AUTO-MODらによるオムニバス盤『時の
葬列』は日本のロックシーンに多大な
る影響を与えた意欲作

オムニバスアルバムというと、誰もが知っている選りすぐりのヒットナンバーばかりが収録されていて、「ドライブにぴったり!」なんて作品を想像するかもしれない。それも悪くはないが、自らが推すアーティストや音楽ジャンルをまとめ上げ、そのシーンを紹介するタイプのオムニバス盤もいいものだ。古くは、『REBEL STREET』(82年)、『ハードコア不法集会』(84年)、『GREAT PUNK HITS』(84年)など、黎明期だった日本のパンク~ニューウェイブを鼓舞せんとした傑作があったが、今回紹介する作品もそれらと同時期に生み出された歴史的な名盤である。

日本でのゴス、ポジパンの始祖

それ自体がエポックメイキングというわけではなく、一般的な知名度こそ薄いものの、この人がいなかったら、或いはこれがなかったら、後の歴史は変わっていただろうという人物や物、事象というものが存在する。漫画好きなら、トキワ荘での“テラさん”こと、寺田ヒロオ氏の名前が浮かぶのではないだろうか。『スポーツマン金太郎』といった代表作はあるものの、漫画家としてのネームバリューは後輩である藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らに遠く及ばない。しかし、氏はトキワ荘のリーダー的な存在として、漫画関係はおろか、後輩たちの私生活の相談に乗るような人物だったらしく、寺田ヒロオという存在がなかったら、『オバケのQ太郎』も『サイボーグ009』も『おそ松くん』も、ひいては『おそ松さん』もなかったかもしれない。スポーツ界では、ガッツ石松、井岡弘樹ら6人の世界チャンピオンを育て上げた名伯楽、エディ・タウンゼント氏がそういう存在だろうし、プロレスのヒールにはスターを輝かせるための役割に徹していた人も少なくなさそうだ。
音楽業界では、やはりピート・ベストだろうか。彼はビートルズのメンバーとしてメジャーデビューする直前まで在籍していた、所謂“5人目のビートルズ”。脱退理由については未だ諸説あるため、何とも言えないところではあるが、彼がビートルズを地元の人気バンドに押し上げた功労者であることは間違いないらしく、ピート・ベストがいなかったら歴史が変わっていた可能性は払拭できない。人物だけでなく、いくつかの音楽ジャンルにも、その…結果的にブリッジになった感は否めないものの、その後に大きな影響を与えたジャンルというものがある。ヒップホップのサブジャンルの中にはそれがあると思うし、ニューウェイブもしかりである。ていうか、ニューウェイブ自体、パンク~ポストパンクを含むかなり曖昧なものなのでサブジャンルでも何もないのだが、こと日本においては相当重要な音楽要素ではあると思う。とりわけゴシック・ロック、ポジティブ・パンクが80~90年代のバンドシーンに与えたインパクトは絶大だったと言わざるを得ない。バウハウスやザ・キュアー、キリング・ジョーク、ジョイ・ディヴィジョン、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、さらにはセックス・ギャング・チルドレン、サザン・デス・カルト、ダンス・ソサエティー、エイリアン・セックス・フィエンドといった英国バンドがそれらのジャンルの始祖。筆者の感覚では上記のスージー・アンド・ザ・バンシーズまでがゴシック・ロック勢、それ以後がポジティヴ・パンク勢と分けたい感じだ。日本での始祖は、上記バンドたちからモロに衝撃を受けたAUTO-MODがその代表格であることで間違いなかろう。

布袋寅泰、高橋まこと、渡邉貢らも参加

AUTO-MODは78年の日本におけるパンクムーブメント“東京ロッカーズ”にWORST NOISE、MARIA023などのバンドとして参加していたフロントマンのGENET(Vo)が、渡英後の80年に結成したバンド。上記の通り、バウハウスに多大な影響を受けている。バウハウスは視覚的パフォーマンス、特にピーター・マーフィー(Vo)のステージングに対する評価も高かったが、同様にAUTO-MODも当時は斬新だった演劇的表現を導入。GENETはAUTO-MOD以前から、その当時は誰もやっていなかったメイクをしてステージに上がっていたというから、それは極めて自然な流れであったようだ。その音もゴシック・ロック、ポジティブ・パンクそのもので、まさしくポストパンクと言えるものであった。何だかんだ言ってもオールドスクールなR&Rからの地続きだった初期パンクに比べ、(少なくとも日本のゴス、ポジパンは)メロディー、コード、リズムもそれらに縛られない音楽であったように思う。具体的には、テンションノートを取り入れ、不安定さの中にも妖しさのあるギター・サウンド、デカダンかつ妖艶な歌詞世界、また、反復の多様によるダンサブルなアレンジといったところだろうか。国内では他に比類なき音楽ではあった。
81年にメジャデビューを果たしたAUTO-MODは、82年に渡邉貢(Ba、PERSONZ)、布袋寅泰(Gu、ex.BOØWY)、高橋まこと(Dr、ex.BOØWY)が加入。今となってはPERSONZ+BOØWYというドリームチームのかたちで本格的に始動する。ちなみに、渡邉は85年の解散までバンドを支えるが、AUTO-MODの活動中にGENETの紹介でJILLと出会い、AUTO-MODと平行してPERSONZの前身バンドへも参加することとなったという。また、布袋と高橋はBOØWYの人気が上昇するに伴ってその活動に専念するために84年に脱退することになるが、それまではふたつのバンドを掛け持ちしていた。今、メンバーの名前だけ見たら「ブレイク間違いなし!」といったところだろうが、如何せん、80年代前半の話である。全員、一般的な知名度は皆無だったと言っていい。83年に発表した1stアルバム『REQUIEM』は丸尾末広が描いたジャケットも話題となり、限定2,000枚は瞬間的に完売となったが、一部好事家たちの圧倒的な支持とは裏腹に、AUTO-MODの名前、そして彼らが標榜していたゴシック・ロック、ポジティブ・パンクが世間に浸透するまでには至らなかった。同時期、米国ではカルチャー・クラブ、デュラン・デュランら、ニューロマンティックが流行り、さらに音楽の多様性が広まっていた頃でもあり、日本のロックシーンが思うようにならない状況にGENETは忸怩たる思いを抱えていたのだろう。同じ年、彼は奇策に打って出る。

解散を目指し、独自の世界観を構築

それはAUTO-MODの解散を最終目的として活動を展開するという、当時としてはかなり斬新な試みであった。衝撃的だったと言い換えてもいい。その第一弾として83年12月にシリーズギグ『時の葬列・終末の予感』をスタート。同時に所属レコード会社傘下のレーベル“ヴェクセルバルグ”を設立する。レーベルにはSADIE SADS、G-SCHMITT、MADAME EDWARDAらが集い、日本のゴス、ポジパンはそれまで以上に具現化されていく。AUTO-MODに上記メンバーが加わり、各バンドの楽曲を2曲ずつ収録したオムニバスアルバムが、84年7月に発表された『時の葬列』である。当時の録音技術や各バンドのスキルを考えれば決して上質に仕上がったアルバムとまでは言えないとは思うが、今聴いても参加バンドの熱量の高さを感じずにはいられない作品だ。SADIE SADSは前衛音楽を意欲的に取り込もうとしているようだし(M2「グラス・ブラハ」、M5「ペアー・ドッグ」)、G-SCHMITTのギターは明らかに現在に通じるアプローチを感じさせる(M4「Kの葬列」、M6「カソリック」)。MADAME EDWARDAはゴスにポップさを加えることを腐心している感じで、なかなか興味深い(M3「プリンセス・リータ」、M7「ロウ」)。AUTO-MODは流石の貫禄と言った印象で、英国のゴス、ポジパンからの影響を感じさせつつも、M1「時の葬列」でダンサブルなビートとエッジの立ったギターサウンド、フリーキーなサックスとを融合。M8「ワォンダリング・チャイルド」はシアトルカルなヴォーカル・パフォーマンスを中心にドラマチックなバンドアレンジで、本場とは異なる独自の世界観を構築している。このオリジナリティーは褒め称えられてしかるべきだと思う。
83年以降の活動は解散が最終目的だったAUTO-MODは、その間に『DEATHTOPIA』、『EESTANIA』、『BIBLE』(いずれも85年発売)というアルバムを発表し、85年11月、後楽園ホールでの『時の葬列・終末の予感<最終夜>』にて、5年半に及ぶ活動に終止符を打った。GENETはその後、前衛アングラ演劇を行なっていったが、87年に音楽活動に復帰。97年にはAUTO-MODを復活させて今に至っている。80年代に自らが標榜するロックシーンを浮上させるという本懐を果たせず、解散という道を選んだAUTO-MODだが、そこでの試み──アルバム『時の葬列』、シリーズギグ『時の葬列・終末の予感』はその後の日本のロックシーンに多大なる影響を及ぼした。ズバリ言えば、ビジュアル系への影響である。とはいえ、直接的にそのまま伝播したのではなく、AUTO-MODを筆頭とするその界隈のバンドたちを始祖とすると、孫的、或いは曾孫的な存在がビジュアル系であろう。当時のゴス、ポジパンに影響を受けたというGASTUNK。DEAD ENDやX JAPANはGASTUNKからの影響を公言しているし、DEAD ENDやX JAPANの影響下にあるバンドはそれこそ枚挙に暇がない。サウンド面ではBUCK-TICKにもその匂いは感じられるし、アングラ感は筋肉少女帯や初期の黒夢にも通じるものがある。AUTO-MODと、それに呼応したバンドたちがいなかったら、日本の音楽シーンが今とは様変わりしていたことは疑いようがない。

著者:帆苅智之

OKMusic編集部

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