前橋汀子がファンに贈る、最後のカル
テット ~ベートーヴェン対する熱い
思いを語る~

2022年に演奏活動60周年を迎えたヴァイオリニスト前橋汀子。今年(2022年)6月、銘器デル・ジェス・グァルネリウスを引っ提げ、ヴァイオリンの名曲の数々で聴衆を魅了してきた前橋が、2023年春にはベートーヴェンの弦楽四重奏曲に特化したコンサートを行うという。公演チラシには、“最後のカルテットへの挑戦”の文字が…。最後のカルテット”の真意とは⁈ 腕利き揃いの前橋汀子カルテットの魅力とは⁈  忙しいスケジュールの合間に、前橋汀子が取材に応じてくれた。
ヴァイオリン奏者 前橋汀子     (c)篠山紀信
―― ソリストのイメージが強い前橋さんですが、弦楽四重奏に対する思いを教えてください。
音楽の基盤はカルテットだと思っています。大切なことは分かっていましたし、やりたい気持ちもありました。しかし、若い頃の私はソリストとしてやっていきたいという思いの方が強かったのです。ソ連留学からいったん日本に戻り、再度アメリカに渡ってジュリアード音楽院のディプロマコースに入学した私は、ジュリアード弦楽四重奏団のロバート・マン先生にカルテットのレッスンを受けていました。最高の環境で学んでいたにも関わらず、個人の技量やソリストとしてやって行くためのレパートリー作りを優先し、カルテットは二の次になっていました。
ジュリアード時代の、忘れられない失敗談があります。学校の掲示板にアルバイトとして“カルテットのメンバー募集”の紙が貼られていました。内容を確認したところ、ヴァイオリンが趣味の大金持ちの依頼主が、パーティで一緒に弾いてくれるメンバーを募集しているとのこと。それならばと気軽に応募して、依頼主のご自宅に伺ったところ、「これを一緒に弾いて欲しい」と楽譜を渡されました。ベートーヴェンの「ラズモフスキー第1番」の楽譜でした。私は弾いたことも聴いたこともありません。初見で弾けるほど簡単な曲ではありません。自慢のストラディヴァリウス持参でやる気十分の依頼主をセカンドに従え、なんとか弾き終えたものの、音符を追うのに必死で、まったく何も覚えていませんでした。後にも先にも、あれほど恥ずかしい思いをした事はありません。あの時、いつかラズモフスキーをきちんと弾こう!と思ったのが、ベートーヴェンのカルテットにこだわる思いのベースにあるのかもしれません(笑)。
前橋汀子カルテット

―― 2014年に初めて、「前橋汀子カルテット」として、コンサートを開催されました。

ずっとカルテットをやりたいと思って来ましたが、実際一人では出来ません。一緒に弾くメンバー選びが難しいのですが、桐朋学園の同級生だったチェロの原田禎夫さんに、カルテットを教えて欲しいとお願いしたのです。原田さんは、30年続けて来られた東京カルテットをやめられた後で、「しばらくカルテットを弾く気がしない」と断られ続けて来ました(笑)。
カルテット結成の話が動き出したのは、あるコンサートで出会ったヴィオラの川本嘉子さんに、何気なくカルテットをやってみたいと話したら、ぜひ協力させて頂きたいと言ってくださったのです。室内楽の分野でも国際的に活躍されている方ですから、ぜひお願いしたいと。第二ヴァイオリンの久保田巧さんも、国際コンクールを受賞されている経験豊富な方。別のコンサートでお会いして、相談したところ、弾きたいと言ってくださいました。そうなれば、あとはチェロです。三顧の礼を尽くして口説き続け、ようやく原田さんの参加が決まりました。晴れて前橋汀子カルテットの誕生です。当初、コンサートの予定は無く、集まって弾いているだけで楽しかったのですが、やはり目標や発表の場が無いと作品の完成度に関わるので、コンサートをやろう!という事になりました。
チェロ奏者 原田禎夫   (c)斎藤清貴

ヴァイオリン奏者 久保田巧   (c)藤本史昭
ヴィオラ奏者 川本嘉子
―― 今回の「前橋汀子カルテット」のチラシに、〜最後のカルテットへの挑戦!ベートーヴェン!〜と書かれています。最後の意味が気になります。
最後、ですか? まだ引退をする訳ではありません(笑)。ただ私も正直、年齢のこともありますし、残された時間をどう使うかを色々と考えています。今年になって、ベートーヴェンのコンチェルトのCDをリリースしましたし、今回のカルテットでは、ベートーヴェンにこだわって、初期、中期、後期の作品を取り上げます。となれば、今回のカルテットのツアーを以て、いったん区切りとしよう!そして、ベートーヴェンのソナタ10曲ともう一度、徹底的に向き合いたいと思ったのです。カルテットをやった事で、ベートーヴェンの新たな発見、気付きも多く、また違ったヴァイオリンソナタをお聴き頂けると思います。
前橋汀子カルテット

―― なるほど。前向きな気持ちでの、最後のカルテットなのですね。安心しました(笑)。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲について教えてください。第4番、第11番「セリオーソ」、第14番が並ぶと、曲の変遷だけで無く、ベートーヴェン自身の変化も見えて、面白いですね。
ベートーヴェンを知るには、シンフォニーもピアノソナタも重要ですが、カルテットは避けては通れないと思います。後期の作品は、5楽章や7楽章といったものもあり、演奏時間の長い曲も多いのですが、全曲を続けて聴くと、彼が最晩年に到達した彼の生き様みたいなものが、物語のようになっている気がして仕方ありません。この作品を、耳が聴こえない状況で作曲されたとは到底信じられないですね。耳が聞こえないと一言で言いますが、実際のところはどんな感じだったのでしょうか。聞こえていてもあんな作曲は出来ない訳ですから、これは奇跡です。そんな作品を演奏するのであれば、気力と体力、時間が許す限り、ベートーヴェンと徹底的に向き合おうと思っています。楽譜を持ち歩き、常に頭の中で指の運びやボーイングを考えています。
―― 弦楽四重奏の難しさは、どういったところでしょうか。
カルテットは繊細です。4人の奏者の性格や考え方も違いますし、何より楽器が違います。それが合わさって一つのハーモニーが生まれ、それが音楽となって進んでいく。実に繊細な仕事の積み重ねだと思います。ソロで自由に弾く時や、ピアノトリオなどでソリスティックに弾く時とは違った神経を使い、緊張感が漲ります。この経験が、ソロで弾く時などに糧となっています。
前橋汀子カルテット
―― 先日の前橋さんのリサイタル、私はびわ湖ホールで拝聴しました。小品のアンコールが続き、極上のひと時を過ごしていると、アンコールでいきなりフランクのソナタを弾き始められ、一気に2楽章まで。このまま最後まで弾き切られる勢いだったので息を呑んで見入っていました。

弾き始めると、誰も止められないと思って弾き始めたのですが(笑)。お客様の前でヴァイオリンを弾き始めると、ずーっと弾いていたいなぁと思ってしまいます。周囲のスタッフは時間を気にして、時計を片手にピリピリしているのがわかります。ちなみにフランクは、翌日のザ・シンフォニーホールのリサイタルのアンコールで第3楽章、第4楽章を弾きました。

―― ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの中で、前橋さんはどの曲がお好きですか?
一般的には第5番「春」と第9番「クロイツェル」が人気の曲ですね。私にとっては、第2番と第7番はヨーゼフ・シゲティ先生のレッスンを受けた曲なので、特別に思い入れもあります。シゲティ先生は、全曲をクラウディオ・アラウと弾いていて、名盤として有名ですが、アルトゥール・シュナーベルと第10番を、ベラ・バルトークと第9番「クロイツェル」を弾いている演奏も本当に素晴らしいです。一緒に演奏するピアニストによってテンポやアーティキュレーションが違い、ここまでベートーヴェン像が違うのかと驚くぐらいです。テンポといっても、メトロノームでいくつということではなく、ホールの響きによっても変わってくるので、当日のホールで弾いてみて判断する事も大切になります。
ヴァイオリン奏者 前橋汀子    (c)篠山紀信

―― ベートーヴェンのソナタ全曲演奏ですが、関西では以前、教鞭を取られていた大阪音楽大学のザ・カレッジ・オペラハウスでも2日間でやられましたね。

2009年ですね。同じタイミングで、東京の王子ホールでも全曲演奏会をさせて頂きました。その時は初日が、1番、2番、5番、7番、10番。2日目が、4番、3番、6番、8番、9番でした。どうしても9番「クロイツェル」の陰に隠れがちですが、最後に書かれた10番のソナタは異彩を放つ曲で、後期のカルテットを彷彿させる独特な曲です。この時は初日の最後に演奏しました。
―― 前橋さんの活動を支えておられるヴァイオリンを紹介して頂けますか。
1736年製のデル・ジェス・グァルネリウスで、製作から300年近く経っています。銘器と言われるヴァイオリンは色々な奏者が弾き継いでいるため、いささか疲れた状態の楽器も多いのですが、私のデル・ジェスはヨーロッパの貴族の館で、誰にも弾かれる事なく100年近く眠っていたので若々しい状態です。楽器との出会いは運命です。良い楽器から学ぶ事は多く、弾けば弾くほど色々なアイデアが湧いて来ます。このデル・ジェスが手元にある事で、コロナの自粛期間もヴァイオリン三昧の日々を送る事が出来ました。
私のヴァイオリン、1736年製のデル・ジェス・グァルネリウスです   (c)篠山紀信
―― この先の活動について、お聞かせください。2023年の3月から4月にかけてのカルテットのツアー以外、他にコンサートなどは決まっておられますか。
リサイタルでヴァイオリンの小品や、バッハの無伴奏曲などを演奏するほか、「前橋汀子&弦楽アンサンブル」と銘打った、ヴィヴァルディ「四季」などを小編成のアンサンブルで演奏するコンサートを、2023年1月21日兵庫県立芸術文化センターで開催します。この弦楽アンサンブルのコンサートマスターは、大阪交響楽団の森下幸路さん。アンサンブルの若いメンバーはオーケストラの首席クラスで構成されていて、随時変わっていきますが、コンサートマスターの森下さんだけは固定で、いつも演奏を支えて頂いています。
現在はカルテットに力を注ぎながらも、いろいろな形態で弾かせて頂いています。23年1月9日にはミューザー川崎で、堤剛さんと藤田真央さんでピアノ三重奏曲「大公」を演奏します。藤田さんとはスプリングソナタも演奏するので、とても楽しみにしています。こちらは既にソールドアウトだそうです(笑)。もちろんオーケストラと一緒にコンチェルトを弾くコンサートもあり、6月にはサントリーホールでのアフタヌーン・コンサートが19回目を迎えます。
―― どうかいつまでも元気にヴァイオリンを弾き続けてください。最後にメッセージをお願いします。
久しぶりにカルテットの演奏会ができますこと、大変楽しみにしております。今回のオール・ベートーヴェンのプログラム、ぜひ皆様に聴いていただけましたら嬉しいです。
久しぶりのカルテットの演奏会、ぜひお越しください   (c)H.isojima
―― 前橋さん、長時間ありがとうございます。コンサートのご成功を祈っております。
取材・文=磯島浩彰

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