テレヴィジョンの『マーキー・ムーン
』こそがニューヨークパンクの先駆的
アルバム!

パンクと言えば、セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムドら英のグループが多く語られるが、彼らに影響を与え、パンクロックの精神を世に知らしめたのは、テレヴィジョン、パティ・スミス、ラモーンズなど、ニューヨークで活躍したロッカーたちである。特にテレヴィジョンはメジャーデビューこそパティ・スミスに先を越されたものの、デビューアルバムとなる本作『マーキー・ムーン』のリリースによって、その実力を世界に知らしめただけでなく、ロックスピリットを失いつつあった音楽業界のカンフル剤としても大きな役割を果たした。ただ、彼らの全盛期はデビュー前から本作リリース後の少しであることも確かで、78年に発表した『アドべンチャー』の仕上がりは本作に及ばなかった。その後、休止・再結成を繰り返してはいるが、キレのいいバンドという以上の成果は残していない。

テレヴィジョン結成時のアメリカ音楽業
界は…

 テレヴィジョンが結成されたのは1973年。この時代のロック界の様子はと言うと、60年代中・後期に見られたクリームやMC5のような“音が大きくてハードなロック”から、キャロル・キングやジェームス・テーラーに代表される“身近な心象を描いたシンガーソングライター的なサウンド”へ移行しつつあった時期である。時代は高度成長期から安定期を世界的に迎え、ロックもゆったりとした大人のサウンドが求められるようになってきていた。それまでロックを聴いていた若者たちも気付けば社会人になり、大手レコード会社は新たな若手リスナーを獲得することに併せ、青年リスナーが続けて聴ける新たなロックを供給する必要に迫られていた。
 そんな事情もあって、72・3年頃のヒットチャートは、カントリーロックやポピュラー寄りのロックが大半を占めている。この後しばらくするとAORやダンス(ディスコ)音楽が全盛となる。当時の、いわゆる王道のロックファンたちは、概ねレコード業界の動きにのっとってロックを聴いていたと僕は記憶している。

ニューヨークの下町で培われた芸術性と
反商業性

 ただ、テレヴィジョンを生んだニューヨークの下町(ローワー・イーストサイド)は、アンディ・ウォーホルのポップアート(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88)やヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽を生み出したことからも分かるように、独自のアーティスティックな文化を持ち、一般的な世間の動きとは一線を画した土壌があった。
 前述したように、72・3年頃は、一般的にはどちらかと言えばエルトン・ジョン、カーペンターズらのポピュラー志向派と、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドや初期のイーグルスに代表されるカントリーっぽいロックが世界的に流行していたのである。僕が中学3年生の頃、日本でも音楽雑誌『ミュージックライフ』の人気投票でハード・ロックのレッド・ツェッペリンとフォークロックのCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)がデッドヒートを繰り広げ、最後は僅差でCSN&Yが1位になるという時代だったのだ。
 しかし、72年にデビューしたブルー・オイスター・カルト(ヘヴィメタルの元祖のひとつ)にしても、73年デビューのニューヨーク・ドールズ(パンク&グラムロックの元祖)にしても、ニューヨークの下町でしか育ち得ない一風変わったグループであった。これは世界に名だたる最先端の多くの芸術家たちがローワー・イーストサイドで活動していたのが大きい。世間的な流行に媚びず、自分たちの“真実”を創造する姿勢に、地元のロッカーたちの多くが影響を受けていたことは間違いない。
 社会的には、大量消費の一環としてのロックが生産されようとする時代であった。テレヴィジョンズやパティ・スミスらは、それらの産業ロックにノーを突き付け、荒削りではあるが個性的かつ前衛的なロックを生み出していく。そして、この後のロック界を大きく変革・牽引していくことになるのだが、最初にパンクロックとして世界的な注目を浴びたのはセックス・ピストルズだっただけに、パンクロックはイギリス由来のものという誤解を生じることになった。

マーキー・ムーンの周辺

 1971年、トム・ヴァーレイン、リチャード・ヘル(のちにハートブレイカーズ・ヴォイドイズ)、ビリー・フィッカの3人は、テレヴィジョンの前身ネオンボーイズを結成するものの、すぐに解散。バラバラになっていたが74年初頭に再結集、リチャード・ロイドを加えて4人組となる。ジョニー・サンダースのニューヨーク・ドールズ、パティ・スミス、デボラ・ハリーのブロンディーらと同じく、CBGBやマクシズ・カンサス・シティなどのライブハウスで腕を磨いた彼らは、ローワー・イーストサイドで絶大な人気を得るのだが、ライヴ活動が忙しいことやリチャード・ヘルの脱退などもあって、盟友パティ・スミスと比べるとメジャーデビューは若干遅れた(というか、メジャーデビューしたかったのかどうかも怪しい)。ヘルの脱退後、ブロンディーに在籍していたフレッド・スミスが加入することで『マーキームーン』への布陣ができた。
 インディーズでシングルを1枚発表した後にエレクトラと契約、77年2月に『マーキームーン』はリリースされた。地元出身で世界的写真家のロバート・メイプルソープによるジャケット写真はグループの先鋭的なイメージをしっかり捉えていて、今見ても最高にカッコ良い。サウンド面ではヴァーレインの激しいながらも個性的なヴォーカル、芸術性の高い歌詞、切れ味鋭いギター、都会出身者ならではのクールさ、荒削りで張り詰めた緊張感など、それらがミックスされた本作は、商業的に成功していたグループには絶対に真似のできない音作りがポイントであった。特にLP時代はA面にあたる最初の4曲の出来は秀逸で、10分にも及ぶタイトルトラックは彼らの最高の一曲だと思う。
 このアルバムが、後のポストパンクやオルタナティブロックのグループに与えた影響は計り知れない。しかし、あまりにも新しい音楽性を持っていたために、当時のリスナーにはなかなか理解されず、セールス面では苦戦したこともまた事実である。パンクロック人気の中心はイギリスで、テレヴィジョンが渡英するたびに熱狂するファンが増えていったとはいえ、アメリカ国内ではそんなに売れなかったのだ。結局、78年に2ndアルバムの『アドヴェンチャー』をリリースするものの、こちらはリスナーだけでなく批評家筋からの酷評もあって、あえなく解散することになってしまった。
 しかし、振り返ってみれば、テレヴィジョンに責任はなく、当時のリスナーが彼らの音楽に追い付けなかっただけであることは確かである。それは『マーキームーン』がパンクロックを代表する作品のひとつとして、2015年現在、未だに聴き継がれていることが証明となるだろう。個人的には、全てのパンクロックのアルバム中、最高位に位置する作品だと信じている。

テレヴィジョンの影響

 ヴァーレインの個性的なヴォーカルは、おそらくデビッド・ボウイやルー・リードに影響されていると思われるが、それを理解した上でもなお、ヴァーレインの個性は強烈だ。この強烈さこそが、ニューヨークの下町で生まれた所以なのかもしれない。その過度とも言えるクセのある個性は、トーキングヘッズのデヴィッド・バーン、ブームタウンラッツのボブ・ゲルドフ、忌野清志郎あたりに、その“過度さ”すら含めて引き継がれている。また、U2、REM、ソニック・ユースらは、インタビューなどを通して自分たちが影響されたグループとして、テレヴィジョンの名前を挙げていることも最後に記しておきたい。

著者:河崎直人

OKMusic編集部

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