演奏活動60周年を迎えたヴァイオリニ
スト前橋汀子、大いに語る

演奏活動60周年を迎えた日本を代表するヴァイオリニスト前橋汀子が、記念のコンサートを6月に開催する。今年40周年を迎えるザ・シンフォニーホールに向けたメッセージや、自身の師でもあるヨーゼフ・シゲティやナタン・ミルシテインといったヴァイオリン界の巨匠との思い出など、あんなコトやこんなコトを語ってくれた。
演奏活動60周年を迎えたヴァイオリニスト 前橋汀子  (c)H.isojima

―― 演奏活動60周年を記念して、びわ湖ホールとザ・シンフォニーホールでコンサートを開催されます。演奏されるのは、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを中心とした、名曲の数々。びわ湖ホールの翌日にザ・シンフォニーホールがあるからだと思いますが、両日、全く違うプログラムですね。
プログラムの構成には、かなり力を入れています。もちろんすべて、私自身が考えています。びわ湖ホールは、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番『春』を、ザ・シンフォニーホールでは、同じくベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番『クロイツェル』を中心に、ヴァイオリンの魅力溢れる名曲の数々をお聴き頂きます。サン=サーンスの『序奏とロンド・カプリチオーソ』は両方の会場で演奏しますが、それ以外の曲は全く被りません。どの曲から始め、どの曲で終わるか。演奏順にはこだわっています。
―― 前橋さんは、一般的に小品といわれる名曲を、コンサートでしっかり取り上げられますね。それは、お客様としてはとても嬉しいことだと思います。小品にかける思いを聞かせてください。
小品という言い方がきっと良くないのでしょうね。アンコールピースのように余力で弾くような、軽く見られているように思いますが、私は小品を弾くのが大好きです。数分の曲の中に、作曲家の思いや、ヴァイオリンの魅力の全てが入っています。奥が深くて、何十年も弾き続けていますが、納得のいく演奏はそうそうできるものではありません(笑)。シゲティ先生もミルシテイン先生も、小品にはこだわりをお持ちで、とても大切に取り組まれ、多くの曲をレコーディングされています。
―― 今回のコンサートのピアニスト、ヴァハン・マルディロシアンは、指揮者として関西フィルの「第九」などを指揮しているのを見ているだけに、ピアニストとして活動されている事に驚きました。
彼は優秀なピアニストですよ。イヴリー・ギトリスのリサイタルを紀尾井ホールに聴きに行った時に彼がピアノを弾いていて、気に入りました。演奏が素晴らしかったのに加え、ステージマナーが良かったのです。すぐに弾いていただけないか、お声がけしました(笑)。すでに何度かご一緒しています。当日は、息の合った演奏をお聴き頂けるはず。どうぞご期待ください。
ピアニスト ヴァハン・マルディロシアン
―― ザ・シンフォニーホールも今年40周年を迎えます。前橋さんも数多くステージに立たれていると思いますが、何か思い出はありますか?
ザ・シンフォニーホールのオープンが1982年ですか。オープニングのコンサートで、ベートーヴェンの『トリプルコンチェルト』を演奏しました。バックは朝比奈隆先生が指揮する大阪フィルで、ピアノが野島稔さん、チェロが安田謙一郎さんだったと思います。朝比奈先生は、ご自身もヴァイオリンをされる事もあってか、私には随分厳しい注文を出されていたのをよく覚えています。熱い先生でしたね(笑)。オープニングを祝う朝日放送の特別番組では、確か私が案内役をさせて頂きました。ゲストとして番組に参加された朝日放送社長の原清さんの嬉しそうなお顔が印象的でした。
―― ザ・シンフォニーホールに対しては、どんな感想をお持ちですか。
素晴らしいホールです。とても弾きやすく、世界でもトップクラスの響きがするホールです。客席の最前列がステージに近いのが特徴ですね。あそこまでステージに近いホールは日本には無いように思います。ザ・シンフォニーホールの存在は、後に出来たサントリーホールにも大きな影響を与えたと思いますし、各地に音響を意識した、本格的なコンサートホールが誕生する先駆けになったように思います。
―― 先ほど、大阪フィルの話が少し出ましたが、前橋さんが大阪フィルの定期演奏会に出演されたのは、3回だそうです。最初が1974年で秋山和慶さんの指揮でシェーンベルクのコンチェルト。その後81年に手塚幸紀さんでサン=サーンスの第3番。86年にはモーツァルトの第3番を演奏されています。
シェーンベルクのコンチェルト…。そうでしたね、あの時代、現代曲が好きで、シェーンベルクを暗譜で弾きました。ジュリアード音楽院までロバート・マン先生を訪ねて、シェーンベルクを弾くための奏法などを教えて頂きました。シェーンベルクはそのあと、イタリアで1回弾いただけで、その後は弾く機会がありませんでした(笑)。最近でもあまり取り上げる人はいません。大阪フィルの定期演奏会は、確かフェスティバルホールでしたね。あのホールも素晴らしいホールでした。ホテルと繋がっていたのも印象的でした。
大阪フィルの定期演奏会では、シェーンベルクのコンチェルトを暗譜で弾きました  (c)篠山紀信
―― 大阪音楽大学でも随分長く、教鞭を取られました。
30年です。特別契約なので、実際に大学に伺うのは年に数回でしたが、今でも繋がっていて、コンサートに来てくれる生徒さんは沢山いらっしゃいますよ。ただ、プレーヤーをやりながらの事だったので忙しく、とんぼ返りで東京へ戻るような生活で、皆さんと一緒に街に繰り出すようなことはありませんでした。たこ焼きなどを一緒に食べに行きましょう!と、いつも言って頂いていたのに(笑)。たまにスケジュールが合えば、日本橋の国立文楽劇場に文楽を観に行くのが楽しみでした。人間国宝の初代吉田玉男さんや竹本住大夫さんとは交流があり、コンサートにもお越し頂いた事もあります。東京では文楽のチケットはなかなか手に入らないのに、大阪ではいつもガラガラだったと記憶しています(笑)。
―― 今も当日券で入場できますよ(笑)。最近の若いヴァイオリニストの台頭は、目を見張るものが有ります。国際コンクールなどでも優秀な成績をあげる若い奏者が沢山いますが、前橋さんは彼らのことをどのようにご覧になられていますか。
本当に素晴らしいことだと思います。指もよく回るし、技術的に申し分無い。これからどんな風に成長するのか、楽しみに見ています。
最近の若手ヴァイオリニストの台頭は素晴らしいです!  (c)篠山紀信
―― 前橋さんが留学先のレニングラード音楽院で、ミハイル・ヴァイマン先生に言われたという、「チャイコフスキーを理解するには、オペラ『エフゲニー・オネーギン』や『スペードの女王』を観ないと、本当に理解したとは言えない」というのは、まさに至言だと思うのですが。
色々な文化芸術に触れろというのは、まさにロシアの底力ですね。私の10代の頃に、音楽だけでなくバレエやお芝居、美術、文学に至るまで、本物が身近にあったというのは、素晴らしい環境だったと思います。音楽漬けで、他の文化芸術に触れずに多感な時期を過ごすことは、勿体ないように思いますが、そういう教え方をする先生は、日本ではあまりおられないのではないでしょうか。
―― 現在のロシア、ウクライナの状況をテレビなどでご覧になられて、10代の最後をソビエトで過ごされた前橋さんとしては如何ですか?
言葉がありません。オイストラフもミルシテインも、コーガン、スターン、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリスなど、ソビエトの巨匠たちの多くがウクライナ出身です。悲惨な映像を目にするに付け、10代を過ごした1960年代初頭のソビエトの情景が、走馬灯のように頭をよぎります。レニングラード音楽院の寮やレッスンでの風景、寒い冬の一日、友達と通ったお風呂屋さんの思い出…。大変な時代でしたが、ソビエトの黄金時代の幕開けでもありました。そして、私の音楽人生のスタートでもありました。

ナタン・ミルシテインと前橋汀子(スイスの自宅にて)
―― 前橋さんの歩んでこられた音楽人生は、簡単に紹介できるものではありませんが、日本のクラシック音楽史としても、ぜひ知っておくべき様々な経験をされています。詳しくは「ヴァイオリニストの第五楽章」(日本経済新聞出版)と「私のヴァイオリン 前橋汀子回想録」(早川書房)に詳しく載っています。私も大変興味深く拝読させて頂きました。
「私のヴァイオリン 前橋汀子回想録」(早川書房)と「ヴァイオリニストの第五楽章」(日本経済新聞出版)
また、前橋さんはバッハ「無伴奏ソナタ&パルティ―タ全集」を1989年と2019年に2度リリースされています。実は、1度目の録音のCDが私の愛聴盤で、何度も聴いてきただけに、2019に再び全曲を録音されたと聞いて、少し複雑な気持ちでした。「残念ながら以前の方が良かった」となるのが嫌だったのですが、2019年盤も素晴らしい出来で驚きました!どうして2度目の録音をしようと思われたのでしょうか。
バッハの「無伴奏ソナタ&パルティータ」は特別な曲です。一度目の録音では、その時に持っているすべてを出し切って録音し、文化庁の芸術作品賞受賞や、色々と専門誌でも高評価を頂きました。使用楽器は1703年製のストラディヴァリウス。それから30年の間に、古楽器奏法を学んだり弦楽四重奏に取り組んだり、様々な経験を重ねて来て、今の私が考えるバッハ像を形として残したいと思い、改めてチャレンジしました。こちらの使用楽器は1736年製のデル・ジェス・グァルネリウスです。バッハの無伴奏だけは、90歳くらいになって、もう一度記録として残せたらいいなぁと思っています。

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータは特別な曲です  (c)篠山紀信
―― 実は今日、シゲティが演奏している無伴奏のCDを持って来ています。
ちょっと見せてください。このジャケットに写っているのが、シゲティ先生のモントルーの家の書斎です。この右側にピアノが在って、それはシゲティ先生が亡くなった後、ラドゥ・ルプーに引き継がれました。そのルプーも、先日亡くなりました。昔、シゲティ先生の家のソファに座って、先生と一緒にハイフェッツの弾くバッハの無伴奏のレコードを聴きました。聴きながらシゲティ先生は、「僕の方が良いと思わない?」と仰いました(笑)。懐かしい思い出です。
シゲティが演奏するバッハ無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータのCD
ヨーゼフ・シケティ先生と前橋汀子(スイスの自宅にて)
―― 前橋さん、長時間ありがとうございました。最後にメッセージをお願いします。
演奏活動60周年の記念コンサート、ぜひお越しください。びわ湖ホールとザ・シンフォニーホールの他に、東京のサントリーホールでも記念コンサートを行います。こちらは、「アフタヌーン・コンサート」の18回目でもあります。クラシックを聴いた事のない方に向けて、休日の午後に、お求めやすいチケット料金で名曲コンサートをやろう!と思い立って始めた「アフタヌー・コンサート」も18年が経過しました。各会場ともホールの響きだけでなく、びわ湖ホールのホワイエから見える琵琶湖や、ザ・シンフォニーホールの象徴ともいえるエントランス前の階段などを思い描きながら、プログラムを考えました。サン=サーンスの『序奏とロンド・カプリチオーソ』では、ミルシテイン先生から教わった、ちょっと普通では思い付かない特別な指遣いで弾きますし、サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』で使用するミュートも、ミルシテイン先生が下さったものです。色々な思い出と共に、今できる精一杯の演奏をお届けいたします。コンサートホールでお会いしましょう!
皆さま、コンサートホールでお会いしましょう!(アフタヌーンコンサート2021.6.20 サントリーホール)  (c)2FaithCompany
取材・文=磯島浩彰

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