『Let There Be Music』(’75)/Orleans

『Let There Be Music』(’75)/Orleans

アメリカ屈指のギタリスト、ジョン・
ホールが在籍したオーリアンズの大ヒ
ット作『歌こそすべて』

なぜかは分からないが、オーリアンズは日本でそれほど脚光を浴びたことがないグループだ。しかし、彼らがリリースしたアルバムに駄作はない。特に、スーパーギタリストのジョン・ホールがイニシアチブを取ったデビュー作から4作目まではどれも傑作で、アメリカンロック史に残る名作群だと言える。今回、紹介するアルバムは、誰もが聴いたことがあるはずの大ヒットシングル「ダンス・ウイズ・ミー」(全米6位)を収録した3作目の『歌こそすべて(原題:Let There Be Music)』。70年代中期の西海岸産のロックで、最高レベルに達していると言っても過言ではない傑作中の傑作だ。

ジョン・ホールというギタリスト

オーリアンズのリーダーを務めるジョン・ホールは、もとは東海岸のウッドストックを中心に活動しており、オーリアンズを結成する前から数々のセッションに参加し、70年初頭には熱心なロックファンに注目を集めたギタリスト兼ソングライターであった。特に、ジャニス・ジョプリンの死後にリリースされた傑作『パール』(‘71)に収録された「ハーフムーン」の楽曲提供で、広くその名を知らしめることになった。70年には早くもソロデビュー作『アクション』をリリースしている他、6人目のザ・バンドと言われたジョン・サイモンのソロデビュー作『ジョン・サイモンズ・アルバム』(’70)、カレン・ドルトンの稀有の名作『イン・マイ・オウン・タイム』(‘71)、ボニー・レイットの『ギブ・イット・アップ』(’72)など、キラリと光るギターワークでセッションマンとしての地位を確立していく。

歌のバックで光るアメリカのギタリスト

俗にスーパーギタリストと呼ばれるプレーヤーは多いが、60〜70年代中期までのイギリスとアメリカでは、お国柄とも言えるそれぞれのスタイルがあった。エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、スティーヴ・ハウ(イエス)に代表されるギタリストたちは弾きまくるタイプが多く、メインのヴォーカリストよりも華やかなギタープレイで目立つことも少なくなった。
それに比べて、アメリカの名ギタリストたちは歌を盛り立てるスタイルが多い。エルビス・プレスリーやエミルー・ハリスなどのバックで知られるジェームス・バートン、スライドギターの名手ライ・クーダー、ジョージ・ハリスンやジョン・レノンのお気に入りだったジェシ・デイヴィス、超絶テクニックを持っているのにひけらかさないエイモス・ギャレットなど、彼らはシンガーを引き立てるタイプで、決してフロントに出ないがシンガーのバックに参加した時に、いぶし銀のような名演奏を聴かせてくれるのだ。
これってどちらが良いかという問題ではなく、単に国民性なのだと思う。ただ、ジョン・ホールについては、70年初頭までのプレイを聴くとどちらかと言えばブリティッシュ系の派手なプレイを得意としていたように思う。リズムギターはほぼ弾かずソロばかりであった。ところが、オーリアンズを結成してからはソロには磨きがかかり、その上リズムギターの名手になっていたのだから彼の努力が分かる。

オーリアンズの結成

オーリアンズはウッドストックを中心に活動していたミュージシャンたちが集まって72年に結成された。ジョン・ホール以外のメンバーは、たいして知られてはいなかったが、確かな演奏技術と巧みなソングライティングで、地元のニューヨーク近辺で大きな人気を集めていた。当時、西海岸のロック界で実力のある筆頭グループはリトル・フィートであり、“西のリトル・フィート、東のオーリアンズ”と呼ばれるほどであった。
そして72年、待望のデビューアルバム『オーリアンズ』(‘73)がリリースされる。僕が彼らのことを知ったのは高校2年生ぐらいであったと思う。このアルバムは日本盤もリリースされたが、ジョン・ホールのファン以外は完全にスルー状態でまったく売れなかった。その一番の問題は、契約していたレコード会社(ABCレコード)で、彼らの売り方があまり分かっていなかったようだ。これがワーナーやキャピトルあたりならもっと上手にプロモーションしていたと思う。ただ、その内容は素晴らしく、僕の家では未だにヘビーローテーションだ。ソウルやファンクに影響されたリズムセクションに加え、ホールの巧みなヴォーカルと華麗なギターワーク、メンバーによる厚みのあるコーラスなど、ほぼ満点の仕上がりであった。録音はマスルショールズで、南部の重鎮であるバリー・ベケットとロジャー・ホーキンスがゲスト参加している。このアルバムでは、ジャニスに提供した「ハーフムーン」をセルフカバーしていて、ホールの驚異的なギタープレイが収められている。
このデビューアルバムが売れなかったのは本国でも同じで、2ndアルバム『レット・ゼア・ビー・ミュージック』(‘74)は日本やヨーロッパでは発売されたものの、アメリカではお蔵入りとなっている。僕はホールのファンなのでもちろん日本盤を買ったけど、1stよりも荒削りでこれもまた絶品であった。

西海岸に移って再スタート

ライヴでは人気を集めていたのもかかわらず、アルバムが売れずにメンバーが落ち込んでいた時に、西海岸のアサイラムレコードとの契約が成立、お蔵入りとなった2ndアルバムに収録されていた曲「Let There Be Music」「Dance With Me」も再録音し、西海岸で再スタートすることになる。

本作『歌こそすべて』について

さて、イーグルス、ジャクソン・ブラウン、トム・ウェイツ、リンダ・ロンシュタットらが在籍する西海岸のアサイラムレコードに移籍し、75年にサードアルバムとなる本作『歌こそすべて』をリリースする。すると、シングルカットした「ダンス・ウイズ・ミー」が全米6位の大ヒットとなり、彼らの名前は一挙に広まった。
このアルバムの魅力はアメリカンロック界でもトップレベルの演奏能力や、ホールの巧みなソングライティング、イーグルスに負けず劣らずのコーラスワークなどももちろんであるが、ロック的な視点で語ると、ホールともうひとりのギタリスト、ラリー・ホッペンによるツインリードギターの素晴らしさにある。ツインリードはロック界では当たり前である。しかし、彼らのツインリードは他のどのグループにもないスタイルだ。ふたりで交互に弾くことはもちろん、難しいフレーズをハモったり、リズムとリードに分かれたりと、まさに縦横無尽、これはホールとラリーが考案したオーリアンズ独自のスタイルである。
前の2枚が売れなかったからか、これまでに見られた南部ソウル(泥臭い音楽)的な雰囲気は本作ではあまりなく、ウエストコーストロック然としたサウンドと、都会的なソウル/ファンク・テイストで固めている。それにプラスして、徐々に登場しつつあったAOR的な感覚もあるのだが、ハードロック的なスピード感やジャムセッション的なスリルもしっかりあって、何度聴いてもその度に新しい発見ができるのだ。残念なことに、日本ではあまり顧みられないが、僕はロック史上に残る名盤だと思う。特にギターを弾いている人は聴いてほしいアルバムだ。ここに詰まっている数々のギター奏法が会得できたら、君は間違いなく名ギタリストになれるはずだ。

『歌こそすべて』以降のジョン・ホール

このアルバムの次に、もう1枚アサイラムからオーリアンズ名義の『夢のさまよい(原題:Waking And Dreaming)』(‘76)をリリース(これも傑作!)したのち、ホールはグループを脱退しソロアーティストとなる。4枚目のソロとなる名作『パワー』(’79)をリリース後はジョン・ホール・バンドとして活動するも、反原発運動に力を注ぎ、下院議員を2期務める政治家となった。議員を引退してからは、まったりしたソロ作をリリースするなど、現在も悠々自適の生活を送っているようだ。

TEXT:河崎直人

アルバム『Let There Be Music』発売中
アルバム『Let There Be Music』(’75)

OKMusic編集部

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