新国立劇場のシェイクスピア、ダーク
コメディ交互上演 『尺には尺を』『
終わりよければすべてよし』の魅力を
翻訳家の松岡和子さんが語る

2023年10月18日(水)より新国立劇場中劇場にて開幕する日本初となる『尺には尺を』『終わりよければすべてよし』の交互上演にあたり、シェイクスピアの戯曲の完訳を達成するなど、シェイクスピア作品に精通する翻訳家の松岡和子さんに、両作の魅力や見どころを聞いた。

■喜劇ではあっても悲劇の影やつらさをどうしても帯びている―松岡
ーー今回上演される『尺には尺を』、そして『終わりよければすべてよし』という2本は、シェイクスピア作品全体の中ではどういった位置付けの作品なのでしょうか?
どちらが先に書かれたのかということには様々な説がありますが、いずれにしろ同じ時期に書かれた2作になります。シェイクスピアの作家歴を見ると、明るい喜劇の時代があり、歴史劇の時代があり、『ハムレット』に代表される悲劇の時代があります。『ハムレット』と同時期に書かれた『十二夜』という作品は、シェイクスピア最後のロマンティックコメディと言われており、主な人物がみんなハッピーになれる明るく幸せな作品です。この作品を機にコメディ時期が終わり、その後は屈折した苦味のある、ハッピーエンドと言っていいのか分からないような喜劇の時期になります。この時期の喜劇の作風は、どこかすっきりしない感覚を覚える作品であることから“問題劇”という呼び名をつけられているのですが、その中の2作が『尺には尺を』と『終わりよければすべてよし』です。この前後にシェイクスピアは四大悲劇を書いているので、“問題劇”は喜劇ではあっても、悲劇の影や暗さをどうしても帯びているのだと思います。

■『尺には尺を』は問題が多数ある作品。だからこそ今現在にも通じる物語になっている―松岡
ーー『尺には尺を』の魅力を教えてください。
この作品は問題が多数ある作品で、俗っぽい言い方をしてしまえば“パワハラ・セクハラ・ドッキリカメラ”といったお芝居です。ですが、それがあるからこそ今現在にも通じる物語になっているのかなと思います。
これは私の説なのですが…シェイクスピアの全ての喜劇は結婚で終わります。一応の「めでたしめでたし」の形です。ところが、全ての悲劇は結婚から始まるんです。この『尺には尺を』は、そういう意味でも一応、喜劇の体裁にはなっていますが、この作品における結婚は“罰”として描かれます。アンジェロは言うまでもなく、ルーシオも償いのための結婚です。ジュリエットとクローディオは“罰”ではありませんが、それまでの喜劇に見られた明るく爽やかな晴れ晴れとした結婚とはならない。そこで問題となってくるのは、公爵ヴィンセンシオとイザベラです。シェイクスピアは、公爵がイザベラに求婚をした後のイザベラの返事を書いていないんです。無言。これまで様々な演出で『尺には尺を』が上演されてきましたが、資料を見ますと、イザベラが背を向けたという演出もあるらしいです。公爵にとって結婚は“罰”ではありませんが、イザベラにとってはもしかしたら“罰”なのかもしれない、“救い”なのかもしれない、という考えもできます。今回は、鵜山さんがどのような結末になさるのかも見どころだと思います。
ーーシェイクスピアはなぜイザベラの返事を書かなかったのでしょう? 松岡さんは、イザベラについて、どのように考えていますか?
私は、嫌々承諾したというのが正解かなと思います。拒否はしないと思うんですよ。イザベラが公爵の頬をひっぱたくという演出があったというのを聞いたことがあるのですが、それもありだと私は思います。でも、そうだとしても結婚はした。修道女になりたいというイザベラの所期の目的は遂げられないのですから、渋々だったのだと思います。
イザベラが入ろうとしていた修道会は、聖クララ修道会と言って、本当に戒律の厳しいところだそうですから、修道女への思いは強いものがあったと思います。ただ、その聖クララ修道会の戒律の一つに「沈黙」とあるのですが、イザベラはとにかくよく話します。なので、それ一つをとっても聖クララ修道会に入る資格はないんですよ(笑)。マタイによる福音書にも「兄弟に向かって愚か者というものは、議会に引き渡されるだろう。また、馬鹿者というものは、地獄の火に投げ込まれるであろう」とあるのですが、イザベラは(兄である)クローディオに向かって「死んでください」とか、「愚か者」以上の強い罵倒の言葉を言います。これもまた修道女としての資格がないですよね。そのように、シェイクスピアは彼女を面白い女性として描いています。このお芝居の中に出てくる人は、みんな何らかの形で手が汚れているんです。ですから、生きる人は誰一人、清廉潔白ではない。人間的な欠陥はあるし、清く生きるためという大義名分のもとであれ、人をはめてしまうという過ちを描いています。人間ってそういうものだよねという、シェイクスピアのつぶやきが浮かんでくるような気がします。

■『終わりよければすべてよし』は異例ずくめのお芝居―松岡
ーー続いて、『終わりよければすべてよし』の見どころを語っていただけますか?
実際に訳してみると、この作品は異例ずくめのお芝居でした。1つ目の異例は、女性の登場人物が劇の第一声となるセリフを話すということです。これは約40本あるシェイクスピア作品の中でも、この作品だけなのです。『マクベス』の魔女は別として。
異例その2は、ヘレナがいわゆるキャリアウーマンであるということ。医術の心得のある、手に職を持った女性もまた、シェイクスピア作品ではただ一人です。
異例その3は、ヒロインの方が恋人よりも身分が下だということ。他の作品にも身分違いの恋は登場しますが、その全てが女性の社会的な地位や身分が高く、男性が低いというもの。この作品は逆なんです。
それから、異例その4は、女性の登場人物にたくさんの独白があることで、これも例外的です。この作品では、ヘレナだけでなく、ルシヨン伯爵夫人もダイアナも独白を与えられています。シェイクスピアが独白を与えるキャラクターは、とても特別な存在です。シェイクスピアにとって独白は、お客さんの共感や同情を引き寄せるための一つの通り道なんですよ。だから、例えば『ハムレット』ではたくさんの言葉をハムレット自身が語ります。有名な独白がたくさんありますよね? それは「皆さん、ハムレットに共感してください」というメッセージでもあるわけです。
異例その5は、シェイクスピア劇においては父親、または父親的な権威によって望まぬ結婚を強いられるのは女性なのですが、この作品ではバートラムという男性が望まぬ結婚を強いられます。同じ目に遭う男は、シェイクスピア劇の中でバートラムただ1人です。
そして異例その6。「全ての喜劇は結婚で終わり、全ての悲劇は結婚から始まる」がシェイクスピアの作品に共通していますが、その中で例外が2作品だけあり、劇の途中、つまり真ん中に結婚があるのが『ロミオとジュリエット』と『終わりよければすべてよし』です。『ロミオとジュリエット』は、一つのお芝居の中で、結婚までが喜劇、結婚からが悲劇を描いています。一方で、この『終わりよければすべてよし』の場合は、結婚をした後に悲劇がやってきますが、最後には同じ人と再び結婚して終わります。つまり、「全ての喜劇は結婚で終わる」に当てはまるんです。当てはまりつつ、当てはまらないという面白い構造になっています。もちろん、同じ人との結婚が二度もあるというのもこの作品のみです。とこのように、まさに異例ずくめのお芝居になっています。
ーーなるほど。他にもポイントはありますか?
ヘレナがバートラムと結婚するために、自らベッド・トリックを仕掛けていくというのもこの作品の面白さだと思います。『尺には尺を』では、公爵の発案で様々なベッド・トリックが行われましたが、この『終わりよければすべてよし』では当事者であるヘレナ自身が企んでいます。それは、ヘレナにとってマイナスポイントになるもののはずです。そういう意味では、『尺には尺を』と同じようにヒロイン、ヒーローたちが人格者ではなく、やましいものを抱えているというのも面白いところです。すごく現代的な作品だと思います。

松岡和子さんのインタビューは、新国立劇場「ギャラリープロジェクト」の動画で全編公開中。シェイクスピアがなぜここまで人間を描けたのか、劇作家としての変化なども語られている。ぜひチェックしよう。

聞き手:三崎力(新国立劇場 制作部演劇)
文:嶋田真己

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