爆音アワー

爆音アワー

いい音爆音アワー vol.71「モータウ
ンぶらぶら散歩」

いい音爆音アワー vol.71「モータウンぶらぶら散歩」

2016年10月12日(水)@風知空知

モータウンのアーティストは「アンクル・トム」(白人に媚を売る黒人への蔑視として使われる)だと言う人もいたそうです。たしかに、モータウンは白人にも売れることを重要視したブラック・ミュージック・レーベルでした。音楽だけでなく、ステージでの振付、アーティストとしての立ち居振る舞いまで、徹底して訓練しました。しかしそれは媚を売るというようなものではなく、したたか且つ画期的な戦略だったと思います。

それまで黒人のオリジナル曲も白人がカヴァーしないと売れなかったり、黒人のフィーリングを真似た白人のほうが人気があった音楽市場を、モータウン・サウンドというオリジナルな黒人音楽で席巻し、黒人差別がずっと深刻だった時代に、黒人所有のレコード会社として初めて大きな成功を成し遂げ、ブラック・ミュージックのポジションを大きく向上させたモータウンの功績は、非常に大きいと言えます。

福岡智彦 (いい音研究所)

セットリスト

▶モータウンの創業者:ベリー・ゴーディ・ジュニアBerry Gordy, Jr.

1854年頃、祖父・ベリー、ジョージア州オコニー郡で、ジム・ゴーディとその奴隷だった女性エスター・ジョンソンの間に生まれる。

1888年7月10日、父・ベリーが生まれる。

1922年、一家は自動車産業で賑わうデトロイトに移住する。

1929年11月28日、ベリー・ゴーディ・ジュニアが生まれる。

1946年、高校を中退し、プロ・ボクサーになる。

1953年夏、「3dレコード・マート」というジャズ専門のレコード店をオープンする。

1955年、「3dレコード・マート」閉店。

1957年頃、作曲を始める。

1957年夏、スモーキー・ロビンソンWilliam 'Smokey' Robinsonおよび”the Matadors”(後の”Miracles”)と出会う。

1957年10月、昔のボクサー仲間だったジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonに提供した「Reet Petite(リート・ペティート)」がリリースされる。R&Bチャートの11位に達する。

他にもヒットを出すが、わずかな収入しかないことに業を煮やし、自費で音源を制作し、その販売権をレーベルに売り込む「レコード・リース」というシステムを考え出す。

1959年1月12日、家からの借金とウィルソンからの印税、800ドルで「Tamla Records」レーベルを立ち上げ、マーヴ・ジョンソンMarv Johnson「Come To Me」を制作する。
Marv Johnson「Come To Me」
ベリー・ゴーディが詞曲・編曲・プロデュースした、Tamlaレーベル最初のシングル。


1st シングル(1959年5月発売)

作詞・作曲:Marv Johnson, Berry Gordy/編曲・プロデュース:Berry Gordy

bass: James Jamerson / drums: Benny Benjamin

Background vocals: The Rayber Voices (Raynoma Liles Gordy, Brian Holland, Sonny Sanders, and Robert Bateman)

地域的に小ヒットした後、United Artistsに権利を売却、全米30位、R&Bチャート6位とヒットする。

▶アンナ・レコード

1959年、ベリーの仲間、ビリー・デイヴィスとベリーの姉、グウェンとアンナが「Anna Records」を立ち上げ、シカゴのチェス・レコードと提携する。
Barrett Strong「Money (That's What I Want)」
ビートルズもカヴァーしたこのスタンダード・ロックンロール・ナンバーもベリーが曲作りに参加。


シングル(1959年8月発売)

作詞・作曲:Janie Bradford, Berry Gordy

Background vocals: Raynoma & Berry

Tamla Recordsで制作し、Anna Recordsからチェスを通じ全国販売。全米23位、R&Bチャート2位のヒット。


▶モータウンの設立

白人が牛耳るレコード業界の中、ベリーは自分の収入が仕事に見合ってないと感じ、「ちゃんと利益を得るためには、他人に音源を渡すのはやめ、製造、販売、宣伝すべて自分たちの手でやるしかない」とのスモーキー・ロビンソンの意見に同意し、1960年4月14日、「Motown Record Corporation」を設立し、そこにTamlaも抱合した。

Motownは、デトロイトの別名「Motor Town」を縮めたもの。
The Miracles「Shop Around」
設立から半年も経ないでミリオン・セラー。幸先よいスタートを切った。


8th シングル(1960年9月27日発売)

1st アルバム『Hi... We're The Miracles』(1961年6月11日発売)収録

作詞・作曲:Smokey Robinson, Berry Gordy

モータウン初のミリオン・セラー。全米2位、R&Bチャート8週連続1位。

ミラクルズ:

1954年、デトロイトの友人同士で”The Matadors”結成。

1958年2月19日、”The Miracles”と改称し、ベリー・ゴーディのプロデュースによる1st シングル「Got a Job」、エンド・レコードよりリリース。

1965年、”Smokey Robinson and the Miracles”と改称。
▶組織

モータウン・レコード・コーポレーション=レコード会社

  レーベル:Tamla, Motown, Gordy, Soul, V.I.P.,など

ヒッツビルHitsville U.S.A.=レコーディング・スタジオ

ジョーベート音楽出版Jobete Publishing=作家契約、音楽出版管理

インターナショナル・タレント・マネージメントInternational Talent Management Inc.(ITM)=マネージメント
The Marvelettes「Please Mr. Postman」
ビートルズやカーペンターズがカヴァーした名曲のオリジナルは、彼女たちのデビュー・シングル。モータウン初の全米1位になりました。


1st シングル(1961年8月21日発売)

1st アルバム『Please Mr. Postman』(1961年11月20日発売)収録

作詞・作曲:Georgia Dobbins, William Garrett, Brian Holland, Robert Bateman, Freddie Gorman/プロデュース:Brianbert(Brian Holland+Robert Bateman)

drums: Marvine Gaye

モータウンにとって初の全米ポップチャート1位曲

1963年11月にThe Beatlesがカヴァー(日本盤シングルのB面は「Money」)


マーヴェレッツ

1960年、ミシガン州Inksterの高校のグリークラブのメンバーで結成。

1961年、モータウンのTamlaレーベルと契約。

1969年、解散。
The Miracles
「You've Really Got a Hold On Me」
これもビートルズがカヴァー、というよりほとんどコピーだね。スモーキー・ロビンソンの詞曲の才能が光ります。


シングル「Happy Landing」のB面(1962年11月9日発売)

アルバム『The Fabulous Miracles』(1963年2月28日発売)収録

作詞・作曲・プロデュース:Smokey Robinson

全米8位、R&B1位

ニューヨークで、”Sam Cooke”の「Bring It On Home to Me」を聞いて触発され、その夜ホテルで書き上げたという。

1963年11月、The Beatlesがカヴァー(アルバム『With the Beatles』収録)
▶モータウン・レビュー

1962年11月、「モーター・タウン・レビュー」(最初はこう呼んだ)開始。23日間に19の都市の「チトリン・サーキット」と呼ばれた、全国の黒人街にある劇場ネットワークで公演。モータウンのアーティストだけで構成し、人気者で集客し、新人を売るしくみとして考え出した。
▶Holland=Dozier=Holland (H-D-H)

ホーランド兄弟の兄、エディEddieと弟ブライアンBrian、ラモント・ドジャーLamont Dozierの3人による、作詞・作曲・プロデュース・チーム。1962年に結成した。

モータウンは最初から、ヒット作品を作れる作家を重視し、専属で契約した。モータウン黄金時代の形成には、このH-D-Hとスモーキー・ロビンソンという作家たちの能力の高さが大きく貢献している。

しかしH-D-Hは、1968年には、待遇が不満でモータウンを去ってしまう。
Martha and the Vandellas「Heat Wave」
ワクワクするような弾けるビート。これがモータウンらしさ。


シングル(1963年7月9日発売)

アルバム『Heat Wave』(1963年9月30日発売)収録

作詞・作曲:Holland=Dozier=Holland/プロデュース:Brian Holland, Lamont Dozier

全米4位、R&B1位

マーサ&ザ・ヴァンデラス:

ミッキー・スティーブンソンの秘書を努めていたマーサ・リーブスMartha Reevesは、”The Del-Phis”、後に”The Vels”のメンバーとして、マーヴィン・ゲイのレコーディングなどにコーラスで参加していたが、1962年のある時、レコーディングをすっぽかしたメアリー・ウェルズMary Wellsの代わりに「I’ll Have To Let Him Go」を唄ったところ、その歌唱力が認められ、モータウンと正式契約。”The Vandellas”と改称。

1963年2月、H-D-Hと組んでシングル「Come and Get These Memories」をリリース。R&Bチャート6位。H-D-Hの最初のヒットとなる。

1963年7月、シングル「Heat Wave」リリース。

1964年7月、シングル「Dancing in the Street」リリース。全米2位のヒット。

1968年解散。
Mary Wells「My Guy」
アメリカにビートルズ旋風が吹き荒れた1964年に堂々の1位。大人な歌唱だと思ったけどこのとき20歳。


シングル(1964年3月13日発売)

アルバム『Mary Wells Sings My Guy』(1964年5月発売)収録

作詞・作曲・プロデュース:Smokey Robinson

全米1位。ウェルズにとって最大の、そして最後のヒット。全英でも5位。


この年はビートルズ旋風とそれに続くブリティッシュ・インヴェイジョンで、米国アーティストが苦戦する中、モータウンは4曲を全米1位に送りこんだ。この曲以外はすべてスプリームズの曲。

モータウンのアーティストとして初めてイギリスに遠征、ビートルズと一緒にツアーを行った。
メアリー・ウェルズ:

1943年5月13日 – 1992年7月26日 デトロイト出身

1960年、17歳のとき、自作の曲をジャッキー・ウィルソンに歌ってもらえないかとベリー・ゴーディに会ったが、ベリーはその場でメアリー自身にその曲を歌わせ、気に入り、モータウンで契約した。

1960年9月、その曲「Bye Bye Baby」でデビュー。

ヒットを連発し、「The Queen of Motown」と呼ばれる。

1965年初頭、スプリームズばかりを重視し、自分は疎かにされていると、モータウンを去る。
The Supremes「Where Did Our Love Go?
(愛はどこへ行ったの)」
いよいよH-D-Hが絶好調。スプリームズの快進撃が始まった。


9th シングル(1964年6月17日発売)

2nd アルバム『Where Did Our Love Go?』(1964年8月31日発売)収録

作詞・作曲:Holland–Dozier–Holland/プロデュース:Brian Holland, Lamont Dozier

H-D-Hとの3作目。H-D-Hにとってもスプリームズにとっても初の全米1位。これ以降シングル5作連続で1位獲得。

メンバーは最初曲を聞いた時、「なぜこんな子供っぽい曲しかくれないの」と不満に思ったという。


ザ・スプリームズ:

1959年頃、”The Temptaions”の前身”The Primes”のエディ・ケンドリックスEddie Kendricksとポール・ウィリアムズPaul Williamsに認められたフローレンス・バラードFlorence Ballardが幼馴染のメアリー・ウィルソンMary Wilsonと、バーバラ・マーティンBarbara Martin、ベティ・トラヴィスBetty Travisとともに、”The Primettes”を結成。

まもなくベティが抜けたので、代わりにケンドリックスがダイアン・ロスDian Rossを推薦。

1961年1月、モータウンと契約。

1961年3月、「I Want a Guy」でデビュー。

まったく売れず、バーバラは早々にあきらめて脱退。

1963年10月、H-D-Hと組んだ最初の作品「When the Lovelight Starts Shining Through His Eyes」リリース。R&B2位。
The Supremes
「Stop! In the Name of Love」
これが売れなきゃ何が売れるんだってくらいキャッチーな曲だね。


12th シングル(1965年2月8日発売)

6th アルバム『More Hits by The Supremes』(1965年7月23日発売)収録

作詞・作曲:Holland–Dozier–Holland/プロデュース:Brian Holland, Lamont Dozier

全米2週連続1位、R&B2位、全英7位

シングル連続5作1位の4番目。


スプリームズが売れた要因:

・アーティスト養成部のマキシン・パウエルによる「気品あるパフォーマンス」の教育

・同時代の黒人女性ボーカル・グループには珍しい、華奢でキュートな歌唱

・振付師、チョリー・アトキンスによる魅力的なコレオグラフィー
The Temptations「My Girl」
メアリー・ウェルズの「My Guy」へのアンサー・ソング。どちらも詞曲はスモーキー・ロビンソン。


シングル(1964年12月21日発売)

2nd アルバム『The Temptations Sing Smokey』(1965年3月22日発売)収録

作詞・作曲・プロデュース:Smokey Robinson, Ronald White

ギター・リフはファンク・ブラザーズのロバート・ホワイトRobert Whiteが作った。

バンド初の全米1位、そしてミリオン・セラー

初めてデヴィッド・ラフィンDavid Ruffinをリード・ボーカルにしたシングル(それまではほとんどエディかポール)。

チョリー・アトキンスの振付は「テンプテーションズ・ウォーク」と呼ばれた。
テンプテーションズ:

1958年頃、”The Primes”という名で活動していた、エディ・ケンドリックスEddie Kendricks、ポール・ウィリアムズPaul Williams、オーティス・ウィリアムズOtis Williams, メルヴィン・フランクリンMelvin Franklin、エルブリッジ・ブライアントElbridge ""Al"" Bryantは、その後”The Elgins”という名で、1961年3月、モータウンのオーディションを受け、契約となる。

しかし、Elginsという名前は既にあることがわかり、”The Temptations”を考え出す。

1963年までに7枚のシングルをリリースするが、不発に終わった。

1963年末、ブライアントが解雇され、代わりにデヴィッド・ラフィンが参加する。
▶モータウン・サウンド

1965年ごろにイメージが確立する。タンブリンが強調するダンス・ビートに乗せたボーカルとコーラスのコール・アンド・レスポンスなどがその特徴である。そのモットーは「KISS (keep it simple, stupid)の原則」だった。

1966年リリースのテンプテーションズ『Greatest Hits』から、”The Sound Of Young America”というキャッチコピーをレコードに印刷する。
▶ファンク・ブラザーズThe Funk Brothers

アール・ヴァン・ダイクEarl Van Dike keyboard

ジェイムズ・ジェマーソンJames Jammerson bass

ベニー・ベンジャミンBenny Benjamin drums(1969年4月20日に死去)

ロバート・ホワイトRobert White guitar

他。

2002年公開の映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン(邦題、永遠のモータウン)』で注目される。
Four Tops
「Standing In the Shadows Of Love」
クレジットされなくても常に最適のフレーズを考え、最高のプレイを目指したバッキング・ミュージシャンたち。


シングル(1966年11月28日発売)

アルバム『Reach Out』(1967年7月)収録

作詞・作曲:Holland–Dozier–Holland/プロデュース:Brian Holland, Lamont Dozier

全米6位、R&B2位、全英6位


ファンク・ブラザーズのJames Jammersonが自薦するベース・プレイ。

オンビートで根音を鳴らす単調な型からはみ出すことはほとんどなかったベース・ギターの世界に、よりクリエイティブなポップ感覚を持ち込んだ革命児。
Four Tops「I Can't Help Myself
(Sugar Pie Honey Bunch)」
これぞ典型的なモータウン・サウンド!


シングル(1965年4月23日発売)

2nd アルバム『Four Tops Second Album』(1965年11月13日発売)収録

作詞・作曲:Holland–Dozier–Holland/プロデュース:Brian Holland, Lamont Dozier

バンド初の全米1位。R&Bチャートも1位。1965年度年間2位。全英23位。


フォー・トップス:

デトロイトのパーシング高校の学生だったリーバイ・スタッブスLevi Stubbsとアブダル・デューク・ファキールAbdul ""Duke"" Fakir、ノーザン高校のレナルド・オビー・ベンソンRenaldo ""Obie"" Bensonとローレンス・ペイトンLawrence Paytonが、あるクリスマス・パーティでいっしょに歌ったのがきっかけで、”The Four Aims”を結成。

1956年、チェス・レコードと契約。”The Ames Brothers”との混同を避けるため、名前を”Four Tops”と改める。

その後7年間、まったくヒットがないままに、レコード会社を転々とする。

1963年、ベリー・ゴーディJr.が彼らの可能性を確信し、モータウンと契約する。

しばらくは、ジャズのスタンダードを録音したり、スプリームズやマーサ&ヴァンデラスのバック・コーラスを努めたり。

ある時、Holland–Dozier–Hollandが特に何に使う当てのないトラックを作り、メロディを乗せてFour Topsに歌わせることにする。これが1964年7月にリリースされた「Baby I Need Your Loving」で、全米11位のスマッシュ・ヒット。

1965年6月、「I Can't Help Myself (Sugar Pie Honey Bunch)」が全米1位の大ヒットとなる。
Four Tops「It's the Same Old Song」
数時間で曲を作り、曲ができてから一昼夜で1,500枚プレス、ラジオ局に発送したという信じられない職人技の結集。


next シングル(1965年7月9日発売)

2nd アルバム『Four Tops Second Album』(1965年11月13日発売)収録

作詞・作曲:Holland–Dozier–Holland/プロデュース:Brian Holland, Lamont Dozier

全米5位、R&B2位、全英34位

Motownレーベル

前作「I Can't Help Myself (Sugar Pie Honey Bunch)」のヒットを見て、Four Topsの前のレコード会社、コロムビアが彼らの旧譜を再発しようとしていることを耳にしたベリー・ゴーディはすぐさま彼らの次のシングルを作るように指示する。

その日の午後3時にH-D-Hは「It's the Same Old Song」を作り上げ、すぐさまレコーディングが始まり、エンジニアは夜を徹して何種かのミックスを試聴用にカットする。翌日、アーティスト養成部のエスターがその中からシングルに最適なものを選び、午後3時までに1,500枚のプレスを完了、全国のラジオ局に送付した、という。
Marvin Gaye & Tammi Terrell
「Ain't No Mountain High Enough」
もうひとつの強力作家チーム=アシュフォード&シンプソン、渾身の1曲。いつ聴いても胸がキュンとする名曲&名歌唱です。


デュオ初シングル(1967年4月20日発売)

アルバム『United』(1967年8月29日発売)収録

作詞・作曲:Nickolas Ashford & Valerie Simpson/プロデュース:Harvey Fuqua, Johnny Bristol

全米19位 R&B3位


ダスティ・スプリングフィールドがこの曲のデモを聴いて、歌いたいと言ったが、アシュフォード&シンプソンは渡さなかった。この曲はモータウンに雇ってもらうための金の卵だと考えていたのである。
マーヴィン・ゲイ:

1939年4月2日 - 1984年4月1日 米国ワシントンDC出身。

高校をドロップ・アウトし、空軍に入るがそこも仮病でリタイアした後、仲間とコーラス・グループを作る。

やがて”Moonglows”として活動していたハーヴェイ・フクアHarvey Fuquaに気に入られ、共に行動する。

1960年、フクアと共にデトロイトに移転。フクアはアンナ・レコードに参加し、ゲイもドラマー兼ピアニストとして契約する。ゲイはやがて17歳年上のアンナ・ゴーディと恋に落ちる。アンナはゲイをベリーに紹介し、Tamlaレーベルとの契約が決まる。

1961年、シングル「Let Your Conscience Be Your Guide」でデビュー。

1962年9月、「Stubborn Kind of Fellow」がR&Bチャート8位のスマッシュ・ヒット。

1963年、アンナ・ゴーディと結婚。

1964年、メアリー・ウェルズとデュエットでアルバム『Together』をリリース。

1965年9月、シングル「Ain't That Peculiar」がR&B1位、全米8位

1966年5月、キム・ウェストンKim Westonとデュエットで「It Takes Two」をリリース。

1967年、ジェイムズ・ブラウンの下で活動した後、65年にモータウンと契約したタミー・テレルとデュエット、大成功する。

1967年10月、ヴァージニア州ファームヴィルでのコンサート中にタミーが昏倒、脳腫瘍と診断される。

1970年3月16日、タミー死去(享年24歳)。
Diana Ross
「Ain't No Mountain High Enough」(album version)
同じ曲のダイアナ・ロス、ソロ・バージョン。こちらは壮大で華麗なアレンジです。


シングル(1970年7月16日発売)

1st ソロ・アルバム『Diana Ross』(1970年6月19日)収録A-5

作詞・作曲・プロデュース:Nickolas Ashford & Valerie Simpson

piano: Valerie Simpson

ソロ初の全米1位 全英6位


その後のスプリームズ:

1967年、ベリー・ゴーディのダイアナ重視とダイアナとの人間関係に不満が募り、酒浸りで仕事にも支障をきたしたフローレンスが解雇され、シンディ・バードソングCindy Birdsongが加入。

同年7月にはグループ名も、”Diana Ross & the Supremes”とした。

フローレンスは、その後ソロ歌手として、ABC Recordsより2枚のシングルを出したがヒットせず、1976年2月22日に死去。

1970年1月のライブを最後に、ダイアナが独立しソロに転向。替わりのリード歌手としてジーン・テレルJean Terrellが加わる。

その後もメンバーをいろいろ替えながら、メアリーを中心に活動を続けるが、

1977年6月、ロンドンでフェアウェル・コンサートを開催し、解散。

1981年12月、スプリームズ・ヒストリーを素材にしたミュージカル「Dreamgirls」初演。

2006年12月、映画「Dreamgirls」公開。
The Jackson 5「I'll Be There」
少年時代のマイケルの伸びやかな歌唱。それにしても上手い。この時11歳ですよ。


4th シングル(1970年8月28日発売)

3rd アルバム『Third Album』(1970年9月8日発売)収録

作詞・作曲:Berry Gordy, Bob West, Willie Hutch, Hal Davis/プロデュース:Hal Davis

Motown移籍からこの曲まで4シングル続けて全米およびR&B1位獲得。全英4位。

この曲は5週連続1位。米国だけで420万枚を売り上げた。

マイケルとジャーメインJermaineがリードボーカルを分け合ってる。


ジャクソン・ファイブ:

1964年、インディアナ州ゲイリーで”The Jackson Brothers”結成。

1965年、”The Jackson Five”と改称。

1967年8月、アポロ・シアターのタレント・コンペティションで優勝。それを観ていたグラディス・ナイトは彼らのデモ・テープをモータウンに送るが、ベリーはスティーヴィー・ワンダーに思い入れがあったので無視。

1967年11月、パパJoe JacksonがSteeltown Recordsと契約。シングル2作リリース。

1968年、モータウン所属の”Bobby Taylor & the Vancouvers”の前座でのパフォーマンスに感銘したボビー・テイラーが、彼らを7月のモータウンのオーディションにエントリーする。

今度はベリーも納得し、Steeltownからの移籍交渉をし、1969年3月に契約する。

7月には彼らをハリウッドに移住させ、スザンヌ・デ・パッセSuzanne de Passeを世話役としてつける。

よりセンセーショナルなデビューのため、11歳のマイケルを8歳と偽ったり、ダイアナ・ロスが彼らを発掘したというストーリーを捏造したりする。

1969年10月、シングル「I Want You Back」リリース。

 12月、「エド・サリバン・ショー」に初出演。

 12月、1st アルバム『Diana Ross Presents the Jackson 5』リリース。

1970年1月に「I Want You Back」はチャート1位を獲得、続くシングル「ABC」「The Love You Save」「I'll Be There」と4作連続で1位を獲得する。

1971年10月、マイケルのソロ作品もスタートする。1972年からはジャーメインも。

1972年9月、マイケルのソロ・シングル「Ben」が全米1位となる。

1973年、パパJoeは休みなくリリースを強要するモータウンのやり方と条件の悪さに不満を抱く。

1975年、より良い条件のEpic Recordsに移籍を決める。

ただし、ジャーメインはベリーの娘ヘイゼルHazelと結婚しており、モータウンに残る。
Gladys Knight & the Pips
「Neither One Of Us (Wants To Be The First To Say Goodbye)」
モータウン移籍後ブレイクしたが、なぜかモータウンになじめず、モータウンらしくなかった彼らの、モータウン時代最後のシングル。


シングル(1972年12月26日発売)

アルバム『Neither One Of Us』(1973年3月発売)収録

作詞・作曲:Jim Weatherly/プロデュース:Joe Porter

彼らのモータウンでの最後のシングル。

カントリーSSW、ジム・ウェザーリィ作品のカヴァー

1974年3月にこの曲で、初のグラミー賞「Best Pop Vocal Performance by a Duo or Group」を獲得するが、同時に次のレコード会社Buddaで1973年8月にリリースした「Midnight Train to Georgia」が「Best R&B Vocal Performance by a Duo or Group」を獲得した。

グラディス・ナイト&ザ・ピップス:

1952年、グラディス・ナイトGladys Knight、弟のブッバ・ナイトMerald ""Bubba"" Knight、妹のブレンダ・ナイトBrenda Knight、いとこのウィリアム&エリナー・ゲストWilliam & Eleanor Guest により、”The Pips”を結成。

1957年、 Brunswick Recordsと契約、幾つかのシングルをリリースする。

1959年、ブレンダとエリナーが脱退、いとこのエドワード・パトゥンEdward Pattenと親戚ではないラングストン・ジョージ Langston Georgeが加入。

1961年、Vee-Jay Recordsよりリリースしたシングル「Every Beat of My Heart」がR&B1位のヒット。

グループ名を”Gladys Knight & the Pips”と変え、ラングストンが脱退。

1966年、モータウンに移籍。

1967年9月、シングル「I Heard It Through the Grapevine(悲しいうわさ)」リリース。全米2位、R&B6週連続1位の大ヒット。

1973年2月、Buddah Recordsに移籍。

そこでは「I've Got to Use My Imagination」や「Midnight Train to Georgia」などのヒットを飛ばす。

1980年、Columbia Recordsに移籍。

1989年、グループは解散、グラディス・ナイトはソロ活動へ。
The Temptations「Papa Was a Rolling Stone」
モータウンのハウス・プロデューサー、ノーマン・ホィットフィールドがこの野心的で緻密なサウンドをもたらした。黒いブライアン・ウィルソンかな。


シングル(1972年9月28日発売)

アルバム『All Directions』(1972年7月27日発売)収録

作詞・作曲:Norman Whitfield, Barrett Strong/プロデュース:Norman Whitfield

シングル・エディット版で7分もの長さ。アルバム版は12分

全米1位 R&B5位 1973年グラミー賞で、「Best R&B Vocal Performance by a Group」と「Best R&B Song」を獲得

「サイケデリック・ソウル」と呼ばれた。
テンプテーションズその後:

デヴィッド・ラフィンがコカインを常用するようになり、ミーティングやリハーサルやコンサートなどに遅れる、あるいはすっぽかすこともしばしばとなり、他のメンバーから、1968年6月、解雇を申し渡される。

後任は元”The Contours”のデニス・エドワーズDennis Edwards

1968年秋から、プロデューサー、ノーマン・ホィットフィールが、テンプテーションズに新しいサウンドを求め、”Sly & the Family Stone”の影響を強く受けたファンク色の強い「Psychedelic Soul」を開発する。

その路線の第1号が、1968年10月に発売された「Cloud Nine」である。

このシングルはR&B2位、全米6位のヒットになり、モータウンに初のグラミー賞、「Best R&B Vocal Group Performance」をもたらす。

しかし、その路線にはなじめなかったケンドリックスは、1971年1月発売の「Just My Imagination (Running Away with Me)」でリード・ボーカルをとった後、グループを脱退し、ソロに転向する。

1971年5月、今度はポール・ウィリアムズがストレスと酒で体を壊し、グループを脱退、リチャード・ストリートRichard Streetが後任となる。ポールは1973年8月に34歳でピストル自殺してしまう。

1971年5月、デーモン・ハリスDamon Harrisが加入。

1976年、モータウンを離れ、Atlanticに移籍するも、結果を出せず、1980年、モータウンに戻る。
Marvin Gaye「What's Going On」
歴史に残る名曲のひとつ。フォー・トップスのメンバー、レナルド・オビー・ベンソンの思いから生まれた歌というところがモータウンらしい。


シングル(1971年1月20日発売)

アルバム『What's Going On』(1971年5月21日発売)収録

作詞・作曲:Al Cleveland, Marvin Gaye, Renaldo Benson/編曲:David Van DePitte/プロデュース:Marvin Gaye

初めてファンク・ブラザーズの面々がレコードにクレジットされた。

全米2位、R&B5週連続1位 アルバムは全米6位、R&B9週連続1位

1969年5月15日、カリフォルニア州バークレーで起きた「血の木曜日」と呼ばれる、反戦集会中の若者たちに対する警官隊の暴行事件を目撃し、衝撃を受けたレナルド・ベンソンがその気持ちを語った友人のアル・クリーブランドが曲にまとめた。

ベンソンはフォー・トップスで歌いたかったが、他メンバーは「プロテスト・ソングはイヤだ」と反対した。「違う、これはラブソングだ。私はプロテストしているわけじゃない。ただ何が起こっているのか知りたいだけだ」とベンソンは語った。

1970年にベンソンはその、まだタイトルがない曲をゲイに聴かせた。ゲイは詞曲を手直しし、「What's Going On」というタイトルをつけた。

ベリー・ゴーディは最初この曲を気に入らず、シングル・リリースを許可しなかったが、政治的な内容だからというわけではない。ベリーがダイアナ・ロスの売り出しにかまけているすきに、重役ハリー・パークの判断で出したところ、大ヒットとなった。

アルバムも、それまでシングルが主体だった黒人音楽の世界で、社会状況をテーマにしたコンセプト・アルバムは画期的であり、その後スティーヴィー・ワンダーやダニー・ハサウェイ、カーティス・メイフィールドなどに大きな影響を与え、「ニュー・ソウル」という新しいカテゴリーを生み出した。
その後のマーヴィン・ゲイ:

1970年3月にタミー・テレルが若くして脳腫瘍で夭折。そのショックとともに、自分の音楽性にも疑問を持ち始め、一時期音楽活動を休止し、スポーツ選手を目指したりするが、レナルド・ベンソンとアル・クリーブランドが持ち込んだ「What's Going On」の作業をしているうちに、目指すべき新しい音楽の姿を見出す。

しかし、1970年後半はアンナとの離婚や薬物依存などで低迷。

1980年代前半に復活の兆しを見せるが、

1984年4月1日、父親と口論の末、射殺され死亡。享年44歳。
Smokey Robinson & The Miracles
「The Tears Of A Clown」
スティービー・ワンダーの曲にスモーキー・ロビンソンが詞をつけて生まれた曲。ミラクルズに初の全米1位をもたらした。


シングル(1970年7月発売)

アルバム『Make It Happen』(1967年8月29日発売)収録

作詞・作曲:Stevie Wonder, Hank Cosby, Smokey Robinson/プロデュース:Hank Cosby, Smokey Robinson

全米・全英共に1位

スティービー・ワンダーが彼のプロデューサーだったハンク・コスビーと曲およびトラックを作り、歌詞が浮かばなかったので、1966年のモータウンのクリスマス・パーティで、作詞家として評価の高いスモーキー・ロビンソンに相談した。ロビンソンはそのトラックの「サーカスのようなサウンド」から「ピエロの涙」というストーリーを思いつき、歌詞を作り、結局唄うことになった。しかしその時点ではアルバムの1曲で、シングル化はされなかった。

1970年7月、「Motown Britain」がミラクルズを盛り上げようと、過去の作品からこの「The Tears Of A Clown」を選んでシングルとして発売すると、たちまち全英1位のヒットとなった。

それを見て9月、米国でも慌ててシングル発売をすると、全米1位、R&B1位を獲得する。なんとミラクルズ初の全米1位曲であった。
ミラクルズ追記:

1965年頃から”Smokey Robinson & The Miracles”と名乗るようになる。

1969年頃、ロビンソンはグループを辞め、モータウンの副社長としての仕事と、家庭をだいじにしようと決意するが、1970年には「The Tears Of A Clown」が大ヒットして棚上げになる。

1972年、後任のリード・ボーカリストにビリー・グリフィンBilly Griffinを立てて、ロビンソンは脱退。

1976年には「Love Machine」が全米1位になるなど、一定の成功を収めるが、

1977年、モータウンを離れColumbia Recordsに移籍するが、結果を出せず、

1978年、グリフィンが抜け、グループは解散。
Stevie Wonder
「Don't You Worry 'Bout a Thing」
この曲を含むアルバム『Innervisions』発売の3日後、スティーヴィーは交通事故に会い、4日間意識不明になる重傷を負う……。


第3弾シングル・カット(1974年3月発売)

19th アルバム『Innervisions』(1973年8月3日発売)収録

作詞・作曲・編曲・プロデュース:Stevie Wonder/Synthesizer programming: Robert Margouleff, Malcolm Cecil

アルバムは全米4位、年末まで20位以内にランク。R&B1位。

1974年のグラミー賞で「Album of the Year」、 Robert MargouleffとMalcolm Cecilは「Best Engineered Non-Classical Recording」を受賞した。


スティービー・ワンダー(戸籍名: Stevland Hardaway Morris):

1950年5月13日、ミシガン州サギノー生まれ。

6週間の早産で、保育器内での過量酸素が原因で視力を失う(未熟児網膜症)。

4歳のとき、母は父を置いて、子どもたちとデトロイトに移住。

11歳のとき、ミラクルズのロニー・ホワイトに見出され、モータウンのオーディションを受け、合格。

プロデューサーのクラレンス・ポールが”Little Stevie Wonder”というアーティスト・ネームをつける。

1962年末、「モータウン・レビュー」に参加した際のライブ録音が、1963年の5月、3rd アルバム『Recorded Live: The 12 Year Old Genius』としてリリースされ、全米1位になる大ヒット。同月にシングル・カットされた「Fingertips - Part 1 & 2」も全米1位。

1971年の16th アルバム『Where I'm Coming From(青春の軌跡)』からは自作のプロデュース権を獲得し、「タウラス・プロダクション」を設立、ニューヨークに移住して、モータウンから半独立のスタンスをとった。

自身の新たな音楽を模索していたある時、ロバート・マーゴレフRobert Margouleffとマルコム・セシルMalcolm Cecilという2人のエンジニアによるユニット”Tonto's Expanding Head Band”のアルバム『Zero Time』(1971)を聴き、使われていた当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに強い感銘を受けた。

スティーヴィーは2人を訪ね、ともに音作りを始め、『Music Of My Mind』(1972)、『Talking Book』(1972)、『Innervisions』(1973)、『Fulfillingness’ First Finale』(1974)の4枚のアルバムに余る曲をかたちにしてしまう。
▶モータウンその後

1972年、本社をロサンゼルスに移転。

1983年5月、特別番組「モータウン25 -Yesterday, Today and Tomorrow」(NBC)で、マイケル・ジャクソンが「ムーン・ウォーク」を初めて披露。

1984年、MCAと配給契約を結ぶ。

1988年、MCAおよびボストン・ベンチャーズに買収される。

現在、キャピトル・レコードの子会社として操業している。
Commodores「Superman」
70年代以降モータウンは勢いが衰え、モータウンらしさもなくなっていく。彼らはその最後の花か。


1st アルバム『Machine Gun』(1974年7月22日発売)収録

作詞・作曲:Lionel Richie/プロデュース:James Anthony Carmichael, Commodores

タイトル曲はR&Bチャート7位、スポーツ・イベントの定番曲となり、いくつかの映画のテーマ曲としても使用される人気曲となる。アルバムはR&B22位。

Lionel Richie - vocals, saxophone, keyboards

Thomas McClary - vocals, guitar

Milan Williams - guitar, keyboards

Ronald LaPread - bass guitar

William King - trumpet, percussion

Walter Orange - drums, vocals, percussion
コモドアーズ:

1968年、ほとんどのメンバーはアラバマの「Tuskegee University」の新入生として出会い、”The Commodores”を結成する。

1972年11月、モータウンと契約する。

1974年7月、デビュー・アルバム『Machine Gun』リリース。

1977年3月、「Eazy」をリリース。全米4位のヒット。この後はファンク路線を捨て、ソフトでポップな音楽スタイルがメインとなる。

1982年、リッチーがソロ転向のため脱退。代わりにスカイラー・ジェットSkyler Jettが加入。

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