ワンフェス特別企画 武田康廣、神村
靖宏、宮脇センムが語る「DAICON FI
LM」の実像 ロング鼎談インタビュー

今年もワンフェスがやってくる。プロ・アマ問わず、自作したガレージキットなどを展示、販売する日本最大のフィギュアの即売会『ワンダーフェスティバル』、通称ワンフェス。
当日版権を得て販売される版権ものや、一点しかないレアなアイテムなどが一堂に会するこのイベントは、2023年7月30日開催の『ワンダーフェスティバル2023[夏]』にて「DAICON FILM」の特別企画が実施される。
「DAICON FILM」(ダイコンフィルム)は、1981年から1985年にかけて活動したアニメ・特撮を中心とする自主映画の同人制作集団。アニメ制作会社ガイナックスの母体となったものであり、第20回日本SF大会(愛称「DAICON 3」(ダイコン・スリー))第22回日本SF大会(愛称「DAICON 4」(ダイコン・スリー))ではそのオープニングアニメの凄さや同人とは思えない特撮映像などで未だに語り継がれる伝説の集団である。
今回はこの企画を記念して、武田康廣氏(株式会社GAINAX京都代表取締役)、神村靖宏氏(株式会社グラウンドワークス代表取締役・株式会社ガイナックス代表取締役)、宮脇修一氏(ワンダーフェスティバル実行委員会代表、通称センム)のお三方にお集まり頂き、当時のお話を存分に伺った。黎明期のSFファン…いや、オタクたちがどうやって伝説になったのか、貴重な証言とともにお届けする。

■武田康廣と岡田斗司夫の出会い
――本日はよろしくお願いいたします。ではまず、今回のワンフェスでDAICON FILMを取り上げようとなったのは、どなたの発案なんでしょうか?
神村:40周年だなぁというのは、気になってはいたんです。あとちょうどDAICON FILM関係の、昔取っておいた資料なんかが、今ちょうど整理しやすい状況になりまして。今なら出せるぞ、というので、センム(海洋堂センム・宮脇修一氏)に「ワンフェスで展示でもやらせてもらえませんか?」って話をしたのが最初ですね。
宮脇:2月のワンフェスの後ぐらいやね? 決めたのは。前回(機動警察)パトレイバーのデッキアップをやりまして、次も何かしましょうかってことだけ決まっていて。ワンフェスの会議で「DAICONやろうか」って話が出て、神村さんからも「資料あるで」って話を聞いて、「じゃあやろうか」って(笑)。 ちょうど去年SF大会でも武田さんにもお会いしてたし。ワンフェス実行委員会内でも「異論ないっすよね」ということで決まった経緯ですね。
神村:それと別に、古いDAICONスタッフの連中も、ときどき集まってワイワイやってるんですよ。そういう場で武田さん自身が「周年やから、何かやろうや」って声かけてたし。
武田:『DAICONIV』が40周年なわけですよね。『DAICONIII』の40周年にあたる2年前は、コロナもあったし、なにもできなかったんです。40周年って言葉自体は中途半端やと僕は思ってるんですけど(笑)。なんせ50周年を待っていたら、もういろんな人たちが、命の危機がある(笑)。
――あはははは!
武田:だって僕、今年の誕生日きたら66(歳)ですからね。ってことは、『DAICONIV』を作ったときは、26(歳)やったわけですよ。そういうのもあって、今回がまあ一番ええタイミングかなというのがありまして。センムの方からも、熱心にやりたいと頂いたので、具体的なことを考えようと。
神村:Amazon Prime Videoで『帰ってきたウルトラマン(DAICON FILM版)』を配信したんですけど、あれもよく考えてみたらちょうど40周年なんですよね。そういった時期が重なったんだなという感じですね。
――ということで、DAICON FILMに関して喋れる範囲内で思いっきり話していただければと思っております。
武田:これは記事となって記録に残るので、表層の部分だけをお話しして、ワンフェス本番のステージではもうちょっと深く、誰かに対する悪口なんぞも含めて話しましょう(笑)。
――悪口ですか(笑)。
神村:悪口って言うほどの悪口やないんですよ?(笑)
武田:そうそう。『DAICONIII』や『DAICONIV』では、スタッフ間の軋轢多少はあったけれども、恨みつらみが残るようなものではないんですよ。当時はみんな若かったから。
宮脇:まぁ、これ聞いた岡田斗司夫さんあたりが、YouTubeでまた好き勝手言うでしょうし(笑)。
――では、改めて当時のSF大会の熱量ってどんなものだったのかを聞いてみたいと思っております。
武田康廣氏
武田:第20回大会の『DAICONIII』が1981年、第22回大会の『DAICONIV』が1983年。まぁ、言うたら大昔なわけですよ。僕が初めて行ったSF大会が、第17回の『ASHINOCON』。当時大学生で、SF大会にすごい憧れがあって。ましてや芦ノ湖で2泊3日っていうね。温泉もついてる立派なホテルを貸し切って、2泊3日SF漬けですよ。プロの作家もファンも全国から来てるわけですよ。そんなんで勇んで行って参加したらですね、これがつまんないんですよ!
一同爆笑
武田:こんな言い方をするとね、(記事に)残るから、誰かが見たら恨まれるかもしんないんですけど、正直言って、つまんなかったです。「金返せ」とまでは思わなかったけどね。その頃岡田斗司夫と、四国でやったイベントで出会ったんです。別の大学のやつやったんですけど、芦ノ湖で再開して。1回目に会うたときはほとんど喋ってません。ただ「武田さんと似たやつがおるぜ」みたいなこと言われて(笑)。 芦ノ湖で、あまりにもつまらなかったから僕は暇やったんです。どれぐらい暇やったかと言うと、二泊三日の真ん中の日、普通にケーブルカーか何かに乗って、黒卵とか食べに、山登って観光しましたからね(笑)。
一同:会場にいない(笑)。
武田:それで、どうにか僕らも盛り上げたいから、即席で仲間にコスプレさせたりね。トイレからトイレットペーパーを取ってきて、ぐるぐるのミイラ男みたいにして、芯を切って、口とか目に当てて、スター・ウォーズのタスケン・レイダーみたいな。
――雑なコスプレだけど、たしかにタスケン・レイダーに見えますねそれ(笑)。
武田:それでもいまいち盛り上がらへんで、結局岡田君と2人で、ロビーで漫談みたいなこと始めたんですよ。「中国版宇宙戦艦ヤマト」とかね。多分夜の10時ぐらいから朝6時ぐらいまで、2人で延々しゃべったんですよ。なんかそれで、「関西芸人」っていう名前が付いてですね(笑)。その後、大会のメインホールのステージでも15分だけ時間もらったんで、やったんですよ。折り畳み傘2つもって「TIEファイター!」ってやったりとか。
――ここでもスター・ウォーズですね。
武田:そういうくだらんことをひたすらやってたわけですよ。これがまあウケた。それで、何の根拠もなかったんですけど「これ、僕らがやった方が面白いもんできんとちゃうの?僕らが絶対面白いよね」っていうのを岡田君とか、他のSF研の仲間とかと話したりして、やることにしたんですよ。いわゆる熱さ、熱量っていう部分では、自分らの方が面白いものができると思ったんです。それともう一つは、SF大会では小説がメインだったんですよ。SFは文学だから、アニメとか特撮はSFじゃないって言うの。ただ、漫画はSFに入れといたる、って言うんですよ。
――なんで漫画はOKだったんですか?
武田:それは手塚治虫がいたからですよ。アニメも微妙だった。
神村:(機動戦士)『ガンダム』より前ですからね。
宮脇:映画はどうやったんですか? SF映画というジャンルは。
武田:SF映画というのは、基本的にはアリやったと思う。その当時、芦屋小雁(喜劇俳優)さんが『2001年宇宙の旅』(日本は1968年公開)の16ミリフィルムを持ってきて、夜中に上映してたりしてたんです。そういうもんも見られるとか、いろんなものがあるってことの面白さはあったんですよね。
宮脇:特撮はどうやったの?『ウルトラQ』とか、テレビでやってた海外ものの『スタートレック』とか『アウター・リミッツ』とか、あんなものはどうやったんですか?
武田:微妙なんですよ。「仲間じゃない」とは言われない。そのときも確かにね、池田憲章(映画評論家)さんは確か参加してたはずなんですよ。
神村:岸川(靖)(編集者)さんも、憲章さんもいたはず。
武田:いるんだけど、彼らはSFファンとして参加してて、「特撮を、こう、何かするぞー!」みたいな感じではなかったかな。で、僕らがSF大会やるに当たって考えたのは、まだまだコピーとかワープロなんかなかった時代に、手書きで1枚の紙に企画書を書いて、我々がやる『DAICONIII』というものは、こういうものだという形を描いたんです。とにかく日本全国からSFファンがくるんだから、どういう風なものを持って帰ってもらうのかを考えた。
――なるほど。
武田:スタッフに関して僕が思っていたのは、何十年経っても「ああ、DAICONのスタッフやってよかったな!」と、参加したことを良かったと思えるようなものにするぞ、という意識はありましたね。僕は本当にそう思ってました。でも翌年のSF大会は名古屋で開催されるのが決まってたから、79年には結局「第4回SFショウ」ってやつをやったんです。まだ当時はSFファンは、アニメとか、特撮とか、映像みたいなものをメインに持ってくることに対して、批判的やった。SF大会自体もいろんな組織があって、それが連携してやってることはぜんぜん知らなかったんです、教えてくれる先輩もいなくって。もう一つの情熱としては、当時、僕らが滅茶苦茶するっていうことで、大阪のSFファンの先輩方がですね、武田や岡田には近づくなと(笑)。
――そんな(笑)。
武田:ホンマに言われたんですよ。あんな連中に近づいたら、SFファンでいれなくなるって、みんな逃げたんですよ。うちの大学のSF研の先輩も、手伝ってくれたのは2人だけです。だから、逆に言うとね、そういう風に言われると、燃えるわけですよ(笑)。「お前らフザけんな!絶対後々に『いやぁ武田君、頑張ってるね!』って、あいつらが言うてくるようにするぞ!」っていうのが、僕の心の中にありましたね。
――ちなみにその願望は成就したんですか?
武田:ちゃんとそう言われました(笑)。かなり前の段階で。だって、彼らは先輩って言うたかて、結局大学の生徒ですから、10も20も離れてないわけですよ。一番離れている人でも、6歳ぐらい。『DAICONIII』の最初にオープニングでアニメが始まった時に、すごい喝采があったんですけど、そのときに「してやったり」なところありましたね。で、続く『DAICONIV』のときは、ある程度こなれたところで、オープニングアニメも前よりシステム的に作られたし。大会自体も、『DAICONIII』の時の反省点を活かして、もっとこうしようああしようって膝突き合わせて、毎晩みんなと話しましたね。
――どういう話をされたんですか?
武田:(SF大会に)朝参加者が来ますよね。来た時にどういう挨拶をするのが、参加者にとって一番気持ちがいいのか。そういうことからいろいろ言い合いましたね。
神村:なんか、コンプレックスと言うか、ルサンチマンみたいなものが重なってるわけですよ。自分たちはこのSFっていうジャンルを、物凄く面白くて高尚だと思ってる。けれども、世の中的にはぜんぜん見向きもされないわけです。けれども僕らには大事にしたいものなんです。そういう感情があったし、加えて狭いSF好きの中でも、古手は濃度が濃いグループであるからこそ、場所取りは厳しいわけですよ。
――SFファンの中の場所取りですか。
神村:若い連中に「なにおまえら、分かってないクセに言ってんの?」みたいな、場所を空けてくれない先輩方っていうのはいるわけで。そこで大暴れしたのが、武田・岡田を先頭にした人たちですよ。僕と武田さんはちょうど5歳違いなんですけど。5歳違ってたら、普通だったら、大学では会わないですよね(笑)。
――何で出会えたんですか?
武田:僕が人一倍、大学にたくさんいてるからです(笑)。
神村:武田さんに会ったのは、武田さんが4回目の2年生のときですから(笑)。
武田:僕は、大学は1年、2年、2年、2年、2年、2年、と2年のプロですから。結局ずっとSF大会とか、そんなんばっかやってましたからこうなりました(笑)。
神村:なので僕は、後で混ぜてもらったクチなんですけれども、なんか面白いことやってるなというのは、すごくあったんです。最近の大学生を見ると、真面目に単位取ってるなと思うけど、僕らの時は卒業さえできれば御の字だみたいなところあったから(笑)。どうやって講義に出んと単位取るかとかにしか、頭を使わんわけです。だから、たまたま面白いものを見つけられたものだから、余ってる体力をそこに突っ込むんですよ。
――体力も時間的リソースも割けるわけですね。
神村:それにSF大会に行くとやることがたくさんあったんです。例えば、文章を書くのがうまいやつがいたら、機関誌に原稿を今すぐ書けとか、字がきれいなやつがいたらガリを切れとか。何もできへんかったら、ここで封筒詰めしろとかね。そういう人勧戦術的なことに関しては、みんな潜在的な能力が高いんですよ、体力もあるし。いろんなことがやれるから面白くなる、っていういい感じの車輪が回ってる感じがあったんです。
■『アオイホノオ』で描かれた山賀博之のエピソードはモロに史実
――神村さんは、どのタイミングで入られたんですか?
神村靖宏氏
神村:『DAICONIII』が8月だったんですけど、4月に大阪に出てきて。わりとすぐにSF大会の会議に引っ張り出されたんです。で、会議の席で太った変な二人組が漫才みたいな喋りをやってるんで、こんな面白い話を聞けるんだったら、来週も来るか、みたいな感じで(笑)。
――ちなみに、『DAICONIII』のオープニングアニメって、どれくらいの期間で作られてるんですか?
武田:『DAICONIIIオープニングアニメ』は、期間でいくと、2カ月ぐらいかな?
――えっ、そんな短い時間で作られたんですか!?
武田:作るって決めて、夏前から動き出して、スタッフ集めないかんってなって、冬ぐらいにですね、当時スタッフをしていた仲間の紹介で、山賀(博之)と庵野(秀明)に会うんですよ。京都にある「ソラリス」という伝説のSF喫茶店でしたね。そこで庵野君が「こんな感じですか」って描いたのが、ちょうどパワードスーツが走ってる姿です。それをちっちゃいメモ帳に描いたんですよ。そのとき岡田君はいなかったんだけど、澤村(武伺)君というのがいて。それを見て「これや!」となったんですよ。僕、そのとき初めて目の前に天才がいるって思ったんです。それが庵野君やったんですよ。
――やはり庵野さんは凄かったんですね。
武田:15分ぐらいで描くんですよ、それをパラパラっとすると、走ってる。愕然としましたね。そこにSFで言うところのセンス・オブ・ワンダーがつまってたわけですよ。で、「これや!」となってるときに山賀も一緒にいたんですけど、後ろで「ドンガラガッシャーン!」って。この辺は『アオイホノオ』にも描いてあるし、ドラマにも描かれてたけど。
宮脇:あれは、テレビの通りですから(笑)。
武田:あれはモロに史実です。山賀が倒れて、「大丈夫か!救急車呼ぶか!」って聞いたら、「朝下宿出たときから、しゃっくりが止まらなくって、ずっと息を止めてた、そうしたら目の前が暗くなって倒れた」と。「ほんまもんのバカがいる」と思いましたよ(笑)。
――山賀さんのあれ、史実なんですね……(笑)。
武田:ちなみに山賀っていうのは、今でもそんな感じですよ(笑)。その後に赤井(孝美)くんだのと出会って、作るのが決まる。ところがですね、誰もセルアニメを作ったことがないんですよ。
神村:庵野さんは高校生の時に短いセルアニメを作っていましたけれど、作品と呼べる長さのものではないですし。
武田:庵野君自分で作ってたの、計算用紙に描いたペーパーアニメなんですよ。それでも岡田君たちと「セルでやろう」ってことになって。伝手をたどってセル塗りの経験がある人を見つけて手伝ってもらいました。
――初セルアニメだったんですね、『DAICONIIIオープニングアニメ』って。
神村:僕の記憶では、5月にはもう、岡田さんがアニメを作る話はしてたんですよ。僕は、シロウトがアニメーションなんて作れるわけないと思ってたから、「できたら面白いけどな」なんて、話半分どころか、話5分の1ぐらいで聞いてたんですけど(笑)。
――ははは!(笑)
神村:最初は「パワードスーツの大集団が大阪城にがーっと降下してきて~」みたいなことを武田さんと岡田さんが喋っているのを聞いてました。でも夏になると、招集がかかるんですよ。セルを塗りに来いって。僕は2回ぐらいしか行ってないんですけど、そのとき庵野さんや赤井さんが奥の方にいて、「あいつらが仕事せえへんから、お前らに回す仕事がないんだ」とかいう話を聞いて(笑)。セル塗りの練習だけして帰った記憶がありますね。
――神村さんが本格参戦したのは、『DAICONIV』からってことですかね。
神村:『DAICONIII』の終わったところからですね。僕の視点から話をすると、田舎から出てくるまでは、アニメを作るとか作家をどうこうするとか、そんなのは夢みたいな話だと思ってました。それが大阪に出て来たら、実際に人を集めてイベントをやろう、アニメを作ろうみたいな人たちがいて、田舎者はびっくりなわけです。
――そうですよね。
神村:面白いと思って、ちょっとずつ参加して。『DAICONIII』のとき、手伝いますとか言って、あまり手伝えなかったオープニングアニメができているのを見て、ある意味ショックと言うか、「すごいなぁ」と思ったんです。せっかく面白い事をやってる場所にいたのに、俺あんまりちゃんとやらんかったな、みたいなところがあったので、DAICONIIIが終わってからスイッチが入たんです。
筒井康隆が自分の作品を買いに来た!
宮脇:『DAICONIII』やったのって、81年でしょ。ガレージキットが商品として出たのが83年の秋からですから、海洋堂はまだまだ手作り段階やったんです。うちの近所に、川口(哲也)さんという、ガレージキットの開祖みたいな人がいて。歯科技工士の人なんですけど、手作りでタロス(レイ・ハリーハウゼンの映画『アルゴ探検隊の大冒険』に登場する青銅巨人)とか、モスラの幼虫とかを個人で販売している人がいて。海洋堂はスロットレーシングのボディを作って、プラ板をヒートプレスしたバキュームキットを売ったりし始めた頃だったんですよ。
――本当に黎明期ですね。
宮脇:当時は版権なんか取ることもなく、みんなお店の中でファン活動みたいにしてましたね。当時『スターログ』とか『宇宙船』という雑誌がありまして、その雑誌か何かで知った岡田斗司夫が、今でも忘れませんけど、いきなり『最強ロボ ダイオージャ』(サンライズ制作のロボットアニメ、1981年放送)の歌を歌いながら店に入ってきたんです。「けったいなデブが来たぞ!」と思ったら「こんにちは!実は私、かくかくしかじか、岡田斗司夫と言いまして、こんど夏に開かれるSF大会のものであります。ついては海洋堂と……」とまくしたててきた(笑)。
――岡田さんは何の用事で来たんですか?(笑)
宮脇:こんな素晴らしいDAICONIIIというイベントがあるので、川口さんに私を弟子入りさせてください、ということでした。だから川口さんを紹介してですね、シリコンゴムとかレジンを使う複製の仕方を習ったんです。そしたらうちにちょうど手ごろな、30センチぐらいのディスカバリー号(編集部注:映画『2001年宇宙の旅』に登場する宇宙船)の手作りした展示品の模型があってですね。これを目玉にしたいから型取りさせてくださいと言ってきた。
――確かにSF大会にはもってこいの模型ですね。
宮脇:だから貸してあげたんです。で、結局最終的にはバラバラに壊して返しやがったから、「こいつめ!」というのがありましたね(笑)。
――壊して返してくるのとんでもないですね(笑)。
宮脇:ほんまに(笑)。川口さんは作ってるものが、タロスとか、ケムール人とか、モスラとかを作っておったので、最終的にはそれをディーラーズルームに売りに行きはったんです。僕も一緒に川口さんのものだけ売りに行ってですね。その時初めて、みんなオープニングが始まるから言うて観に行ったら、『DAICONIII』のオープニングアニメが流れてて、ひっくり返りまして。とんでもないもん作りはんねんなぁと思いましたね。僕はその後しばらく会場の中を回って帰ったんですけど、川口さんはずっと売り続けてて。何か、自分のタロスを筒井康隆(小説家)が買ってくれたと興奮していましたね。
――まさかの筒井康隆が自分の作品を買いに来た!
宮脇:僕らにとって、星新一、筒井、小松(左京)というのは、中学生のころに全部読んで、人生狂わされた人たちですわ。「えーっ、すごいっすねぇ!そんな世界があるんじゃ……」と。だからSF大会っていうのは、僕らにとっては、天上人がおるような世界だったんです。賢い人たちのたまり場だった。僕らはテレビとアニメぐらいしか知らなかったけど、そこにいる人達と知り合うことで『ジェイムスン教授シリーズ』は読まなあかんな、『宇宙英雄ペリー・ローダン』も負けずに読まなあかん。『ソラリスの陽のもとに』も読まなあかん! とかね。川口さんは当時にしては珍しく、家に『緯度0大作戦』だろうが『サンダ対ガイラ』だろうが『ウルトラQ』とか全部ビデオで持ってはったんで、僕らは足しげく川口さんのところへ遊びに行って、ビデオとか見せてもらったりしてましたね。基本的には海洋堂は模型屋、もの作り屋さんだから、そういうところで関わったのが『DAICONIII』でした。岡田斗司夫の魔手に絡まれたようなものです(笑)。
――センムが武田さんと神村さんとお話ししたのは、岡田さん経由なんですか。
宮脇:そうです。『DAICONIV』までは、ほとんど縁はなくですね。僕たちは造形ばっかりやったから、ただの模型屋さんやったんですけど。また『DAICONIV』の季節がやってきてですね、あのときはゼネプロ(ゼネラルプロダクツ)は何かやったっけ?
神村:『DAICONIII』が面白かったのは、ディーラーズルームって呼んでた同人誌などの物販エリアを充実させてたところでもあるんですよ。同人誌だけでなく造形もあった。あれはやっぱり岡田さんが海外のイベントを見てきたりした経験からだと思うんですけど、自分らでグッズを作って売るんだ、っていうのにすごくこだわってた。それの一環として、海洋堂に行って、ノウハウを盗んできたのもあるんです。パワードスーツのキットを作って売るっていうのを聞いて、僕は素人がプラモデルなんか作れるわけないやんとか思ってたんですけどね。夢の無い田舎者だったんで(笑)。
宮脇:『DAICONIII』では、パワードスーツのレジンキットは売られましたよね。
武田:売ってましたね。
神村:まだ制作もノウハウがない時代でしたね。フェルトのぬいぐるみとかマスコットとか手芸品的なものをたくさん作って売ってました。女の子のスタッフをおおぜい集めて、お針子さんさせてね。
武田:吾妻ひでお(漫画家)さんのナハハとか、のた魚とかね。
神村:その辺が多分、手ごたえがあったから、ゼネプロ設立に向かうわけですね。
宮脇:ゼネプロは何年にできたんですか?
神村:82年の2月ですね。
――『DAICONIV』の前なんですね。
神村:前です。『DAICONIII』が81年の8月で、81年の秋口には、もうゼネプロの準備にかかってるんですよ。僕ら呼ばれて、プラキャストの流し込みのアルバイトを仰せつかってた(笑)。
武田:だから、『DAICONIII』が終わって、ゼネプロが始まる前に、僕、岡田君に連れられて、当時海洋堂さんに行ってるんですよ。
■海洋堂とゼネプロの関係性
――海洋堂さんとは、今はものすごい濃いお付き合いをしているわけじゃないですか。そういう風にお話をされるタイミングになったのは、いつぐらいなんですか。
宮脇:ゼネプロができたときからですね。すごい濃い、敵対するお付き合いしてましたよ(笑)。ワンフェスやるまでは、罵り合いとかしてましたから。
――それは……問題点は岡田さんだったんですかね?
宮脇:いやいや。存在自身がですよね。
武田:あれですよ、罵り合うっていうか、直接「なんやお前!」っていうのはまったくないです。ひたすら陰口(笑)。
宮脇:陰口を言い合うという(笑)。
――わかるんですけど、オタク的な感じっていうか、なんというか(笑)。
神村:当時、ネットがまだないですから。それを媒介する輩がおるんです。両方に顔出してる人がわりと大勢いて。「こんなこと言ってました、悪口言ってました」って両方に行ってやるっていう(笑)。
武田:歩くTwitterみたいなやつが何人もいるわけですよ。
――フランクに話せるようになったタイミングはいつぐらいなんですか?
武田:当時も表面上は普通に話をしていたわけです。海洋堂さんとある種、一線を超えたのは、ワンフェスをはじめてからじゃないかな。
宮脇:84年の暮れですよね。ワンフェスのプレイベントを桃谷のゼネプロ店舗でやる前に、岡田さんと武田さんが海洋堂に来て、うちの目の前にあったファミレスで、僕のお父ちゃん、館長と、それから私、岡田・武田と4人並んで、「これまではいろいろと罵り合いをして、陰口を叩いていたが、これからは仲良くやりましょう」と。『宇宙船』とか東京の連中らが僕らを焚きつけて、戦わせているから、このままじゃイカンと。イベントをやるためには、仲良くせねばいかんのですよ! という感じの抱負をお二人から言われて、僕らもそれは「そうだと思います」ということで。次の年の夏から東京で第1回目のワンフェスが始まった。
そのときから僕らはずっと、ゼネプロワンフェスに関しては、一番頑張るディーラーではありたかったんです。一番売りたいし、テーブル並べを手伝ったり、掃除を手伝ったり、一番一生懸命やるディーラーでありたいと思っていた。そうしたらワンフェス自体を海洋堂に譲ってくれるような話になったんです。
――『DAICONIV』は83年なので、和解してワンフェスが立ち上がる前のタイミングです。その時はセンムは『DAICONIV』のアニメやイベント自体を見られて、すごいと思われたんですか?
宮脇:『DAICONIV』の時にはゼネプロという存在がもうあったので、ディーラーズルームに行って、岡田・武田、2人に簡単な会釈だけはしたが、「こいつら敵や」という感じはありましたね。でも『DAICONIV』のオープニングアニメ見て度肝ぬかされて、「すげえもん作りやがったなこいつら!」ってのは正直ありましたわ。これはもう圧倒的に力が違うわ、すごいもん作りはるわと思ったんで、そこに関しては「すいません、負けましたわ」という気持ちにはなってました。
神村:僕、『DAICONIV』の準備段階のときに、海洋堂さんに行ってるんですよ。当時の実行委員長の西垣(寿彦)さんと二人して行って、何か企画要請みたいなことをした記憶があるんです。
宮脇:当時は武田さん、海洋堂を「ケッ!」っと思ってはったでしょ。
武田:そんなことないと思うけど(笑)。『DAICONIII』は僕が実行委員長しましたけど、『DAICONIV』は、西垣君がやってたんですよ。その時は神村君もメインスタッフの一人ですから、みんなで動こうという方針やった。西垣・神村コンビで行ったっていうのは、恐らく、やっぱり実行委員長とかメインスタッフとして顔合わせという形で挨拶に行ったっていうのもあると思います。あえて武田・岡田が行くよりは「西垣・神村行ってこい」みたいな感じやったと思いますね。
宮脇:あの当時の岡田斗司夫の怪しさたるや、コイツ絶対嘘つきやんというのがありましたな(笑)。武田さんはわりとほら、真面目な「この人、ちゃんとした人やわ」というのがあったんだが、岡田斗司夫はなー!って感じでしたわ。本当にラスプーチンみたいな感じのキャラクターだったので。何かにじみ出る、すごい怪しいオーラ出してましたよね。
武田:現在に至ってもそうですね(笑)。
次ページ絵では実際の運営や映画製作、そしてレジェント三人が今のオタクに伝えたいことなども!
■200人のボランティアの集め方
――改めて『DAICONIV』では、武田さんと神村さんは、どういった役割をされていたんですか?
神村:『DAICONIV』のときには、ゼネプロがもう出来上がってきてましたから、武田さん、岡田さんは、本業はそれなりに忙しいんですよ。『DAICONIII』が81年の8月に終わり、その年の秋口からゼネプロの準備にかかって、年明けにゼネプロをオープンしてるわけですから。そのゼネプロのオープンあたりのところから『DAICONIV』をやろうって話が本格的になってくる。
武田:オープニングアニメ自体は、何やかんやで2~3か月で作ったっけ?
神村:いや、準備から行くともうちょいかかってますね。4月には冒頭の部分の作画にとりかかってますから。
――オープニングアニメを作るのは、既定路線だったんですね。
神村:そうです。やっぱり『DAICONIII』の成功体験が一番大きいのはオープニングアニメだから、それをもう一回やるぞっていうのは当たり前のようにあったんです。庵野・赤井・山賀もいるし。で、82年の春ぐらいから、1年以上先のスタッフ集めを始めるわけですよ。その時スタッフが200人要るっていう計算だったんです。『DAICONIII』が参加者が1500人ぐらい。で、『DAICONIV』では5000人集めようって話になって。
――実際はどれくらい参加者がいたんですか?
神村:4000人集まりましたね。でもそうなると、規模を計算するとどう考えてもスタッフ200人要るぞって計算が出てきた。あれ、結構正しい計算でしたよね。
武田:そうやったと思うよ。なかなか正確なシミュレーションやったね。
神村:でも、200人集めるのってハンパじゃないし、それ以上に、200人に言うことを聞かせるっていうことが、至難の業だと思ったわけです。そこで「じゃあ映画を作ろう」って言いだして。「映画作ってるぞ!」というのを面白いと思った人を集められるぞと。そいつらに仕事を与えられて、訓練ができ、かつ指揮系統も作れる。で、出来上がった作品は宣伝に使えるじゃないかと。一石三鳥も四鳥も狙って、映画を作りはじめるわけです。それが、結果、すごくうまくいきました。
――集まってくるスタッフっていうのは、ボランティア?
神村:全員ボランティアです。
武田:タイミングが良かったのは、ちょうど僕が大学のSF研に入って、先輩が「関西SF研究会連盟」という組織を作ると言い出したんです。当時、東京の本部の「関大連」というのがあって。関西でも「関S連」を作るぞって先輩が動いて、先輩に「武田、お前も手伝え」って言われて、近畿圏の大学を回ってですね、「こういうのやるから協力してくれ」っていう話をしたんですよ。
神村:8大学ありましたね。
武田:そう、8つの大学のSF研のみんなに、ちょっと協力をしてくれって言って、最初の人数はそこで集めてるんです。
神村:『DAICONIII』はそうでしたね。
武田:『DAICONIV』のときは、それとは別に、当時いろんな雑誌で募集とかしましたね。まだインターネットとかないですから、とにかくアニメ雑誌、当時は『アニメック』かな。『SFマガジン』とかにも募集を出して。それと『DAICONIV』のときには、ゼネプロという、ある種固定された場所がありますから、そこにみんな連絡してくるんですよ。大学生だけじゃなくて、社会人だったりとか、誰かが他に友達連れてきたりとか、後輩連れてきたりだとか。
――場所ができたのは大きかったんですね。
■悪魔のささやき「実写映画を撮りましょう」
武田:そういう人数集めたところに、スタッフ育成も兼ねて映画を作るんですけど、確か赤井君か庵野君かどっちかが僕の耳元で悪魔のささやきをしたんですよ。「スタッフを育てるなら、実写映画撮るのがいいですよ」って(笑)。「映画はいろんな段取りがあるから、スタッフ使えるし、何よりスタッフの訓練になりますよ」って。「実写映画がいいですよ!」って。「なるほど、そうか!」って僕はそれを真に受けて、いくつもの実写映画の企画を作って、とりあえずやるんです。
――でも映画を作るには費用もかかると思いますが。
武田:それができた一つには、『DAICONIII』のオープニングアニメを売ったのがあります。『DAICONIII』自体は赤字やったけど、オープニングアニメのビデオとフィルムを販売したことで資金があったんですよ。それで大会の準備も、次のアニメの製作費も、初動資金があったんです。で、82年の東京のSF大会に一部完成したフィルムを持って、我々は乗り込むわけです。
宮脇:一番最初、何ができたんですか?
武田:『愛國戰隊大日本』・『快傑のうてんき』、その2つだけかな。で、『大日本』を上映したらですね、あれは反ロシアみたいな話だから揉めるんですけど、それはまた別の話になります(笑)。
――じゃあ武田さんと神村さんは、プロデューサーであったりとか製作で動いていたイメージなんですね。
神村:今考えると、僕は制作デスクかラインプロデューサーみたいな立ち位置ですね。
武田:僕はSF大会にとっては、いわゆる企画者であって、プロデューサー。営業に関して言えば基本プロデューサーであり、出展者でしたね。『帰ってきたウルトラマン』作る時に、基地のシーンあるじゃないですか。
――はい。
武田:あのシーンというのは、実は僕の実家のすぐ近所に、友達の電気工事屋があるんですけど。そこのビルの2階か3階に倉庫があって。そこを「貸してくれ」って頼んで、セットを組んだんです。だから、今終わった後にセットをガーッって取ったら、天井とかバリバリ剥がれてですね、「あーっ!」ってなったの覚えてますね。今でも行くと剥がれた跡が残ってますからね。
神村:あはは(笑)。
武田:そういう場所を手配したりもしましたね。あとは備品とか、お金を他の人に頼んで管理してもらったりとか様々です。
――『愛国戦隊大日本』や『快傑のーてんき』、それに『八岐之大蛇の逆襲』に『帰ってきたウルトラマン』。いま観ても面白い映像作品ですよね。
武田:ありがとうございます。
――今回のワンダーフェスティバル、具体的にどういうものを展示するんでしょうか?
神村:『DAICONIV』の原画・セル画は、ほとんど現存してるんですよ。『DAICONIII』のセルや動画もけっこうあります。だから、生原画・生セル画、結構な量の資料を展示できるかなと思ってます。
――それって、どなたが保存してたんですか?
神村:撮影が終わった時から、ゼネプロの倉庫にぶち込んであったんですね。一部は当時のスタッフが持ち帰って保管していたのが戻ってきたり、変遷はあるんですけど。
武田:そういうものはなるだけ残そうってことで、無理やり残してた。
宮脇:それはゼネプロの思想として聞いてますね。アーカイブを昔からずっと捨てずに残すっていう。
神村:アーカイブって言うと、かっこいいですけどね(笑)。
武田:残しておこう、っていうのはずっとありましたね。
神村:オタクはモノを捨てられませんから(笑)。
宮脇:オタク心が強いと残しますよね。哀しい性ですかね?
武田:まぁ、哀しいとも言えるし、結果オーライっていうのはありますね。
――今のお話を聞いて、作品を作るならばアーカイブは何かしら残していかなきゃいけないんだなって本当に思います。
神村:そうですね。先日『帰ってきたウルトラマン』はアマプラで2Kのリマスター版が見られるようになりましたが、それは、最近になってカラーとATAC(NPO法人アニメ特撮アーカイブ機構)の協力でオリジナルの8ミリフィルムを保全できたことが大きいです。DAICON FILMの全作品がリカバーできそうで、今もデジタルリマスター作業を継続しています。なかなか時間はかかってるんですけれども、いずれ何らかの方法で公開できればいいなと準備は始めています。
■ワンフェスで『のーてんき』のサイン会をやりたい
――今回の展示では、撮影のときに使ったプロップだったり、アイテムみたいなものも出るんでしょうか?
神村:出します。
宮脇:この前話したけど、『のーてんき』のサイン会とかやりたいですね。それこそアクリルスタンドでも作って、本人がサインするというのはやらないかんよね。『のーてんき』のスーツ、オリジナルがまだあるんですよね。
武田:ありますよ、残ってます。正確に言うと2代目のオリジナルスーツですけどね。
神村:『のーてんき2』で使ったやつね。
武田:だから今度取りに行かなきゃいけないんですよ(笑)。
神村:サイン会やるかどうか、ちょっと考えましょう。ほら、コミコンみたいに、5,000円の寄付金を募ってサインをするとか(笑)。 
一同:それはいいね!(笑)
神村:だって、ブロマイドに武田康廣が直筆で『のーてんき』参上って書いてたら、欲しいでしょ?5,000円払っても買うでしょ(笑)?
――正直、世代としては僕は欲しいですね(笑)。
武田:でも余ったらめっちゃ哀しいよね(笑)。
宮脇:そういうコミコン的な要素は、SF大会としてはやらんとね(笑)。
武田:のーてんきスーツも着るし、サイン会もぜんぜんやぶさかではございませんので(笑)。なんせ、僕はDAICONに関しては絵を描いてるわけでもないし、なんでもないんだけど、『のーてんき』の本人です、っていうやつは言える。
神村:一番強いですよ。『スター・ウォーズ』で言ったら、ルーク・スカイウォーカーですからね(笑)。
武田:うまいこと言うなあ。
神村:脱線しちゃうな(笑)。 ワンフェスの展示のPRをしなきゃいけないんですよ。DAICON FILM全作品の何らかの資料が展示されますので。具体的に言うと、『愛国戦隊大日本』のミンスク仮面などはわりといい状態で残ってます。
――そうなんですか!?
神村:だいぶ直さないといけないですけど。あと、ジャボチンスキー将軍の衣装もありますし、『帰ってきたウルトラマン』のMAT隊員の衣装もある。
――素朴な疑問なんですけど、どうやって保存してるんですか?
神村:倉庫にぜんぶ突っ込んであったんです。会社が引っ越しするたびに、その荷物も動かして。まあ扱いは良くなかったですし、時間も経ってるので、だいぶ状況は面白くなってますけど(笑)。
――セル画とかそういうのは?
神村:セル画に関して言うと、ほとんど出し入れをしていないんで、あまり外気に晒されてないんですよ。立派な箱には入れてないですよ。でも、暗い所であるがゆえに、温度変化も少なかったのかもしれないですね。セルはわりといい状態です。
武田:結果オーライ的に、良かったということですね。『八岐之大蛇の逆襲』は何がある?
神村:宇宙人とか、オロチの首とか。あとヘリコプターとか戦車とかかな。今回は、SF大会からDAICON FILM、ゼネプロ、ワンフェスに至る流れっていうもの見えるような展示にしたいなぁとは思ってます。
■ワンフェスに来る人達に、歴史を知ってもらいたい
――DAICONって、インディーズで面白いもの作るという企画の走りなんじゃないかなと思ってるんです。素人が好きでやってるものが、プロが作ってるものとぜんぜん変わりないレベルで作られてる。そのキャラクターである『のーてんき』がサイン会するかもっていうのもとんでもない話ですよ(笑)。
宮脇:今回ぜったい伝えて欲しいのは、今言われたように、アマチュアがプロ以上のものを作ったってこと。今第一線でやってる人たちの原点と言うか、スタートになったのが、言うたらこの『DAICONIII』、『DAICONIV』のオープニングアニメと、実写映像だと思うんです。僕らが作ったガレージキットだって、それこそバンダイとかアオシマとか、タカラやらトミーやらより、僕らがええもの作るんじゃい! っていう気持ちで作られていたし。今のワンフェスに来ている人たちは、こういう源流と言うか、歴史を知らんといかんと思うんですわ。
宮脇修一氏
――オリジンですからね、同人活動の。
宮脇:お前らもっと心を清めて、しっかりいいものを作れ! っていうのが、ゼネプロが始めたワンフェスの原点ですから。今回の展示を通じて、みんな少しでも心に刻んでもらいたいというのが主催者の気持ちなので、そこは一番伝えて欲しいですね。
――前回(2023年冬)のワンフェスに参加させてもらって、まだまだオタクって元気だなと思ったんです。今オタクって言葉が微妙になってきてるんで、「マニア」の方が言葉が合うかもしれないですけど。その若いマニアの人たちに対して、なんか一言いただけたらなと思ったんですが。
神村:若者に? 俺、自分がまだ若手の気分なんですけど(笑)。
武田:まぁでも、そうなりますよね。なんかこういうことやってると、気分は若いつもりですから。たぶんここにいる人たちは皆さんそうやと思うんやけど。「これからは若い者に道を譲って……」みたいな気持ちは無いと思うんですよ。
宮脇:まったく無いね!(笑)
武田:でも僕が若い者に対して言えるのは、すごいことやってるやつは「すげえなお前!」って歳は関係なく感心するけど、迷ってるやつに対しては「邪魔だ、どけ!」って気持ちになるってことかな。10代だろうが20代だろうが30代だろうが、ガッ!とやってる人間には、純粋に「すげえな」と思う。その次に「これには負けてられんな」って気持ちになるんですよ。これは死ぬまで変わらないんじゃないかなって気はしてるんですけどね。
――歳は関係なくリスペクトも出来るし、ライバルだと思える。
武田:よく言い古された言葉だけど、死ぬときは前のめりになって死ぬ、みたいな。そういう感じがいいですね。
――オタクとして前のめりに死ぬんですね(笑)。
武田:そうそう!
神村:オタクっていう言葉自体が、僕ら世代を表現する言葉が無かったから産まれた言葉ですから。僕らのことを指さして言われていた頃と現在では、受け取られ方も違いますしね。
宮脇:そもそもオタクっていうのは、SFの中でも蔑視と言うか。オタクの中の世界で、言うたら嫌なアカンやつのことを「あいつ、オタクやから」っていうのがありましたね。オタクの中の差別用語が「オタク」って言葉だった。だから言われたら、ムカッときますよ(笑)。
武田:でも、ずいぶん前に逆転するわけですよ。オタクって言葉が、海外のファンからしてみたら、「僕もオタクです!」っていうね。「オタク=好きな世界の中にどっぷり浸かってる人」っていうことになった。そうだなぁ……何か今の若い人に関して言うなら、とにかく「オタクとしての誇りを持て」かな。オタクなんて、かっこよくないんだよ。かっこわるいんだよ。だって好きなものにしがみついてるんだから。それをね、大事にしなさいよっていうところかな。
――僕も、オタクの誇りを持って生きてきたいと思いました(笑)。
宮脇:一応、お二人はオタクなわけですね。
神村:じゃなかったら、ここにはいないですよね(笑)。
武田:あはは!(笑) あと一つだけ言うと、今度のワンフェスの一週間後、8月5~6日に栃木でSF大会をやりますので。興味がある人は、行くのがいいかもしれないですね。参加費は高いんですけど(笑)。
宮脇:まぁでも、ワンフェスも、まだまだ僕ら説教臭いジジイがやってますから。僕らはまだこの座は譲れへんぞ、という気持ちではあります。
武田:その通りですね。
宮脇:それこそ松本零士が亡くなったときも、もっとすごい出来事になれや!とか思いましたからね。そういった意味では、なんとかやれるうちに色々と爪痕は残しておきたいので。まだまだ僕らジタバタしますよ!
取材・文:加東岳史・林信行

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