新国立劇場オペラ『トリスタンとイゾ
ルデ』でブランゲーネを歌う藤村実穂
子(メゾ・ソプラノ)に聞く

新国立劇場オペラ 2023/2024シーズン リヒャルト・ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』が、2024年3月14日(木)から3月29日(金)まで同劇場 オペラパレスで上演される。この公演は、2010年に大きな話題となったデイヴィッド・マクヴィカー演出で、また、当時と同じく大野和士が指揮を務める。物語のキーパーソンとなるイゾルデの侍女ブランゲーネには、2002年にワーグナーの聖地バイロイト音楽祭にデビューして以来、世界の舞台でワーグナーを歌い続けるメゾソプラノの藤村実穂子。本インタビューでは『トリスタンとイゾルデ』の魅力や公演にかける意気込み、そして、長年海外で活躍してきた藤村から若い歌手たちへ向けたメッセージを聞いた。
——藤村さんが感じる『トリスタンとイゾルデ』の魅力について、教えてください。また本公演は、話題となった2010年デイヴィッド・マクヴィカーの演出で、注目度のとても高い公演です。楽しみにしているファンに向けてメッセージと抱負をお願いします。
ワーグナーは知人からの借金を踏み倒したり、革命運動に参加した罪で国外追放されても「ガウンの裏地は赤の絹で、こういう赤は駄目」とオーダーメイドするし、普通の人間では考えられない方でした。追放されたワーグナーと妻ミンナ夫婦を共にかくまってくれるオットー・ヴェーゼンドンクの妻マチルデ・ヴェーゼンドンクと恋に落ちてしまうのも、さすが。しかしこれによって『トリスタンとイゾルデ』が生まれます。
ワーグナーとマチルデが既婚者同士でも愛し合った末にうまれた作品『トリスタンとイゾルデ』ですが、作品中特に二幕でトリスタンとイゾルデが光、太陽、日中を嫌い、夜を讃えるのはなぜでしょうか。日中は光があるので物が見えて概念を持ちますが、夜は光が無いため物が見えず既成概念を持てません。つまり敵、味方、婚約者の仇、主人の妻、既婚、未婚という既成概念が無い「夜」にすることで既成概念を否定したと解釈できます。形而上ですね。
主人イゾルデの「毒薬をもれ」という命令に「はいそうですか」と従う事、つまり二人を殺すことがブランゲーネには出来ません。機械でもロボットでもあるまいし、人間として当然です。同時に自分が愛の媚薬を飲ませたばかりに二人が愛し合ってしまったのだと、ブランゲーネは最後まで苦しみます。
そういった蘊蓄はさておき、ただシートにお掛けになって、「o sink hernieder」と歌うトリスタンとイゾルデと一緒に音楽に思いっきり沈んでみたらいかかでしょう。私もどうやったらこんな音楽が作曲できるのだろうと、毎回思います。
新国立劇場『ドン・カルロ』(2001年)より (撮影:三枝近志)
——指揮者の大野和士さんと東京都交響楽団とは何度もご共演されています。
大学の廊下で一年だけお見掛けしたのですがやる気オーラで光っていらっしゃり、その後ミュンヘン国立歌劇場来日公演の際に東京文化会館小ホールのヴルコプフさんのリサイタルでピアノをお弾きになるのを聴きに行き、研鑽を積むってこういうことなんだなと思っていました。指揮者がオペラハウスでコレペティからの研鑽を積むことは、後々の指揮や音楽に大いに影響があるというのは、自分が舞台に立たせて頂けるようになってから強く感じたことです。
私が向こうでフリーになってから欧米の歌手達から「ミホコ、カズシはとても丁寧で、彼と音楽するのはとても楽しいんだよ」と何度も言われました。私も色々ありましたが、アジア人指揮者が一流オペラハウス或いはオーケストラの音楽総監督になり、そのレベルをキープし続けるというのは、皆さんの想像をはるかに越えて大変なんです。蹴落としてやろうという輩は何万といるのですから。海外で活躍という触れ込みの方はたくさんいらっしゃいますが、もし「大変でしたよね」と言って体感、共感出来得るのは現在大野さんだと思います。そう考えると、まだ誰もそんな大それた事を考えもしなかった時代に、そんな事をなさってしまった故小澤征爾さんへの差別、ご心労、ご苦労はどれ程のものだったろうと思うと、胸が痛くなります。我々が海外で信用して頂けるのも小澤さんが道を開拓して下さったお陰ですから。
オーケストラやピアノは、歌手が歌っている歌詞の深層心理や無意識をも表現しています。今回トリスタンで再びご一緒出来る都響の皆様はいつも私の歌をしっかり聴き、一緒に呼吸して演奏して下さいます。歌いつつ「そうなんです!」と、心の中でオケの方一人一人と握手しています。お互いが敬意をもって尊重し合えるって、今の世の中稀ですし、それが何も言わずに音楽の中で出来るって素敵ですよね! オーケストラが一度トリスタンを演奏したことがあるとその後オケの音が変わるのですが、そちらもまた楽しみにしています。
新国立劇場『ウェルテル』(2019年)より (撮影:寺司正彦)
——ヨーロッパを中心に、長年最高峰の舞台でご活躍されています。ワーグナー歌手としてのご活躍もすばらしく、日本人の歌手たちにとっては憧れの存在です。世界の舞台へ挑戦する若い歌手がたくさんいますが、どの歌手たちも藤村さんへの憧れを抱いていると思います。
私の時代はパワハラ、モラハラ、セクハラなどという言葉は存在せず、スキャンダルとして新聞雑誌に掲載されるようなとんでもないことが、日々当然に行なわれていました。おかしいのではと思いつつ、何とかしのいできた世代です。
欧州の歌劇場は州や市からの資金で賄っていますがその経済支援も減少し、ロシアのウクライナ侵攻で舞台装置の材料費は膨れ上がるばかり。舞台技術者や事務、管理関係は公務員扱いの定職者なので、年ごとの契約である歌手に一番少なく支払います。ハウスの経済的困窮は続くばかりなので、毎シーズンごとに新しい歌手を入れていけば初任給で安くすみますし、最近は大学在学中の学生を中途退学させて極端に安い給料で1〜2年歌わせた後、解雇することを繰り返すのが当然になっています。歌手は使っては捨てるティッシュペーパーのようなものなのです。
ヨーロッパの人々がヨーロッパの音大の声楽科を卒業しても、その後合唱を含めてプロとして歌っている歌手は3%に届かないとのこと。ドイツだけでも54あるというオペラハウスで定職に付くのもままなりませんので、失業中の歌手の数は、外国からやって来た歌手を含め、万単位で存在します。聴きに来る人々は勿論欧州の人々。そんな中でフリーランスのアジア人が舞台に立って欧米人を演じるのですから、ソリスト達は他人の失敗を今か今かと待ち構え、一つのオファーも奪い取ってやろうと手ぐすねを引いています​。
日本で初めてお仕事をさせて頂いた時、皆さん和気あいあいと稽古なさっていて、椅子から落ちるほど驚きました。そんな中「海外で活躍して、憧れ」等と言われますが、では全ての方にお勧めできるかと訊かれれば考え込んでしまいます。私には偶然忍耐強さ、うたれ強さ、英語でいうresilienceがあって何とかやってきましたが。「耐えられない苦しみは与えられないはずだ」と、「こんな事も耐えなくちゃいけないのか」が紙一重な毎日だからです。
現代の様にインターネットの普及で簡単に多くの演奏が聴ける今、誰かの真似をしているコピペの歌手はいくらでもいます。でもそれってコピー機と同じですよね。海外で歌っているイコール素晴らしいとか、外国人だから素晴らしいとか、そういった単純な決まりは無いと思います。どこで歌うにしろ、他の歌手には歌えない歌、この人にしか歌えない歌、自分の歌をうたって欲しいと、強く思います。単語一つ一つの意味を調べ、考え、詩の状況を想像し、その立場に自分を置き、楽譜を読んで、ピアノあるいはオケの転調の意味、和音のニュアンスを体感し、作曲家の意図を知る。ここから自分の歌を、音楽を建てることこそ、その人の文化であり、その人の芸術なのではないでしょうか。
新国立劇場『ラインの黄金』(2001年)より (撮影:三枝近志)

【プロフィール】藤村実穂子 FUJIMURA Mihoko (メゾソプラノ) :
ヨーロッパを拠点に国際的な活躍を続ける、日本を代表するメゾソプラノ歌手。東京芸術大学声楽科卒業、同大学大学院及びミュンヘン音楽大学大学院修了。主役級としては日本人で初めてバイロイト音楽祭にデビューし、フリッカ、クンドリー、ブランゲーネ、ワルトラウテ、エルダなどの主役で9シーズン連続出演。メトロポリタン歌劇場、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、バイエルン州立歌劇場、パリ・シャトレ座、ベルリン・ドイツ・オペラ、ザクセン州立歌劇場、フィレンツェ歌劇場、ヴェローナ歌劇場、バルセロナ・リセウ歌劇場、ザルツブルグ祝祭大劇場等に出演の他、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、バイエルン放送響、ロンドン響、ロンドン・フィル、ティーレマンパリ管、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、スイス・ロマンド管等の世界的なオーケストラ、ティーレマン、アバド、メータ、エッシェンバッハ、シャイー、ヤンソンス、ネルソンス、ネゼ=セガン、ガッティ、ドゥダメル等の著名指揮者と共演している。またブランゲーネ役でプラシド・ドミンゴとのCD録音 「トリスタンとイゾルデ」(EMI)でも各方面より注目を浴びた。2002年出光音楽賞、03年芸術選奨文部科学大臣新人賞、07年エクソンモービル音楽賞、13年サントリー音楽賞、14年紫綬褒章をそれぞれ受賞。新国立劇場では『ラインの黄金』(01年)と『ワルキューレ』(02年、21年)フリッカ、『ドン・カルロ』エボリ公女(01年)、『神々の黄昏』ヴァルトラウテ(04年)、『イドメネオ』イダマンテ(06年)、『ウェルテル』シャルロット(19年)に出演。

取材・文:東ゆか

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