Sadsの2ndアルバム
『BABYLON』から考える
アーティスト・清春の
指向性とバンドとの相性

『BABYLON』(’00)/Sads

『BABYLON』(’00)/Sads

6月27日、東京ヒューリックホールで、今年デビュー25周年を迎えた清春のライヴが開催されるとあって、今週は彼にとってメジャー進出後2度目のバンドであり、ロックアーティストとしての印象を決定付けたと言ってもいいSadsを取り上げてみたい。もはやソロシンガーとしてのキャリアのほうが長くなってしまった清春。今回紹介するアルバム『BABYLON』はその作風からして、ここまでの彼の軌跡においていくつか存在する重要なポイントのひとつである。

バンドと一アーティストとの狭間

昨年、Sads活動休止前のライヴMCで清春は「僕はあんまりバンドというものが好きじゃない」と言ったと聞いた。そのあとで「でも、僕がやったバンドの中でも、これが一番強烈だったと思います」と付け加えたというから、彼にとってそれだけSadsが特別な存在だったということを強調するための台詞だったのだろうが、その辺を含めてとても清春らしい発言だと思う。現在、その活動をソロシンガーだけに絞っている彼であるが、ここまでのキャリアの中で、清春ほどバンドとソロアーティストとの狭間で逡巡した姿を見せた人もいなかったのではないだろうか。1999年の結成から2003年の活動休止までのSadsはまさしくその葛藤の渦中で活動していたバンドであるし、清春にとってはあの時期のSadsがあったからこそ葛藤したとも言える。特に今回『BABYLON』を聴き直して、その想いを強くした──というか、今はその想いしか沸き上がってこない。

話は清春が世に出るきっかけになった黒夢、その後期にまで若干遡る。1990年代前半、所謂ビジュアル系シーンから現れた黒夢であったが、1990年代後半からハードコア系の楽曲が増えてライヴ本数も増加。年間約230本ものライヴを行なうことで、シーンにおいて独自のポジションを確立する。しかし、そのハードな活動内容にベーシスト、人時が着いて行けず、黒夢は1999年1月29日に無期限で活動を停止することとなる。

その後、結成されたのがSadsである。1999年6月にUKツアーを敢行して、7月にシングル「TOKYO」でデビューという、素早い動きであったこと。さらには黒夢のサポートを務めていた坂下たけとも(Gu)がメンバーに加わったことからすると、黒夢後期からすでにSadsに向けてのプロジェクトは動き出していたことになるし、もっと言えば、人時の脱退がなければ、少なくとも1999年には黒夢は活動休止しなかったとも考えられる(人時が脱退を口にしたことが悪いと言っているわけではないことを強調しておく。念のため)。要するに、あの時期、清春は全国各地を駆け回り、年間の3分の2をライヴハウスで過ごす、トラベリンバンドような活動がしたかったのだろうし、ひいてはそのスタンスがSadsにも受け継がれたのだろうと考える。その点、同年11月からスタートしたSadsとしての初めての本格的な全国ツアーがホール公演であったことは意外であったが、1stアルバム『SAD BLOOD ROCK'N'ROLL』(1999年)がバンドサウンドによるR&Rアルバムであったことが当時の清春の心境を端的に表していたと思う。

その『SAD BLOOD ROCK'N'ROLL』はチャート初登場2位で、全国ツアー前にリリースした2ndシングル「SANDY」も初登場3位。翌年2000年1月に発表した3rd「赤裸々」は2位、そして、同じくチャート2位だった同年4月の4th「忘却の空」は人気ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の主題歌となったことで、Sadsの名はファン層以外にも広がりを見せた。傍からは極めて順調に活動しているように見えたのではあるが、この頃の清春には何やらモヤモヤとしたものが生まれてきていたようではある。

シングルヒットの勢いに乗ったかたちで同年6月にリリースされ、ついにチャート初登場1位を獲得することとなった2ndアルバム『BABYLON』は、特にその清春の逡巡や葛藤が色濃く反映された作品であるように思う。のちに清春はバンド結成直後からSads自体に虚無感を抱いていたことを述懐したそうだが、筆者も当時初めて『BABYLON』を聴いた時、さすがにそれが虚無感だとは受け取らなかったものの、何か不思議な違和感を抱いたことを覚えている。

OKMusic編集部

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