メタリカのL・ウルリッヒ、J・ヘット
フィールドとの出会いを語る

メタリカのラーズ・ウルリッヒ(Ds)が、ジェイムス・ヘットフィールド(Vo)との出会いについて語った。ヘットフィールドの第一印象は、「すごくシャイで、超内向的」だったそうだ。
トップ・テニス・プレイヤーになる夢が破れたことで、メタリカが誕生するにいたった経緯について、ラーズは先月、スウェーデンの音楽賞Polar Music Prizeを受賞した際、ジャーナリストJan Gradvallとのインタビューでこう話したという。

「LAの郊外、ニューポート・ビーチへ(家族と)引っ越し、俺は地元の高校のチームでテニスをプレイするつもりだった。(プロのテニス選手だった)父の友人の息子、アンソニー・エマーソンがその学校のスター選手だった。俺はNo.2のプレイヤーになるつもりだった。デンマークでは当時、俺は全国トップ10に入るような選手だったんだ。だが、その高校のチームとプレイしてみたら、俺はトップ7にさえ入らなかった。住んでた道でもトップ7にはならなかったと思うよ。だから、文字通り、1日で俺のテニスの夢は砕かれた。砕かれ、燃え尽きた。で、それに代わり音楽が俺を待ってたわけだ」

ラーズはそこで、地元紙の広告欄に「こちらドラマー、ヘヴィ・メタル・ファン求む」風の広告を掲載。数人から電話があり、彼らと試してみたが上手く行かなかったところで、Hugh Tannerという人物から電話をもらい、友達を連れて会いに行っていいか問われたという。その友達がヘットフィールドだった。

「ジェイムスはすごくシャイで、超内向的だった。目を合わせようとせず、ほとんど話もしなかった。でもプレイしていて、彼とは何か繋がるところがあったんだ」それが1981年6月のことで、その日はそれ以上何もなかったが、ラーズは夏休みをヨーロッパで過ごしアメリカへ戻ったとき(10月)ヘットフィールドに電話したという。「だって、ヴァイブ、コネクションがあったからね。彼に“また集まって、何かできるか見てみないか?”って言ったんだ。それから37年。俺はいまここにいる」

「俺はヨーロッパで育ち、一人っ子だったから両親とすごく仲が良かった。当時、両親は俺のベスト・フレンドだった。彼は正にその逆だった。“親なんて、社会なんてクソくらえ”みたいなクラシックなアメリカの反抗的なティーンだ。いつなのかは知らないが、父親が出ていき、父親とは疎遠になり、彼は母親に育てられた。そして彼女はジェイムスが14か15のときに癌を患った。彼らの信仰は、医療救済を求めることを許していなかった。だから、彼は1年半に渡り、母親が死んでいくのをその目で見てきたんだと思う。これは当然、彼に大きな影響を与えた。俺が彼に出会ったのは、その1年後くらいだ。多分、彼は17か18だった。痛ましいほどにシャイで不器用だった。でも、俺らは音楽を通じ繋がった」

メタリカは先月、“音楽のノーベル賞”とも称されるPolar Music Prizeをヘヴィ・メタル・バンドとして初めて受賞。式典にはラーズとロバート・トゥルージロ(B)が出席し、スウェーデン王カール16世グスタフより賞が授与された。

Ako Suzuki

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