木ノ下歌舞伎『糸井版 摂州合邦辻』
が再演! 木ノ下裕一、糸井幸之介、
内田慈、土屋神葉が思いを語る

日本の古典作品に精通した木ノ下裕一監修のもと、現代の演出家が古典戯曲の舞台化に挑む「木ノ下歌舞伎」。2019年2~3月に上演されたロームシアター京都 レパートリー作品『糸井版 摂州合邦辻』が、早くも2020年10月にあうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)、11月にロームシアター京都サウスホールで再演される。
本作は、ロームシアター京都が、劇場のレパートリー演目として、時代を超えて末長く上演されることを念頭に作品を製作する企画「レパートリーの創造」シリーズ第二弾として生み出された。運命に翻弄される二人の男女を軸に血族の悲劇として描かれてきた『摂州合邦辻』を再解釈。原典とされる能『弱法師』や説経節『しんとく丸』などの要素に改めて光を当てて、「FUKAIPRODUCE羽衣」の糸井幸之介の演出と音楽のもと、“剥き出しの生”を壮大なスケールで描いた音楽劇となっている。
 
9月9日(水)、オンラインで取材会が開かれ、木ノ下歌舞伎主宰で監修・補綴・上演台本を手掛ける木ノ下裕一、上演台本・演出・音楽を担当する糸井幸之介、初演に引き続き玉手御前を演じる内田慈、今回が初参加で俊徳丸を演じる土屋神葉の4名が取材に応じた。
【あらすじ】
大名・高安家の跡取りである俊徳丸は、才能と容姿に恵まれたがゆえに異母兄弟の次郎丸から疎まれ、継母の玉手御前からは許されぬ恋慕の情を寄られていた。そんな折、彼は業病にかかり、家督相続の権利と愛おしい許嫁・浅香姫を捨て、突然失踪してしまう。しばらくして、大坂・四天王寺に、変わり果てた俊徳の姿があった。彼は社会の底辺で生きる人々の助けを得ながら、身分と名を隠して浮浪者同然の暮らしをしていたのだ。そこに現れる、浅香、次郎丸、玉手と深い因縁を持つ合邦道心。さらに、誰にも明かせない秘密を抱えたまま消えた玉手が再び姿を見せた時、物語は予想もしない結末へと突き進む。

■『摂州合邦辻』とは
安永2年(1773年)に大坂で初演された菅専助作の浄瑠璃作品。古くから民間に伝わる『しんとく丸伝説』を下敷きに、能の『弱法師』や説経節の『しんとく丸』『愛護の若』などの要素を複合させた脚色が施され、人気を博した。主な役名に実在の地名を当てはめるなど、舞台である大坂とのつながりを意識した内容になっている。
「神話」というテーマを大きく顕在化させて
ーー再演です。初演からどのようなアップデートをされたのでしょうか。
木ノ下裕一
木ノ下:今回の『摂州合邦辻』は、2019年に初演したものの再演です。ロームシアター京都の「レパートリーの創造」というプログラムの中で一緒につくったもので、こんなにも早く再演の機会に恵まれたことを嬉しく思います。再演となると、さまざまな欲望が出てくるものでして、かなり初演からアップデート、パワーアップする予定です。
『摂州合邦辻』という物語は非常に難しい古典の大曲。これは余談ですけど、古典にお詳しい方に「次は何するんですか」と聞かれ、「摂州合邦辻です」と答えると、「それは大変ですね、お気の毒に」と労われたりします(笑)。そもそも原作が難しい演目ということなんだろうと思います。
そんな演目に木ノ下歌舞伎は糸井さんと挑戦しました。初演も気に入って、とても素晴らしい作品に糸井さんが仕上げてくださった。難しい古典の大曲を、“家族の物語”に読みかえてくださった。家族というテーマを取り出してくださったというのが一番の収穫なのではないかなと。さまざまな家族が重なり合いながら混在している物語であるということが、糸井さんの演出、作曲・作詞された音楽から浮かび上がってきたというのが、僕自身の発見でしたし、初演の魅力はそこにあったのではないだろうかと思います。
その上で、今回は、初演以上に摂州合邦辻の“神話性”をより顕在化させたいと思っています。文楽や歌舞伎の摂州合邦辻を見ていますと、よく分からないけれど、納得しちゃう。ドラマの辻褄はあっていないけど、強烈なテンションで繰り広げられるといいドラマと思ってしまうのは、そこに神話を見るからだと思うんです。近親相姦だったり、生き血で不治の病が治ったり、人間の範疇をこえた物語。大きな存在をあのドラマからキャッチするから納得する。今回はそこを私たちなりに掘り下げていきたいと思っています。
初演で到達できた、いろいろな意味の家族の物語であるということと、初演でも描いていないわけではないんですけど、神話というテーマを大きく顕在化させようということを再演にあたり考えています。
現在、再演に向けての補綴が終わりまして、細かい変更も含めると全シーン触りました。新しい曲も1曲書きおろしていただきますし、コロナウイルスの自粛期間に糸井さんとオンラインで演出会議を繰り返し、準備万端でございまして。素晴らしい俳優さんたちにもお集まりいただき、満を持して、なんとか幕を明けたいというふうに思っている次第でございます。
ーー糸井さんからもコメントお願いいたします。演出面や音楽面ではどのようなアップデートをされるのでしょうか。
糸井幸之介
糸井:再演の機会を与えてくださって嬉しく思っています。初演もとても気に入っている作品なのですが、自分自身の感覚として、原作に対して距離や遠慮があったかなと。ちょっとした後悔というか心残りがあるので、それをぐっと近づけられたらいいなと思っているところです。
 
音楽的なことは、さきほど木ノ下さんも言ってくれましたが、1曲新しい曲をつくろうとしておりまして、いま、一生懸命やっているところです。楽曲の編曲はmanzoさんがやってくださるんですけども、すでに初演の時点でそれなりのバリエーションの歌があって、そこになお、ぶっこんでいこうという野心がありますので、これも楽しみにしていただければと思います。
初演に引き続き出演してくださる俳優、新しく出演してくださる俳優との化学反応が生まれていって、また新しい作品ができると思っております。初演時は「青春のほろにがい終わり」という感じだったんですけど、今回は「たくましい大人への第一歩」という感じでやっていけたらと思います。
「玉手御前なりに世界平和を願ったのでは」 
ーー内田さんは、初演に引き続き玉手御前を演じられます。今の心境を教えてください。
内田慈
内田:再演のお話をいただいたときは、絶対にやりたいですという話をしました。玉手御前という役は、私にとっても特別で。初演時はすごく大変だったんです。大変な要素はたくさんあるんですけど、玉手御前という人がいろいろな面をもっていて、難しいんです。無理やり通そうとすることはクレバーではないと思ったんですけど、その瞬間その瞬間を生ききって、場面が出そろったときに見つかるものがあるのかなと思ったら、そうでもなくて。
 
不安もあるし、どこに柱を持っていいか分からなくて、木ノ下先生(木ノ下裕一)に相談をして、初演の直前にいただいた言葉なんですけど、「大仰かもしれないけれど、玉手御前なりに世界平和を願ったんじゃないか。人からは分からなくても、そう捉えたらどうだろう」と言われたときに、自分の中ですっと落ちていくというか、出ていくというか。そういう何かがありました。
 
私が日々生きているのと同じように玉手御前もそこに生きていたんだな、ということを感じながら演じられたんです。だから、玉手御前は自分の中にいるんですけど、先生と糸井さんの話を聞いていると、(今回は)神話性を強くすると。初演時はリアリティを感じながらお芝居したことをお話ししたつもりだったのですが、そこに神話性がプラスされるのか〜と(笑)。
 
覚えることが異様に多い舞台なんですけど、(再演にあたって木ノ下と糸井は)さらなるアプローチをしていて、あぁ、このお二人はロッカーなんだと思い出しまして。初演をパワーアップするという言葉が通常とは違います。新作に取り組むような気持ちで臨もうと思っているのが、いまの気持ちです。
ーー土屋さんは今回が初めての木ノ下歌舞伎です。意気込みをお聞かせください。
土屋神葉
土屋:僕は今、とても緊張しております。お話を聞いていると、(初演で)とんでもない作品をやられていたんだなと(笑)。途中から入って大丈夫かと恐れ多い気持ちでいっぱいです。劇団ひまわりに入って、初舞台が、別の『合邦辻』(『絵本合法衢』)でして。しかも、それがあうるすぽっとでの上演だったんです。
その後、糸井さんが演出された『LLL』というシェークスピアの作品に出演させていただき、「舞台めちゃくちゃ面白いじゃん!」ということで。演劇は素晴らしいなと思ったんです。そのきっかけを与えてくださった糸井さん。その糸井さんの、そして木ノ下歌舞伎としての『摂州合邦辻』ということで、ちょっと運命的なものを感じています。
お話をいただいたときはぜひやりたいです! とお答えしたんですが、台本を読んだ時は、初っ端から衝撃的で、理解ができなかった。母上が俊徳丸のことが好き……? と思考が停止して。古文だから読み間違いかなと思っていたんですけど、ネットで検索したらどうやら合っているっぽくて(笑)。作品が攻めているというか、古典の恐ろしさというか、歌舞伎はすごいなというか。自分にできることは、やってみないとわからないので、稽古前にお話しできることは僕の中ではまだないんですが、情報収集が大切だなと思っています。どういう作品なのか、どういう解釈があるのか、リサーチをしつつ、稽古を通して、自分の軸を探していきたいなと思っているところです。
ーー今回の「神話性」の演出にどのようにアプローチしていくのか、もう少し具体的にお聞きしたいです。また、それらを俳優陣はどう表現したいと思っていますか。
 
木ノ下:これからお稽古していきますから断定できないところではありますが、まず今回は休憩を入れて、2幕構成にします。1幕が「万代池の段」までで、2幕が「合邦庵室の段」。
 
そして今回書き下ろしていただく新曲は、2幕の幕開きのための曲なんです。しかも神話をテーマにした曲でして。どういう曲になるかは糸井さんが構想を練られて思案されている最中だと思うんですけど、世界各国古今東西の神話をちりばめたような歌になる予定です。我々、補綴の方では世界中の神話を、神話辞典というものを日夜紐解きまして、合邦とダブってきそうな神話を集めて解説を加え、それを糸井さんに資料としてお送りすることをやりました。合邦の物語の普遍性と言いますか。ああいう話は世界各国にあるんです。なにかしら民族や宗教を超えて、人間に共通した欲求というものが摂州合邦辻にはあるのだろうと思います。
なので、日本の古典だけにとどまらず、世界の神話というスケールのなかで書かれる曲が加わるはずです。演出面では、糸井さんが玉手御前のラストを改めて考えたいとおっしゃっていたので、その辺が変わるかなと思います。
『糸井版 摂州合邦辻』(2019年)初演より  (c)東 直子
糸井:『摂州合邦辻』の説明がつかない部分を神頼みと言いますか、神話でうまいこと辻褄合わせようということは毛頭なくて。どちらかというと、神話のざっくりとしたというか、乱暴なというか、そういう力によって、人間の感覚みたいなものを加速、ブーストさせることができるような気がしています。その力で合邦の説明のつかないところに近づいていけるのではないかなという感覚が、神話に関してはありまして。そういう感覚で新しく曲をつくったりしております。
 
美術は基本的には前回の球体と柱というのは変わらないんですけど、細かい使い方は再検討するところも出てくるかもしれません。大きい全体のイメージや美術のデザインは変わらないです。
内田:俳優としてやることは、目の前の世界がいまの私たちから見たら神話というか、信じられないことがたくさんあったとしても、目の前にあることを信じることなので。ミクロにやっていく作業は一緒だと思います。台本をどう読んでいくかにヒントがあるのかなと。初演以上に余裕をもってマクロの視点をもつことが必要なのかなと思いました。新しい皆さんが加わるので、周りをみながら、何が起こっているのか共有しながら、アプローチができたらいいなと思っています。
 
土屋:(性格上)前しか見れないというか、そういった状況に陥りかねないなと思うので、皆さんの力を借りて、さきほどいった神話性といったものに近づいていけたらなと思います。
 
ーー木ノ下歌舞伎は、古典の完コピから稽古を始めるそうですね。初演の際、歌舞伎の通りに演じてみて、体で感じられことは何かありましたか。
 
内田:ありました。説明ができない、理屈じゃないようなところで。全編やったんです! 4時間分の分量のものをセリフだけではなくて、セリフの間尺、動きもすべて、出来ないなりに完成に近づけるんです。発表の日は普通に本番ですよ(笑)。超極限状態なんです。玉手御前は極限状態でないとできない役なので、混ざっているかもしれないんですけど、私がやらなくては、世界はまわっていかないというか、誰かが大変なことになるということがありまして。(玉手御前を)擬似体験できたような、通し中自然と涙がでてきて、完コピをした記憶があります。
恋の話についても得たものがあって。恋でもあったし、恋でもないし。そこで初めて本人も特別な気持ちがあったことに気づくと。それが恋なのか、玉手御前も分からない。何かに気付いて、何かとんでもないもののために動いた、動かされたということが理屈じゃなく分かったという。それがすごくよかったです。ただ、すごく大変で。(今回も)完コピ稽古をやると聞いているので、また戦いが始まるなと思っております。
コロナを経て見えてきたこと、考えたこと 
ーーコロナ禍での上演となります。自粛期間中に考えたことや、作品やご自身がどのような影響を受けたかなど、思うことはありますか。
 
糸井:僕の場合、『摂州合邦辻』とコロナの状況が重なり合ったり、こんな時期だからこそ、と言えちゃう何かが潜んでいないかと思ったんですけど、ほぼ思い付かずに、やるしかないなと思った次第です。
 
内田:コロナの自粛期間中に考えたことは、なぜ俳優をやっているのか、俳優を通して何をしたいのか。あえてそこを考えた時に、私は他者のことをすごく知る必要があると思っているんだなと感じたんです。演劇は、役・人物、お客さんのこと、つまり、他者を知るという行為なので、そういうことがやりたくて、『摂州合邦辻』も取り組んだなと。形態も変わってきているし、今まで通りとは言わないですけど、今後も舞台をやっていきたいと強く思いました。不安もあるなかですが、今まで以上に日々の感謝が増えているところです。
土屋:コロナの自粛期間中、“何か自分で発信するようなことをしないか”ということを提案されたことがあったんですが、「企画ある?」と聞かれても、「特にないかもしれないですね」という感じで。つまり、自分って空っぽだったんだなと実感した期間だったんです。俳優として、劇団に入って、お芝居をしてきたけれど、誰かがつくった台本・企画に乗っていたことが大きかったことを実感したんです。だから、実質空っぽの僕にとって、こうしてまた舞台に携われていることに感謝していますし、嬉しく思っています。
 
木ノ下:コロナの期間を経て、我々が一番変化したことは、死生観だと思うんです。死ということが身近になってしまった。この感覚はコロナ以前とは少し違っていると思います。どことなくコロナ以前の自分たちを振り返った時に、いつか人は死ぬけれど、どこかで自分は死なない気がしていた。死は遠いイメージがあったのですが、コロナを経て、いつ感染するか分からないという状況で随分変わりましたよね。自分の死もそうですが、近しい人、他者が亡くなるということにかなり敏感になっている気がします。
 
現代は病院で亡くなる人が多いですし、葬式の準備や湯灌や死に化粧も業者さんに頼むことができる。昔のように自分自身の手で弔いの準備を行うわけではないので、弔うという意識が昔よりも希薄になっていたように思います。(でもコロナによって)コロナウイルスに感染していなくても、人が集まることが難しくて、十分な弔いができないとなったときに、弔いの大切さを知ったわけです。
玉手御前という女性は自分の死に様(しによう)と死場所を見つける人。自分の死を覚悟した上で、どう終わろうかとずっと考えている女性です。かたや俊徳丸は、当時は不治の病であるらい病にかかってしまい、死に追いかけられる人。その中でどう生きようかと考えている人ですよね。言い換えれば、二人とも死が目の前にある人です。玉手御前と俊徳丸以外の登場人物は、どう弔うかを考えています。ラストが玉手御前の葬式(百万遍)なのも象徴的ですよね。(本作は)死んでしまった人をどう忘れないかという大きなテーマを扱っている、人間の生き死にを扱うドラマですから、丁寧に扱っていきたいですし、あえて現代社会に当て込んでいくつもりはないですが、人間の生き死にに敏感になっている現代の私たちに響く作品になるのではないかと思っています。

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