バリトン黒田博に聴く東京二期会『パ
ルジファル』~70周年記念公演に大役
アムフォルタス役を歌う

2022年7月13日(水)~17日(日)東京二期会による『パルジファル』上演において、大役アムフォルタス役を歌うバリトン歌手 黒田博。いまや日本を代表するオペラ界の重鎮的な存在だ。前回2012年の上演に引き続き、二期会創立70周年記念公演において再びこの役に挑む心境や役柄についての思いを聴いた。
アムフォルタスという役を歌う快感
――今回の『パルジファル』上演においてアムフォルタス役を歌われますが、意気込みをお聞かせください。
2012年に上演された東京二期会による『パルジファル』公演でもアムフォルタス役を歌わせて頂きましたし、他のワーグナー作品の上演においてもいくつかの役で出演させて頂いていますが、個人的には若い頃、特に学生時代はそれほどワーグナーが好きではありませんでした。
「どれだけ時間をかけて同じことをずっと言い続けているんだ」というような思いがつねにあったんですね。ところが、実際プロダクションに参加し、演じる立場になって見ると「これだけの時間と、これだけの音楽が必要なんだ」ということが実感として分かるようになってきました。
アムフォルタスは魔の誘惑に負け、本来なら立場的に守りぬいてゆかなくてはならない ”聖槍” をも奪われ、自らも致命的な “傷” を負います。そして、傷を負った肉体的な痛みよりも、自分が犯した罪に対しての精神的な痛みのほうがどれほど辛いものか――という苦しみを延々と歌いあげるわけですが、それを歌うこと自体、マゾヒズムのようにも思えてきます。心が捻じ曲げられてしまうような内面の痛みを自らの歌で表現するその苦痛が、快感にすら思えてくるのです。そのような生き様こそがアムフォルタスという役のすべてであり、それを再び歌い、演じられるのを嬉しく思っています。
――二期会は今年創立70周年という記念の年を迎えるわけですが、『パルジファル』を上演する意義というものについてどのように思われますか?
二期会は、1952年の創立当初からモーツァルト作品とともに、ワーグナーをはじめとするドイツオペラ作品を中心に制作・上演するという理念を掲げてきました。創設者であった中山悌一先生は、当初からワーグナーのニーベルングの指輪全作(全4作品)を完結上演させるということに大変熱意をもって取り組んでいらっしゃいました。
そのような歴史からも、70周年記念の公演の一環としてワーグナー最後の作品である『パルジファル』が上演されるのは、二期会の揺るぎない理念と精神が今なお紡ぎ継がれているということの表れと感じています。
>(NEXT)アムフォルタスという役の存在意義
アムフォルタスという役の存在意義
――冒頭にもお話頂きましたが、アムフォルタスはストーリー展開の中で一貫して、すべての苦悩を一人で背負い込む、そのような存在として描かれています。
ケガも時間が経てばじきに回復する――いわゆる「日にち薬」という表現がありますが、そう言われ続けてずっと痛みや苦しみが蓄積し続けるのがアムフォルタスの存在です。演じる側としては大変やりがいがあるのですが、アムフォルタス自身によって歌われるように「私の血を分けることで、すべての人々が喜びを感じる」という聖杯を護る城の主としての思いの裏には、本人としては苦しくて仕方がない……究極の自己犠牲的な思いが全面的に流れています。
――第三幕では、その悶え続ける苦しみがさらに顕著に表現されるわけですね。
世の中には父親と比較される息子の辛さというのはどこにでもあると思うのですが、アムフォルタスの場合は、先王であった父のティトゥレルが、聖人としてつねに民から愛され、誰からも賛美される存在であった。それに対して(アムフォルタスは)自らが犯した罪の愚かさ、そして、存在価値においてのあまりの差に打ちひしがれ、慟哭する姿があるわけです。もし、あの時点でパルジファルという(アムフォルタスを)救済してくれる存在がいなければ、たとえ幾年の時を経たとしてもその苦しみから一生解放されることはない――そのような運命に苛まれている人間の象徴にも思えます。
一方で、パルジファルという若者は、第一幕から第三幕までの間に、経年や経験、試練、同情というものによって驚くほどに成長を遂げてゆきます。当初は愚者と言われ、透明のような存在感しかない若者に驚くほどの多彩な要素が備わり、ついに “英雄” とまで讃えられる存在になる。ところが、アムフォルタスは血まみれで、ヘドロのように凝り固まった精神状態におり、パルジファルとは対照的に時が止まったような存在として描かれているかのようです。
――パルジファルの救済によって救われる――その際のアムフォルタスの内面の変化というのをどのように表現したいと考えていますか。
残念ながら、まだその点まで演技がついていないので、亞門さんが、その点をどのように捉えているか次第ですが、ただ、「ほっとする」とか、そのようなありきたりの言葉では表現できないものだというのは確かです。パルジファルがアムフォルタスを救済したのち、フィナーレに至るまでずっと歌い紡ぐわけですが、それまで毒に侵されていたかのようなドロドロとした精神状態がすべて浄化されてゆく、そのプロセスを見事なまでにワーグナーが音楽で描き出しています。
その音楽に対して、例えば、前回の演出では、最後のシーンでアムフォルタスがクリングゾルという(アムフォルタスを)苦しみへと誘った魔の存在である張本人と兄弟のように同格に描かれ、その二人が、最後、ともに寂しくポツンと座っているというかたちで終幕を迎えました。
二人の存在がともに無に帰し、透明のような存在になってゆく過程が完全にワーグナーが描き出した音楽と相まっており、あの瞬間、本当に「こんなにもすばらしいものを残してくれてありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいでした。今回も必ずやそのような思いに満たされると思っています。
――今のお話を伺うと、人間というものはどんな人格においても、罪、そして、宿命的な業や苦しみを背負って生きている、そのような存在であるということが象徴的に描き出されていたのでしょうか。
そう思います。人間は生まれて存在していること自体が罪じゃないかと。しかし、パルジファルの終幕の音楽には、その思いは消え去り、救済される。すべてが無に帰する――というような思いへと導いてくれるように感じています。
――そのような重い苦しみやコンプレックスを第一幕から第三幕まで引きずらなくてはいけない役を歌い演じるというのは、精神的にも体力的にも相当な負荷がかかるのではないでしょうか。
特に、第一幕終盤、父親ティトゥレルの前での聖杯のシーンでは、400メートル走を猛ダッシュで駆け抜けていくような感覚があります。他には例がないですね。短距離走的な筋肉の使い方で歌い切る体力が要求されるので、まだこの年齢でもその体力が少し残っていてよかったなと思っています。
>(NEXT)マエストロ・ヴァイグレのマジックにかかって
マエストロ・ヴァイグレのマジックにかかって
――今回はセバスティアン・ヴァイグレ氏による指揮ですが、音楽的な面ではいかがでしょうか
昨日マエストロとの音楽稽古があったのですが、音楽の持っていき方がとても自然で、言葉の運び方を踏まえ、フレーズを自然に持ち上げていってくれるんですね。マエストロが "持ち上げるような" 手のしぐさをするだけで、自らが発する歌がワーグナーの音楽そのものになるような感覚にさせてくれるんです。
僕も「ここは持ち上げていくんだ」と思った瞬間、声も息もうわっと流れてゆくような感じで、それがすべて自然な表現につながっていくんです。実際、マエストロとご一緒させて頂いて、今まで辛かった箇所も実に楽に歌えるんです。
――さすがはフランクフルト歌劇場の音楽総監督を務め、また世界各国の歌劇場で高い評価を得ているマエストロですね。
もう一つ、何が素晴らしいかと言うと、マエストロがどのような音楽が創りたいのか、そして、僕はどう歌いたいか、というこの二つの思いの接点を見事に導き出してくれるんです。その上で、僕の音楽というのも認めてくれる。時には「こういう風にやったほうがいんじゃない」というヒントを、指揮を通して示してくれる。その通りに歌ってみると、「こんな風にいけるんだ」と、自分でも嬉しくなりましたね。今回は黒田博、ちょっとうまく歌えるかもしれません(笑)。
>(NEXT)この混沌とした時代に『パルジファル』が上演されること
『パルジファル』上演をめぐって
――この混沌とした時代に『パルジファル』のような壮大が上演される意義についてどのように捉えていますか。
木島始氏の詩で信長貴富氏がお書きになった合唱曲で「とむらいのあとは」という混声合唱の作品があります。作品の詩の中に
〈倒れた人の魂が歌えなかったものを夢見よう。銃より人をしびれさす ひきがねひけなくなる歌……〉(筆者任意による引用)
というくだりがあります。この詩を初めて目にした時、「すごい詩だな」と感じました。銃口を向けている人が引き金を引けなくなるほどの歌が歌えたら、と、信長さんにソロバージョンを作っていただき、心に止めて歌い続けています。
今回の『パルジファル』上演に際して、自分の中ではコロナやウクライナの問題と結びつけて考えてはいませんが、きっと本番が終わってから「ああ、こうなんだな」という思いがたくさん芽生えてくるのだろうと思います。後々、この70周年記念公演の『パルジファル』の上演というものが何かしら良い意味でいろいろな方向に発信力を持つものであればいいなとは感じています。
もう一つ、コロナ禍においても、ウクライナとロシアの件においても、我々はSNSの持つ力とその恐ろしさの両面を実感しました。そのような経験を通して、我々、演奏家として皆さんにお伝えできるのは、オペラやコンサートのように生の空気振動が呼び起こす感覚や感情というものに嘘や偽りはない、ということです。そのような思いをぜひ皆さんと会場で共有できたら嬉しく思っています。
――他の出演者の方々に関してもホットな話題をお聞かせください。
今回、以前のプロダクションご一緒した方々と再度共演する機会に恵まれたのは嬉しく思います。クンドリ役の田崎尚美さんや橋爪ゆかさん、グルネマンツ役の友清崇さん、そして、パルジファル役の福井敬さんです。福井さんとは同じ年ですので、今となってはお互い身体のことについてばかり話していますが、しかし、10年の時間の経過とともにお互い深化した部分も感じています。
田崎さんは、“深化” というよりも、むしろ “進化” がめざましく、すばらしいワーグナー歌いになっています。グルネマンツの加藤宏隆君はまさにこの役にふさわしい、羨ましいの程の美声の持ち主です。落ち着いていて本当にいいグルネマンツです。朗々と歌うというよりも、まさに美声の語り部という感じです。
あと、若い歌い手もどんどん育っていて、現場がつねに活気にあふれているのも素晴らしいことです。彼らがしっかり勉強しているという印象を受けていますね。
――若い出演者の方々も『パルジファル』の音楽に圧倒されることなく……。
これから舞台に上ってオケとともに音楽を作り始めると、ワーグナー初体験の方々はびっくりすると思いますね。私もワーグナーを初めて歌ったのは二期会創立40周年の年の30年前のラインの黄金(ドンナー役)でしたが、オケ合わせで今も忘れられないような体験をしたのを覚えています。今回もそのような経験をなさる若い歌い手さんがたくさんいると思いますし、ぜひそれを感じて欲しいと思っています。
――ヴァイグレさんの音楽でそのような体験ができるわけですから幸せですね。
本当ですね。また読響さんの音が素晴らしいんですよ。
――ちなみに、オペラ公演の見どころのひとつに「衣裳」があると思います。プロダクションによって、伝統的なものから現代的なものまで様々で、中には驚くような奇抜な衣裳による公演もありますが、今回はいかがでしょうか?
はは、それはお楽しみですが、「えーっ」という恰好の人もいますね。
――アムフォルタスはいかがでしょうか?
「え~っ」というほどではなく、「ほーっ」というくらいだと思います(笑)。そこらへんはぜひお楽しみになさってください。
取材・文=朝岡久美子 撮影=荒川潤

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