「初音ミクを介してローティーンにB
UMPの歌が届いた」柴那典+さやわか
が語るボカロシーンの現在

・「初音ミクが『ここにいるんだよ』って歌うときのエモーションに中二病を感じる」(柴)

さやわか:これはあえて聞きたいのですが、柴さんは初音ミクが将来的にもっと普及したら、紅白に出たりするようになるというふうに考えていますか?

柴:可能性としてはあると思いますけれど、初音ミクのキャラクター人気がどれだけ普及するかというより、将来を見通して僕が考えるのは、むしろ音楽の需要のされ方がどれだけ変わるかということですね。今の若い世代は、すでにCDで音だけを聴くのとは違うスタイルで音楽を消費している。たとえばカゲロウプロジェクトの曲って、やっぱり音楽だけ聴くよりニコ動やYouTubeで映像と一緒に聴く方がずっと感情に訴えかけると思うんです。曲の持っているイメージや伝えたいものが、映像と共になって初めて伝わってくる。CDやレコードが要らない、というつもりは全くないんですけれど、音楽ファンであればあるほど、それを大前提に考えがちで。

さやわか:言ってみれば音楽至上主義なわけですよね。だから音楽が別メディアと一緒になって遍在している状態を、「音楽が生き延びている」と捉えない。レコードとかCDとか、単一のメディアで扱える場合の音楽を重視したい。

柴:少なくとも、音楽の文化がこれから変わっていくのは明らかだと思うんです。宇多田ヒカルの『First Love』が1999年にリリースされたというのは、今振り返ると、すごく象徴的なことだと思っていて。というのは、少なくとも日本においてあれを越えるセールスのCDは、おそらくこの先ないですよね。そういう作品が20世紀の終わりにリリースされた。要するに、レコード文化というのは、20世紀の音楽文化だったと思うんです。エジソンが蓄音機を発明したのが19世紀末で、20世紀初頭に今あるレコード会社というものが登場しました。当時は音楽を一つの円盤に録音すること自体がものすごいイノベーションだと思うんですね。それが今に至るまで続いてきたけれど、マーケットの主流はこの先別のものになっていくはずだと思います。

さやわか:音楽の聴取スタイルが変わるっていうのは、動画と結びつくとか、あるいはダンスに結びつくとか、きっとそういうことでしょうね。こういう話をすると、今までだってそうだったじゃないかという人がいるんですが、そこにはもっとあけすけな変化が見て取れるのだろうと思います。20世紀の音楽文化が基礎にした、単一のメディアによる消費スタイルが目に見えて解体されて、音楽は常に何かに付随しているものに変わっていくのかもしれません。

柴:僕はJ-POPやロックのアーティストへの取材を多くやっているんですが、特に先端で戦っているバンドたちはその辺の変化に気付いています。総合芸術的なライヴステージを作らないと、ほかのエンターテイメントと勝負できないし、そもそもバンドとしての勝負さえできない。サカナクションPerfumeは良い例で、照明やレーザーや映像、特殊効果や、最先端の技術を駆使したステージをやっています。おそらく、そういう視覚的なパフォーマンスも含めた「同期の快楽」っていうのが、今の音楽のコアになっていることに気付いているんでしょう。先日、BUMP OF CHICKENの幕張メッセのライブに行ってきたんだけど、彼らもどうやらそこに照準を当ててきている印象でした。

さやわか:一回性のパフォーマンスであることを重視してライブをやっていますね。SEKAI NO OWARIなども同じようなことをしています。

柴:BUMPは今、テクノロジスト集団のteam Labと組んでいるんですよ。で、ライブ中に「チームラボボール」っていう直径2メートルくらいの超巨大な白いボールが何百と客席に投げられる。それがフワフワ浮かんでいて、お客さんがボールをタッチするとセンサリングで色が変わるんですね。つまりお客さんは会場の照明演出に参加できるんです。ロックバンドのライブって、もはやそういうショーになってきている。ザイロバンドっていう光るリストバンドもそう。お客さんは巨大な照明設備の一部になるわけです。これが体感するとめちゃくちゃ楽しいんですね。

さやわか:ようするにあれって、「盆踊りのすごいヤツ」って感じですよね(笑)。ちなみにBUMPと初音ミクは最近、「ray」という曲でコラボしていますよね。

柴:あれは様々な文脈ですごくいいコラボだったと思います。ボーカロイドのプログラミングはlivetunekzさんがやっているし、MVの監督は渋谷慶一郎+初音ミクのオペラ『THE END』のプロデューサーをした東市篤憲さんという方が務めている。彼ら自身、自分たちのバンドの歴史もあるし、初音ミクのファンがいることも知っているし、本気でやらないと納得させられるものを作れないだろうと思ったらしいです。でMVの撮影にあたっては「CG合成じゃない」というところにこだわりを持っていたそうです。つまり、後からCGを足したのではなく、一緒に共演したという。巨大な円筒型のスクリーンに初音ミクを投射して、その周りで4人で演奏する様を撮影した。一緒に演奏すること、つまりは共時性にこだわっている。

さやわか:共時性ということでいうと、『THE END』が示唆したのは初音ミクというのが生きているか死んでいるかわからない、そこが面白い存在なんだということでしたよね。生でも死でもない、つまりはキャラクターでも楽器でもない、そういう曖昧な幅を持ったものと、人間が一緒にいることが大事なカルチャーというか。そこにはいない存在が「いる」と主張することに意味がある。

柴:まさにそう! 初音ミクが「ここにいるんだよ」って歌うときに込み上がってくる、不思議なエモーション。それが「中二病」の象徴だと思うんですよ。

・「1クラスに2、3人興味を持った子がいると『ボカロ部』が成立しうる」(柴)

さやわか:そういう意味では、BUMPが初音ミクとコラボしようと思ったこと自体に、まさに彼らの中二病的な揺るぎなさが表れていると思いますね。

柴:20代前半の人は覚えていると思うけど、2000年代にFLASH動画が流行ったとき、BUMPの曲を題材にしたFLASH動画がすごいブームになった時期があったんです。実はニコニコ動画以前のネット文化とBUMPはその時点から親和性があったと思うんですよね。なぜ親和性があったかというと、たとえばミスチルやB’zのような人気ロックバンドと比べると、BUMPは綾波レイをイメージのモチーフにした曲もあるし、『ファイナルファンタジー』の主題歌もやっているし、圧倒的にアニメ的、ゲーム的なリアリティに通じるものを持っているんです。BUMPの出発点にはそういうところがあるし、今も昔も変わらず「宇宙」のことを歌っている。だから、このコラボに関しては、むしろ僕としては初音ミクを介して今のローティーンの女の子にBUMPの歌が届いたことが重要だと思っていて。ロックバンドはファンと一緒に歳を重ねるのが常だけれど、今回のコラボで今の13~14歳が「あの初音ミクとコラボした大物バンド」としてBUMPを認識したとしたら、その楽曲の魅力は間違いなく刺さると思う。ファン層がぐっと若返る可能性がある。

さやわか:いい話ですね。うーん、僕もそうやって10代の子と時を越えて繋がって、そして色紙にサインを求められるようになりたいです。あるいはBUMPになれば良かった(笑)。それは冗談としても、初音ミクがそこでハブ、つまり結束点として働いているということにはなるんでしょうね。しかし、メンタリティによってつながることができるという話になると、そこで僕が気になるのは、ではあの初音ミクという「キャラクター」については、中学生たちがどこまで愛しているかということなんですが。

柴:ヤマハの剣持さんに聞いた話ですけれど、今、中学生で1つのクラスに2、3人くらいの割合で、ボカロで曲を作ることに興味を持っている子たちがいるそうです。ヤマハは音楽教育に力を入れてきた会社だし、これは願ったり叶ったりのことだと思うんです。つまり、1クラスに2、3人興味を持った子がいると、学校全体で「ボカロ部」というものが成立しうるわけです。作曲活動だけではなく、小説を書くとかイラストを描くとかも含めて「ボカロ部」がありうる。

さやわか:おぉー、なんかラノベっぽくなってきましたね。俺も「ボカロ部」入りたい! 顧問の先生とかでもいい! そして校内で次々に起こる難事件を解決したい!

柴:ヤマハとしては音楽教育をやっていきたいし、音楽やクリエイティブな教育の一環にボカロを位置づけることについては、伊藤社長もいろいろと考えているようです。ボーカロイドのファン層が低年齢化したというのは、この先、文化としてより定着していくということにつながると思います。

さやわか:壮大な計画じゃないですか。ヤマハがかつてエレクトーンをばんばん売ったのと同じスキームですね。子どもにエレキギター持たせるのと同じ。

・「それでも『人格のある楽器』を目指していく?」(さやわか)

柴:まさにギターと同じだと思うんです。そういう意味では「ボカロ」というジャンルが消滅していくんじゃないか、と思います。今まで「ボカロ」はジャンルとして捉えられていました。それって、60年代にベンチャーズとかが「エレキ」っていうジャンルで呼ばれていたのと同じなんじゃないかと思うんです。あのときは電気を使った音楽が珍しかったので、「エレキ」っていう括りがあった。で、今のボカロでおんなじことが起こっている。だから40年後の人にしたら、今のボカロというジャンル分けはナンセンスに映るんじゃないかと。

さやわか:あれですね、将来は小学生とかが「○○ちゃんがボカロ持っているから私も買って」みたいな感じになりますかね。40年後くらいには。どうなっていると思いますか?

柴:さらに言えば、もしかしたら子どもたちにとって、小説やイラストを書くこと、動画を作ること、作曲をするっていうことはすでにシームレスになっている可能性さえある。たぶん、ボカロが目指しているのはそこだと思います。ちなみに、今すごく売れているのが僕の本と同じく4月3日発売にされた『大人の科学マガジン』の付録で、「ポケット・ミク」という楽器で。

さやわか:これ、歌詞入力もできるんですよね。

柴:USBでパソコンにつないで、ブラウザで歌詞を入力できるんです。そして、タッチペン式の鍵盤でそれを歌わせられる。自分が入力した歌詞を、ソフトウェアを使わないでもリアルタイムに歌わせられる。つまり、初音ミクがコンピューターと切り離されたっていうことなんですよね。言い換えれば、より楽器らしくなった。ニコニコ動画を観たことがない人、ネット文化に疎い40〜50代の人でも、初音ミクが「しゃべるシンセ」だってことがこれで伝わる。

さやわか:たしかに『大人の科学』を買うのは一番下でも団塊ジュニア世代くらいの世代だと思うんだけど、だからこそ彼らには、初音ミクみたいなキャラクターが前に出ているモノよりも、こういう電子ブロック的な無骨なモノで体験できた方が話がわかりやすそう。

柴:ボーカロイド文化が新しいフェーズに達するデバイスの、ひとつの可能性だと思います。

さやわか:うーん、しかし最終的にクリプトンが目指していくのはそれでも「人格のある楽器」っていうことなんですよね? クリプトンがどこまでキャラクター性を重視しているのかというのが、僕には読み切れないところがあるんですよね。たとえばファミリーマートとかのコラボあるじゃないですか。あれとこのポケット・ミクは別物なのか、それとも最終的に統合して考えたいのかっていうのが、ちょっとわからない。

柴:伊藤社長が言っていたのは、企業とのコラボも、全て何らかの形でクリエイターにとってのアウトプットになればいい、という発想なんですよね。クリエイターのためになることだったらいい、という。

さやわか:なるほど、それでいうとさっきのファミリーマートの件も、ちゃんとクリエイターのアウトプットとしてのゴールを目指している。つまり、いわゆる有名絵師みたいなミクの二次創作をしている人たちが、ちゃんと表に出て行けるような環境を作っているわけですよね。

・「10代の女の子の最近好きな音楽が『AKB48EXILE、初音ミク』」(さやわか)

柴:最近『クイックジャパン』で取材したんですけれど、今、ボーカロイドシーンには新しい状況が生まれつつあるんですね。それは何かというと、郊外カルチャー、ロードサイドカルチャーと結びつき始めているということ。『wondergoo』という郊外型のCDショップの方に聞いたところ、ボカロCDが売れてきているらしいんですよ。でも、ボカロは一番強い商品ではないという。じゃあJ-POPかと訊いたらそうでもない。なんですかって訊いたら、ヒップホップとレゲエだっていう。郊外は車文化が根付いているから、車の中でガンガンにかけるためにCDを買うらしいんです。

さやわか:え、そこ!? そこと競っているんですか!?

柴:そう、そこに去年出た『VOCA NICOPARTY』っていうボカロのミックスCDが入ってきていて、クラブミュージック化されたボカロ曲が、車の中でアゲアゲになるために聴かれているそうです。

さやわか:それは客層が違うんじゃないですか?

柴:違うと思っていたら、どうやらそうではないらしいんですよ。「だって痛車とかあるでしょ」って言われました。

さやわか:あー、なるほどね!

柴:地方はヤンキーもオタクも消費が車にいく、ということかと。そこにおいて音楽消費のひとつのバリエーションがある。ヒップホップが廃れるわけでもないし、ヤンキー的な音楽はやっぱり聴かれているんだけど、どっちかっていうとそういうものを苦手だと思う人たちの選択肢としてボカロ曲が定着してきた。それが僕が話を訊いた中で一番新しい事象ですね。

さやわか:初音ミクの最新シーンはそこなんだ。いや、でもそれなら僕もすごく納得できるところがある。僕は昔、忘れもしない2004年に、あるライターさんに「オタクとヤンキーは近いのではないか、むしろ同じと言っていいのではないか」って話をしたんですよ。そしたら、そのライターさんには「そんなのありえないです」って言われたんですよね。最近もオタク論が低調になってきて、ヤンキー論みたいなものがわーっと注目を浴びたりする。だけど僕は、日本の社会はそんなバランスが揺れ動いているわけではないのではないか、だいたい同じようなことが、違う形で表出しているだけではないかと思うんですよね。

柴:これには持論があって。興味の対象物じゃなくて、自意識のあり方でわけるとすっきりすると思うんです。ヤンキー的なものとサブカル的なものを僕なりに定義すると、「あいつら」っていう言葉を聞いたときにパッと「仲間」が思い浮かぶ人がヤンキー、そして「あいつら」と聞いて真っ先に「敵」が思い浮かぶ人がサブカル。

さやわか:なるほど、つまり見た目がオタクであっても「あいつら」って聞いたときに仲間のことだと思ったらヤンキーだということですか?

柴:マイルドヤンキーという言葉もありますし、ヤンキーというのは、いわゆる日本のマジョリティ層なんですよね。だから、メガヒットコンテンツは、すべて「あいつら=仲間」。『ONE PIECE』のルフィが「あいつら」と言ったら、麦わらの一味のことをイメージする。SMAP中居正広が「あいつら」と言ったら、それは5人のメンバーのことを指している。AKB48の高橋みなみだってそう。「あいつら」と聞いて「仲間」が真っ先に思い浮かぶのが、ヤンキー、つまりマジョリティの感覚だと思うんです。

さやわか:そうなのかなあ。初音ミクも本当にオーバーグラウンド化というかメジャー化したら、そういう風になる可能性はあるということですね。

柴:今はそれが起こっている最中なんだと思います。ボーカロイドもニコニコ動画も、キャズムを越えて、マジョリティのカルチャーになりつつあるんじゃないかと思います。

さやわか:初期はそうではなかった、「あいつらとは違う俺たち」の文化だっていう風に楽しんでいた人がいたはずですよね。だけどそれが、そうではなくなっていくかもしれないわけですね。初期の初音ミクファンは「黎明期のあれこそが俺たちにとっての初音ミクだった」って思うかもしれないけど、しかし最近聴き始めた人にとっては、これからまさに初音ミクが始まるっていうふうに考えることもできると思う。この本はそれをちゃんと指摘していますね。変わってしまった初音ミクの姿を受け入れて、どれが正解とは言わず並べて見せるからこそ、初音ミクという名の下にすべてをひとつの歴史に置いて語ることができる。つまりブームというものは必ず終わるし、ある存在の見られ方というのは、時代によって移り変わっていかざるを得ないんですよね。しかしロックは死んだと言われてもロックがなくならないように、過去の人に理解不能のものとしてすら生き残るからこそ、文化として定着するんだと思います。そういう意味だと、今まさにそういう変化を迎えている初音ミクも、なんだかずっと残っていくような気がしてきました。(取材・文=松田広宣)

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