コンピレーションの傑作『スネークマ
ン・ショー』、お聴きになりますか?
 ……まさか!?

クラブイベントで優れたDJが見せるプレイ、あるいは見事な語り口で曲紹介をするラジオパーソナリティーのMCは、不思議なものでそれ単体で聴くよりも、楽曲の心地良さを何割かアップしてくれると思う。世界的には何億円も稼ぐDJもいるそうで、そんな効果、効用を考えればそれも当然なのかもしれない。楽曲を創造するのはもちろん偉大な行為だが、それをしっかりと聴かせ、リスナーに印象に残るように紹介するのもまた偉大なる行為であることは間違いない。日本におけるクラブ・カルチャーの黎明期に、ディスクジョッキーの手法を取り入れた『スネークマン・ショー』は、その意味で偉大なコンピレーションアルバムである。

カルトな人気を得たラジオ番組

あらゆる音楽を試聴した上で自分好みのアーティストなり楽曲なりを見つけるなんて、余程の音楽マニアでも無理。やはり雑誌や知り合いからのお薦めであったり、好きなアーティストのルーツミュージックを探したりして辿り着くといったところが音楽とのポピュラーな出会いだろう。また、ラジオ番組でフッと耳にしたナンバーを気に入ったり、たまたま聴いたコンピレーションアルバムで知るというのも素敵な音楽との邂逅ではある。今はネット履歴から表示される“あなたへのおすすめ商品”を参考にしたり、“歌ってみた”や“踊ってみた”で知って…なんてこともあるのだろうか? それにしても、新しい音楽を知らしめる上で今もラジオ番組やコンピレーションアルバムが果たす役割は大きいと思われる。
今はDJと言えばクラブDJを想像する人がほとんどだろうが、自分で選曲も曲紹介もするというスタイルを取っているものもDJ=ディスクジョッキーと呼ぶ。これもラジオ番組あっての呼称だ。ディスクジョッキーによるラジオ音楽番組と言えば、『山下達郎サンデー・ソングブック』など今も人気番組は少なくないが、邦楽史上、リスナーに最もインパクトを与えた音楽番組となると、やはりスネークマンショーの名を挙げなくてはいけないのではないだろうか。
馴染みのない読者に説明すると、“スネークマン”とは桑原茂一、小林克也、伊武雅刀の3人によるプロジェクトで、76年から80年までラジオ大阪、ラジオ関東(現:RFラジオ日本)、東海ラジオ放送、TBSラジオにて、『スネークマンショー』、あるいは『それいけスネークマン』というタイトルで番組を展開した。映画『アメリカン・グラフィティ』でもDJ役を演じた、米国の伝説的DJ、ウルフマン・ジャックをお手本としてスタイルで、架空のDJがそれまで日本では余り紹介されることがなかったジャンルの音楽をオンエア。当初は曲のつなぎにシンプルなジョークを差し込む程度だったが、後に小林と伊武とのショートコントを織り交ぜるというかたちになった。

YMOとのコラボ~オリジナル盤の制作

と、さも当時、ラジオ番組を聞いていたかのように述べたが、上記はほぼ伝聞である。70年代後半のスネークマンショーはラジオ番組だったとは言え、全国放送ではなかったため、地方では聞く機会がほとんどなかった。TBSラジオでのオンエアにしても全国何十局にネットされていた記憶はない。日本武道館で行なわれたYMOとの合同イベントがほとんどギャグで、なかなかYMOの演奏が始まらないことに腹を立てた観客が暴動を起こしたこともあったというが、そんな情報がリアルタイムで田舎の中高生にまで伝わることもなかった。スネークマンショーの名前を全国的に広めたのは、やはり80年のYMOのアルバム『増殖』に参加したことと、81年のアルバム『スネークマン・ショー』のリリースによるところが大きかったのは間違いない。
当時、待望のYMOの新作『増殖』を聴いた時、「ここは警察じゃないよぉ~」というコントが出てきて驚いたリスナーは筆者だけではあるまい。だが、中身こそ大きく異なるとは言え、元々スネークマンはウルフマンをお手本にしているのだから、ベーシックな音楽番組の体であり、『増殖』も全体を通して聴きやすい作りであった。最初は面食らったリスナーも楽曲とのつながり、テンポ感の良さで耳馴染みを覚え、併せてラジカルなコントに惹かれていった人も多かったと思う。その『増殖』のヒットを受けて制作されたのが『スネークマン・ショー』。YMOの細野晴臣がプロデューサーとして参加した。収録されているコントは、「この電話、盗聴されているんだよ、盗聴」の「盗聴エディ」シリーズ(M1、3、6)、外壁塗装しているペンキ屋がラリっていくM12「シンナーに気をつけろ」など、ドラッグ・カルチャーを反映したものが多く、その点ではロック・ミュージックとの親和性の高さを意識していたのかもしれない(80年に大麻所持でポール・マッカートニーが逮捕された実際の事件を下地にしたM5「はい、菊池です」もドラッグと言えばドラッグか?)。

DJ的なつなぎも見事なコンピアルバム

軍隊のマッチョ感を皮肉ったと思えるM10「急いで口で吸え」、今となってはその童貞的な発想こそが味わい深いM17「これなんですか」など、コントの名作も多いが、『スネークマン・ショー』はコンピレーションアルバムとしても優れた作品でもあったと思う。CMソングではあったものの、当時YMOのアルバムには収録されていなかったM2「磁性紀 - 開け心 -」。YMOとプラスティックスというテクノポップバンドの共演による“ザ・クラップヘッズ”のM11「黄金のクラップヘッズ」。加藤和彦とムーンライダーズのメンバーによる“ドクター・ケスラー”のM13「メ・ケ・メ・ケ」。ここでしか聴けない音源が収録されている点で豪華である。懐メロを集めただけにもかかわらず、「青春ヒット集で御座い」とばかりに出してくるCDとは雲泥の違いだ。サンディーのM9「ジミー・マック」、クラウス・ノミのM15「コールド・ソング」も含めて、この辺からはテクノポップ、ニューウェイブ華やかし、イケイケな80年代の空気が感じられる。かと思えば、シーナ&ロケッツのM4「レモンティー」、ザ・ロカッツのM7「オール・スルー・ザ・ナイト」といったバンドサウンド一発のR&R、ロカビリーを収録している点も見逃せない。とりわけ、“鮎川とシーナが今、博多から来たからね”という台詞があるM3「盗聴エディ P-2」~サイレンの音~「レモンティー」のつながりは今聴いても実にカッコ良く、まさに“コンピレーション(=編集)”の妙味がある。さすがに、日本のクラブ発祥店と言われる“ピテカントロプス・エレクトス”の代表だった桑原茂一のプロデュース作だけのことはある。

元祖日本語ラップを収録した歴史的作品

アルバム『スネークマン・ショー』において、最も重要なのはM16「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」であろう。この楽曲は、Blondieの「Rapture」を元ネタとしたファンクに、小林演じる咲坂守と伊武演じる畠山桃内が発する言葉をリズミカルに乗せた楽曲──そう、ラップである。日本語ラップの起源については議論が分かれるところもあろうが、“商業的にも初めて成功を納めたラップ”と言われているThe Sugarhill Gangの「Rapper's Delight」のリリースが79年。アンダーグラウンドはともかく、メジャーシーンでその前に日本語ラップがあったとは考えづらく、81年発売の『スネークマン・ショー』は、おそらくその制作は80年。後の山田邦子の「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」(81年)、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」(84年)に先駆けた“元祖ラップ歌謡”と呼んでも差し支えはなかろう。歴史的な意味合いは深い。コントの秀逸さはもちろん、コンピレーションアルバムとしても優秀なうえ、音楽史における資料としても貴重。『スネークマン・ショー』、名盤である。

著者:帆苅智之

OKMusic編集部

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