタガが外れただけで、まったく活動はそれまでと変わらない。その頃って、ツアーも全国50本くらいやっているんですよね。本当に細かく回っていた。もちろん番組やメディアっていうことで言うと、仙台は30数年間レギュラーが切れたことがないから、番組は東北でやっているっていう感じはあったと思うんですけどね。ライヴ活動に関しては東北中心っていうふうには考えていなかったですね。東北が多め…ぐらい。青森なんてほとんどライヴをやっていなかったし。
青森に帰ってからですよ。東北を中心に活動しようと思ったのは」

OKMusic編集部

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