『フィルモアの奇跡』はスーパー・セ
ッション隆盛の先駆けとなったロック
史に残るライヴ盤

1968年9月、マイク・ブルームフィールドとアル・クーパーが中心となったライヴセッションがフィルモア・ウエストで開催された。インプロビゼーションを中心にしたパフォーマーたちの高い演奏力は、50年代に生まれたロックが完成に近づきつつあることを証明するものであった。70年代初頭、日本も含め世界中のロック好きを自称する若者たちにとって、『フィルモアの奇跡』(原題:The Live Adventure Of Mike Bloomfield And Al Kooper)はバイブルとなった。LP時代は2枚組でリリースされ、高価であったにもかかわらず世界のロックフリークたちを狂喜させた、まさしく“フィルモアの奇跡”なのである。

アル・クーパーの才能

本作の主人公であるマイク・ブルームフィールドとアル・クーパーのふたりについては、80年代以降にロックを聴き始めた人であれば、あまり知らないかもしれない。ギタリストのブルームフィールドは81年に37歳の若さで亡くなっているし、クーパーも70年代中頃にはすでに表立った活動はしなくなっていたからだ。しかし、60年代の終わりからロックを聴いていた人なら、彼らのすごさは十分すぎるほど知っているはずだ。彼らが関わった本作と『スーパー・セッション』(‘68)の2枚のアルバムが、当時のロックの発展に非常に大きな影響を与えたことは間違いない。
さて、アル・クーパーだ。彼がロック界に残した足跡は大きなものだが、その多くは60年代中頃から70年代中頃までに集中している。彼のプロフィールを紹介しながら、その仕事を少し見ていこう。
1965年、彼の作曲した「恋のダイアモンド・リング」がゲイリー・ルイスに取り上げられ、全米1位となる。そして同年、このヒットがきっかけかどうかは分からないが、ボブ・ディランの代表アルバムのひとつである『追憶のハイウェイ61』に、バックメンとして参加するチャンスを得る。クーパーはこのアルバムに参加していたマイク・ブルームフィールドと初めて出会い、ブルースをルーツにしながらもロックフィールにあふれた彼のギタープレイに大いに魅了されることになる。
その後、白人ブルースロックバンド、ブルース・プロジェクトを結成、在籍している間にプロデュースやアレンジ手法も学びつつ、自分の進むべき方向性を模索していた。結局、メンバーとの軋轢などがあり、このグループを67年に脱退、ここから彼の天才が開花、アル・クーパーとしての破竹の活躍が始まる。

たった1年ほどの間に…

60年代後半のロックはサイケデリックロックやヒッピームーブメントなどの世界的流行もあり、その中心はアメリカ西海岸にあったと言っていいだろう。クーパーもその動きを敏感に感じ取り、ニューヨークからロサンゼルスに向かっている。次に彼がリーダーとなって結成したのが、ロック史に残るブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ(1)というブラスロック・グループ(2)だ。彼らのデビューアルバム『子供は人類の父である』(‘68)は、高い音楽性とポップさを併せ持った優れた作品であったが、クーパーの独裁的なバンド運営にメンバーが反発、アルバムリリース後すぐにグループを追い出されてしまう。翌年に出たクーパー抜きの2ndアルバムが、グラミー賞の最優秀アルバムに選ばれるのだから皮肉なものである。
ただ、クーパーの頭の中にはやりたいことが山のようにあったようで、次に手がけたのが、ジャムセッション(3)をそのまま録音するという企画だった。ジャムセッションはジャズでは日常茶飯事に行なわれていることだが、ロックにおいてはグループでの演奏が基本で、セッションはレコード会社との契約や技術的なことも含めて、ハードルの高いイベントであった。もちろん、グレイトフル・デッドやオールマン・ブラザーズ・バンドら、ジャム的な演奏を繰り広げているグループも少なくはなかったが、同じグループ内や関連グループ間で行なわれていたのが実情だ。
セッションの企画を実現するため、クーパーがまず連絡したのはマイク・ブルームフィールドであった。クーパーはそれだけ彼のギターをリスペクトしていたし、ブルームフィールドが参加すればジャムセッションは大成功するだろうと考えてもいた。そして68年、『スーパー・セッション』はリリースされた。メンバーは、クーパー、ブルームフィールド、バッファロー・スプリングフィールドを解散したばかりのスティーブ・スティルスの3人がフロント、ハーヴェイ・ブルックス、エディ・ホー、バリー・ゴールドバーグら、凄腕たちがバックを務めた。スティルスはブルームフィールドがレコーディング中に急病で倒れたため、代打としての参加であった。そんなわけで、ブルームフィールドとスティルスは別録りで、残念ながら共演はしていない。
クーパーの目の付けどころは正しかったようで、『スーパー・セッション』はビルボードチャートで12位まで上がり、ゴールドディスクとなっている。僕も中学生の時、このアルバムをロック好きの友達と聴きまくり、大いに興奮したことを今でもしっかり覚えている。ブルームフィールドは、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックらと並んで、日本では今でも最も好まれているギタリストのひとりではないだろうか。
次にクーパーが仕掛けたのは、この『スーパー・セッション』をライヴで披露するというもので、68年9月にフィルモア・ウエストで行なわれた3日間にわたるライヴの模様を収録したのが本作『フィルモアの奇跡』である。
こうやってみると、たった1年ほどの間に「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ」のデビュー盤、『スーパー・セッション』のリリース、『フィルモアの奇跡』の3日間におよぶライヴレコーディング…これらロック史に残る仕事をクーパーは見事にこなし、他にも10枚近くのアルバムにセッションミュージシャンとして参加しているのだから、彼の才能には心底恐れ入るばかりだ。ちなみに、69年には彼の初ソロアルバム『I Stand Alone』がリリースされている…。

『フィルモアの奇跡』について

『スーパー・セッション』もそうであったが、本作も基本的にはブルームフィールドのギターを生かすためにブルースナンバーが多く取り上げられている。他にはサイモンとガーファンクル、レイ・チャールズ、ザ・バンド、トラフィックなど、ポップなものから玄人受けするミュージシャンの曲までが取り上げられているが、ブルース曲以外の選曲はクーパーによるものだ。収録曲は全部で13曲。2枚組のボリュームからすると曲数が少ないが、セッションがメインのイベントなので1曲の時間が長いからである。
今回も『スーパー・セッション』と同じように、最終日にブルームフィールドが体調不良になり欠席、代役としてカルロス・サンタナ(これが彼のレコードデビューとなる)とエルヴィン・ビショップ(ポール・バタフィールド・ブルース・バンドは、エルヴィンとブルームフィールドのツインギターだ)のふたりが呼ばれ、そのおかげで彼らの名前はめでたく世界中に知られることとなった。
アルバム全編を通して言えることは、やはりブルームフィールドの存在感が圧倒的なこと。ライヴ録音のセッションだけにミストーンは少なくないのだが、そんなことは問題にはならず、彼の情熱あふれるギタープレイには感動すら覚える。間違いなくロック史上に残る名演奏だ。クーパーのプレイは全体的にあまり目立たず、ブルームフィールドの最高のプレイを引き出すために煽っているという感じがする。
70年代前半に巻き起こった日本でのブルースブームは、このアルバムがひとつのきっかけとなったことは確かだと思う。白人でありながら本物のブルースフィールを感じさせてくれるブルームフィールドに憧れ、彼を目指したギタリストは少なくない。いずれにせよ、本物のロックというか、当時のアメリカ西海岸の熱気みたいなものまでが、ちゃんと閉じ込められているところが、本作の最大の魅力かもしれない。
最後に、ベースのジョン・カーンとドラムのスキップ・プロコップは、日本ではあまり知られていないが、68年時点での演奏としては世界最高レベルのプレイを聴かせていることも付け加えておきたい。

著者:河崎直人

OKMusic編集部

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