発売1ヶ月で40万枚を売り上げた吉田
拓郎のメジャーデビュー作『元気です
。』

学生や熱心な一部の音楽ファンだけの“アンダーグラウンド”なフォークを、全国レベルの“オーバーグラウンド”なポップスへと変異させた吉田拓郎。そんな彼の『元気です。』は、彼の代表曲としても知られる「旅の宿」や「たどり着いたらいつも雨降り」を含む、Jポップ誕生の重要なきっかけとなったアルバムである。

ザ・モップスのひとつのヒット曲から狭
くなったフォークとロックの壁

 70年代初頭、日本のポピュラー音楽は主に歌謡曲(演歌も含む)が中心であった。ロック、フォーク、ジャズ、カントリーに代表される洋楽は、大学生を中心とした、好奇心旺盛な若者たちによって聴かれるにとどまり、歌謡曲と比べると、テレビで紹介されることは非常に少なかった。この時代、洋楽を聴く者はあまり邦楽を聴かなかったし、同じように邦楽好きは洋楽を聴かなかったものだ。もちろん、洋楽邦楽を問わず聴いている人が少なからずいたのも事実だが、多くの中高生は偏った聴き方をしていたように思う。
 当時の洋楽好きの若者にとって、アメリカやイギリスのロック・フォークなど、最先端のポピュラー音楽情報を得るメディアと言えば、音楽雑誌は別として、ラジオの深夜放送とNHKの音楽番組ぐらいしかなかった。僕も中学・高校時代は、日本のグループでは、フラワー・トラベリン・バンドや頭脳警察、四人囃子、はっぴいえんどなど、本物志向のロックバンド以外は聴かず、ほとんど洋楽だけであった。
 ところが1972年、ザ・モップス(Wikipedia)という本格的ロックバンドの「たどりついたらいつも雨ふり」を、テレビ(番組名は覚えていないが、おそらくNHKだったと思う)で観て、そのカッコ良さにしびれ、すぐにレコード屋さんに走ってシングル盤をゲットした。シングルを買って初めて、この曲が吉田拓郎の作詞作曲によるものだと知り、しばらくしてから、そのセルフカバーを含む3枚目となる本作『元気です。』を入手することになるのである。

 もちろん、「結婚しようよ」(’72)がヒットしていたので、吉田拓郎の名は知ってはいた。ただ、良い印象がなかったことも確かである。それはなぜか…。
 60年代後半から70年代初めにかけては、フォークは歌謡曲と違って、商業的に成功することがマイナスイメージ(商業主義=悪・体制側、反商業主義=善・反体制)になるという時代であったため、多くの若者たちにとって、歌謡曲に代表されるポップスは悪であり、革新的な思想や主張を歌うフォークやロックは善だったのだ。洋楽オンリーの当時の僕にとって「結婚しようよ」は、歌謡曲と何も変わらず“ポップス=悪”の印象が拭えなかった。
 僕の、そのバカな思い込みを改心させてくれたのが、モップスの「たどりついたらいつも雨ふり」なのであった。この演奏、日本のロック最高の成果だと思うので、機会があればぜひ聴いてみてほしい。

Jポップはフォークが歌謡曲を侵食・同
化することで生まれた…

 1970年、拓郎は自主制作のコンピ『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』に参加した後、インディーズレーベルのエレックレコードからデビューアルバム『青春の詩』を発表、翌71年2ndアルバムの『人間なんて』で大きく注目されることになる。特に、それまでの硬派のフォークシンガーと違って、彼の甘いマスクと親しみやすい楽曲で、若い女子からはアイドル的な扱いを受けるのだが、もちろんこれは彼の本意ではなく、これが後に拓郎のメディア拒否につながるかどうかは不明である。結局、彼の人気が決定的になるのは、『人間なんて』に収められた、前述の「結婚しようよ」が大ヒットしたからだ。
 この時期、フォーク界からは「結婚しようよ」の他にも、井上陽水の「傘がない」(’72)、かぐや姫の「神田川」(’73)などのヒット曲が次々に登場する。これらの作品はフォークが歌謡曲というジャンルを侵食・同化し、後のJポップが生まれるきっかけを作ったと言えるだろう。具体的に言えば、拓郎登場以前のフォークは、社会性を持つものや、思想的な主張を歌に乗せることが大切だと考えられていたが、拓郎が登場してからは、個人的な心情や、男女間についてなど、よりパーソナルな内容を歌うことのほうが大切だというように変わっていく、分岐点であったように思う。
 この分岐点こそが、“アンダーグラウンド”だと考えられていたフォークが、“オーバーグラウンド”にある歌謡曲と同じ土壌である音楽産業の中に浸透していく瞬間であり、Jポップ誕生のひとつのきっかけであったと僕は思うのだ。

戦後の日本と70年代の新しい日本

 「結婚しようよ」は当時の若者の考え方を的確にとらえ、フォークファンだけでなく歌謡曲のファンにも受け入れられ大ヒットした。そして、その勢いそのままに彼がリリースした3rdアルバムの『元気です。』は、彼のアルバム中、最も大ヒットした作品として知られている。これはシングルで初の1位となった「旅の宿」や、名曲「たどり着いたらいつも雨ふり」を収録しているからだけではない。フォークに“意味”や“思想”を求めていた、これまでの旧世代のファンではなく、歌のバックボーンにこだわりを持たない、フォークを新しい歌謡曲の一種として受け止める、新世代のリスナーを拓郎が獲得したためである。絵空事のような歌謡曲が時代にそぐわなくなったのと同様に、反体制を売り物にしたフォークも古くなってしまっていただけに、一般大衆は吉田拓郎を選択したのである。
 ヒット作というものは時代を映す鏡である。70年代に入って、今さら戦後処理や貧困問題と言ったって、若者たちには響かなかった。そんなことよりも、マクドナルド(71年、日本1号店がオープン)やケンタッキー・フライドチキン(70年、日本1号店オープン)を食べてみたいし、リーバイス(70年に日本支社開設)のジーンズをはきたい、それに彼や彼女もほしい…という時代になっていた。だからこそ、拓郎の歌う身近な素材に納得できたし、リアルなライフスタイルにも共感できたのだろう。

『元気です。』について

 本作に収録されているのは全15曲。特徴は、言いたいことだけを言って終わってること。曲を余計に引き伸ばしたり、妙な技巧を凝らしてはいない。だから、1分台の曲や2分ちょっとの曲などがあり、結果として15曲収録となっている。このあたりに、拓郎らしい潔さがあると思う。
 サウンド面では、ぶっきらぼうなヴォーカル、飾らない歌詞など、拓郎がいかにボブ・ディランに影響されているかが分かる。彼の語りかけるような歌を聴いていると、近所の知り合いのお兄さんと話をしているような錯覚に陥るが、これこそ、彼の持つポップさであり、リスナーに伝えたいことだったんだろう。
 収録曲では、フォーク・クルセダーズを思わせるナンセンスな「馬」や、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドのようなカントリーロックの「せんこう花火」、拓郎のメロディーメイカー振りが発揮された代表曲のひとつ「夏休み」、本作最高のナンバー「祭りのあと」など、どの曲も拓郎の近況報告(もしくは独り言)になっていて、タイトルに“元気です。”とつけた付けた意味がよく理解できる。
 なお、9~14曲目の作詞は岡本おさみが担当、作詞:岡本/作曲:拓郎のコンビは、日本の名ソングライターチームとして知られる。
 アルバムのバックを務めるのは、名ギタリストの石川鷹彦、松任谷正隆・林立夫(キャラメルママ)、後藤次利・小原礼(共にサディスティック・ミカ・バンド)など、日本を代表するミュージシャンばかりで、中でも松任谷正隆は、キーボードだけでなく、バンジョーやマンドリンなど八面六臂の活躍で、カントリーテイストを醸し出すのに大いに貢献している。
 最後に、注文をつけたいところが1点だけある。それは名曲「旅の宿」のこと。この曲は、シングルバージョンとアルバムバージョンの2種類のテイクが存在しているのだが、僕はシングルバージョンのほうが好きである。次のCD化の際には、ボーナストラックとしてシングルバージョンも、ぜひ収録してほしい!

著者:河崎直人

OKMusic編集部

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