BANBANBAN鮫島ヒロミ・山本正剛イン
タビュー 「偏見が偏見を生むのが嫌
なんです」

吉本興業所属のお笑いコンビ、BANBANBAN。フリーザ芸人としてテレビでもお馴染みの山本正剛と、アニソンDJイベント『アニソンディスコ』主将としても活動する鮫島ヒロミ。ただのお笑いコンビとは思えない彼らに初のインタビューを行った。コンビ改名、山本の長期休養、そしてアニソンに対する思いなども一気に聞いた。ひな壇を拒否した彼らのヒストリーとこれからを見てもらいたい。
――お二人の出会いは、小学校からの幼なじみですか?
鮫島:小学校1年の同級生ですね。
山本:もう30年…
鮫島:30年近い付き合いですね。たしか僕から声をかけたんですよ、幼稚園から上がってくる友達もいるんですけど山本くんは違って。帰る方向が一緒だったんですけど、よく見たらちっちゃくて細くて、言う事ききそうだったので(笑)。
山本:犬みたいなもんですよね
鮫島:ちょっと声をかけてみて、それから毎日一緒に帰ってましたね。
山本:登下校ずっといっしょだったね。
――で、その流れでずっと一緒にいて、「じゃあお笑いコンビになろうぜ」となったんですか?
鮫島:いや、最初はお笑い芸人になろうとは思っていなくて、二人共漫画が好きだったんですよ。ゆでたまご先生とか藤子不二雄先生とかが二人組でやっているっていうのが小4くらいでわかってきて、「じゃあ2人で漫画描けばいいんじゃね?」みたいな話になって、1回学校の漫画研究クラブに入るんですよ。
山本:ああ、あったわ!漫画描いたね。
鮫島:そこで二人共画力がないっていうことに気がついて諦めて(笑)。今度は中学とかに入ると、スーパーファミコンの『スーパーファイヤープロレスリング』とかの影響でプロレスを好きになって。二人で。「プロレスだったらコンビ組んで、タッグでいけるじゃねえか」と話をするんですけど、運動神経とタッパがないことに気がついてまた諦める(笑)。
――まだお笑いは出てこない。
鮫島:高校は別々の学校だったんですけど、それくらいにやっとお笑い好きだなという感じになって。高校でる直前くらいに二人でお笑いをやろうかって話をしたんですけど、山本くんは大阪でやりたいと。僕は東京でやりたいという話で、じゃあ別々でやろうかと。いつかそのうち仕事も一緒にすることもあるだろうっていうことで別れたんですよ。
――なるほど。
鮫島:で、山本くんは19くらいからもう大阪の吉本の舞台にちょこちょこ出始めていて。僕はいろいろあって23で吉本に入るんですね。NSCに入って。それで山本くんと連絡を取り始めて。「俺も吉本入ったよ」「じゃあなんかあるかもしれないな」なんて。手紙でやりとりを始めるんですよ。
――手紙?
鮫島:はい。僕がネタ書くんですよ。ネタ書いて大阪の山ちゃんに送るんです。そうすると山ちゃんから電話が来て「めちゃめちゃ面白い!この漫才、このコントやりてぇな!すげえな、面白いな!」と言ってくれるんですよ。「俺もネタ書いて送るよ!」と送られてくるんですけどそれが超つまらないんですよね(笑)。で、俺は言葉を濁しながら「あ〜、ありがとう」とか言って。そういうやりとりをしているうちに組みたいという気持ちが強まって来て。ある日山ちゃんから「明日家にいるかい?鹿児島からナマモノが送られて来たから送るよ」って言ってきて。なんとなくわかるんですよ、「ああ、そういうことか」と。
――気持ちがわかる?
鮫島:うん、なんで鹿児島から来たものを山ちゃん家を経由してくるとか、そんなことあるわけないじゃないですか(笑)。わからないふりをして「そうか、わかったじゃあ家にいるよ」と言って。次の日の昼間にドアを開けたら山ちゃんが「なまものでーす」と言って来て、僕はその時の相方に電話をして「解散しよう」といって、そこから組むんですね。
――やっぱり組みたい気持ちはあったんですね。
鮫島:そうですね、ありました。どっちも当時のコンビは上手くいっていなかったので。組みたいなという気持ちはありましたね。
――山本さんからみた鮫島さんはどういった感じだったんですか?
山本:もう小学校の頃から、リーダーシップを取るのが上手い人だなと。周りが付いてくるんですよ。鮫ちゃんが面白いことを話そうとしたら周りが聞きにくる、みたいな。そういうリーダーシップかなんかが昔からあるような感じだったので、ついていけば友達が増えるのかなと思って接してはいましたね(笑)。僕昔ゲームをめっちゃ持っていたんですよ、ネオジオとかメガドライブとか、ファミコン以外の機種も家にあって。それをやりたいから集まるような浅はかな友達しかいなかったんですよ(笑)。でも外で遊んだりする友達は鮫ちゃんしかいなかったんですよね。
鮫島:悲しくなってきた(笑)。僕も山ちゃんのゲーム目当てで付き合っていたわけではないですからね。一緒に居て気分が良かったというか、気持ちが良かったので一緒に居た。
――楽だったんでしょうね。
鮫島:そうですそうです!
山本:そうですね。
撮影:大塚正明
――で2003年。前のコンビ名「パリパリポリパリ」が結成。いざ組んでみたらどうでした?
鮫島:最初は合わなかったんですよ、山ちゃんは大阪でずっとやっていたから、大阪の間というかね。
山本:訛りだったりね。
鮫島:僕も元々NSCの中で飛び抜けて面白いわけではなかったし、山ちゃんも大阪で落ちこぼれだったので。落ちこぼれで才能もない二人が、"ある”感じを出してもしょうがないなという話をして。大きな声で、汗かいてやろうという、全力で動いて声出して、汗かいてやろうという方針に変えたんですよ。で、そういう漫才に変えたら、それからちょっと上手くいって。一回吉本の出した雑誌のDVDの付録の中でも、「未来のダウンタウンを探せ」みたいなDVDがあって、そこで一応トリをやっているんですよ。それくらい一時期ちょっとプッシュされかけたんですよね。それでなんかあぐらをかいていたら、周りのセンスのある人たちがどんどん大声を出して暴れ始めて。「あれあれ!?ちょっと待って待って!?大声出して汗かくのは俺らの専売特許だからみんながやると薄まっちゃうから」と言っているうちにみんなにどんどん追い抜かれちゃって(笑)。
山本:あはは、思い出したわ。その時、めっちゃ伸び悩んでいたんですよ。そうしたら鮫ちゃんに急に三沢光晴さんの本をポンと渡されて「これはお笑いの教科書だから読め!」って訳のわからないことを言われて。
鮫島:がははは!(笑)
山本:いや、わけわかんないと言ったら「俺のネタは全部、三沢光晴だから」と言われて。それで熱い漫才をしたんです。もう、大声を張り上げて、走り回ろうって。あ、そういうことだったんだ、って(笑)。
鮫島:あ~、渡した渡した。三沢の自伝みたいなやつ渡した。これを読めば、お笑いの全てがわかるって、間違っていたねぇ……。
――当時お笑いを目指したきっかけになった芸人さんとかいるんですか?
鮫島:鹿児島出身なもので、ネタ番組とかはないんですよ。でも桜金造さんが『お笑いウルトラクイズ』でワニと戦うみたいなのがあって。おしっこちびりながらワニを気迫でどかしたんですよ。それを見てかっこいいなと思って、かっこいいんですけどおしっこはちびっているんですよ(笑)。カメラもしっかり押さえてる。それくらい自分をさらけ出してかっこいいなと思ったのが最初だった気がします。それからダウンタウンとかにハマっていった感じですね。
山本:僕は、タレント志向がすごく強かった人間で、そこまで芸人になりたいという気持ちはなかったんですよ。なんかタレントになりたいなとふわっと思っていた時に、ダウンタウンの浜田さんがテレビに出たり、CDも出したりいろんなことをやっていて、この人は職業はなんなんだろう?って調べたら芸人だって知って。芸人になってトップを目指せばいろんなことができるんだというのが、始まりですね。
――で、コンビ名を改名したのが2008年。これはなぜ改名を?
鮫島:元々「パリパリポリパリ」という名前で活動をしていたんです。響きとか気にいっていて、先輩からも笑ってもらったりしていたんですけど、覚えてもらいづらかったんですよ。初めて出た吉本のライブでも、アンケート用紙に「パリパリポリポリ」や「パリパリパリパリ」って記載されたり。でも一番改名しようとしたきっかけは、吉本の公式サイトに「本日の出演者“バリバリボリバリ”」ってなっていたんですよ。明らかにもうそいつはキーボードのBから押しているんですよ(笑)。ここの時点で間違われているんだったらもうやめようっていうので、「BAN BAN BAN」に変わりましたね。今の名前は桑田佳祐さんのDVDをたまたま見ていて、その時流れていた曲が「BAN BAN BAN」だったので、もうこれでいいわみたいな感じですね。
――そのBAN BAN BANに改名して、2010年8月ですね。山本さんが体調不良を発表。
山本:これは大変だったね。この時期は。
鮫島:ズタボロでしたね、もう戻りたくない。
――聞いていいんでしょうか?
鮫島:大丈夫です。2008年くらいからフリーザのモノマネを始めて。で、僕も2008年くらいにお笑い吉本のピラミット方式のランキングで行き詰まるところがあって。結婚もしていたんですけど、その頃先輩芸人のダイノジさんの主催する『ジャイアンナイト』というロックDJイベントに入れさせてもらったんですよ。そこなら現状打破ができるんじゃないかと思って。その中で僕らはダンサーをやっていたんですけど。ある時にダイノジさんの大谷さんが「二人でできることをやったほうがいいんじゃないの?」という勧めをもらって。「山本はフリーザのモノマネができるし、アニメも詳しいからお前がダンサーとかやって、アニソンのDJイベントを始めてみなよ」といわれたんです。
――大谷さんから?
鮫島:はい。それでアニソンディスコを始めましたね。僕は元々アニソン全然知らなかったんですよ。本当は、小学校の時まで『アニメディア』とか買っていたんですけど、途中からなんか恥ずかしくなって買うのやめたんです。少年漫画は読んでいましたけど、アニメは『スラムダンク』とかくらいしかみていなくて。2000年……いや、90年代後半からアニソンディスコ始めるまで一切見ていないですね。本当に見ていないです、エヴァンゲリオンも見てないです(笑)。山本くんがDJやって、俺が踊ればいいかという気持ちでやっていたんですけれども。公演の2週間くらい前に山本くんがうつ病でいなくなっちゃうんですよ。
山本:心の病気ですね、完全な。
鮫島:もうフリーザやだって言い始めて。なんかその、フリーザでいることが辛いとかって言い始めて。俺はもっとちゃんとしたツッコミで、俺の話芸の組み立てで笑わしたいって言っていたりするんです、それで飛んじゃって、どうしようってなって。でもチケットは売れているものだからイベントはやらなければいけない。だから僕はもうケツを拭う形で、この1回だけで終わりにしましょうという約束で、2週間でアニソンをいろんな人から仕入れて、300曲くらい聴き込んだんですね。
――急場しのぎではないですけど、そういう感じですね。
鮫島:そう、でも先入観がないんですよ。作品に関しての思い入れが全くないので、いい曲と思ったものだけを並べてかけようと思ったんですよ。それでいい曲だなと思ったのがたまたま全部『マクロスF』の楽曲で。「これ全部同じ作品なんだ!かっこいいのばっかりじゃん」と。あと、『らき☆すた』の「もってけ!セーラーふく』も自分の中でピンときて。あと自分が昔見ていたアニメ、アニソン。それからジャイアンナイトという流れもあったので、ロックを混ぜたりしたのが初めてのアニソンディスコでした。で、1回で終わりにしようって思っていたんですけど、これをやってると山ちゃん帰ってこれるんじゃないかなと思ったんですよ。続けていれば山ちゃんが帰ってくる場所になるから、帰ってくるまでは絶対続けようって。それから半年後くらいに山ちゃんが「俺やっぱり続けるわ」と言ってくれて、復帰してくれて今に至りますね。
撮影:大塚正明
――うつ病になってしまったのは、フリーザをやっていたからなんですかね?
山本:何でしょうね。でも、フリーザを、僕以外にもやっていた子がいたんですけど。みんな何かこう……。
鮫島:みんないなくなっちゃうんですよ。当時3人くらいいたんですけど。全員やめちゃっているんですよ、病んで。
山本:で、なんかとうとう俺もか、みたいな感じになっちゃって(笑)。
鮫島:最後は俺かって。
山本:最後はもう俺だってなって。これだ、これだって、もう信じちゃっているんですよ。もう、フリーザをやるとそういう病になるというふうな頭になっちゃって。
鮫島:自己暗示みたいなのもあるんでしょうし。
山本:そうですね。自己暗示みたいなものでしょうね。
――その期間はじゃあ全く、いわゆる芸人という活動はせずということですかね?
山本:そうです。『紅とん』という居酒屋で店長候補になっていました。
鮫島:あははは!(笑)
山本:12時間ずっと働いてたら半年で(笑)
鮫島:その間は僕はずっとピンでお笑いライブは出続けていて。そしたらコンビで越えられなかったピラミットの壁を超えちゃったんですよ(笑)。
撮影:大塚正明
――戻ってこようと思ったきっかけとかあるんですか?
山本:鮫ちゃんがずっと活動しているのがずっと引っかかってはいたんですよ、アニソンディスコだけじゃなく、お笑いの方も「BAN BAN BAN・鮫島」じゃなくて「BAN BAN BAN」の名前で出ていたんですよ。
鮫島:あ~たしかに。BAN BAN BANで出てた。
山本:その時に、鮫ちゃんが上がっていくのを見て、やっぱりコンビでずっとやっていたから、多分一番それが響いたんじゃないですかね。「BAN BAN BAN・鮫島ヒロミ」だったら多分僕は辞めていたと思います。多分。
鮫島:確かにそうかもしれない。
山本:「BAN BAN BAN」の看板でずっとやっていたので。何でいないんだろうみたいな感じで自分で思っていたんです。この中には僕もいるんじゃないかみたいな感じで。
鮫島:ブログとか読んでいたの?
山本:読んでた読んでた。
鮫島:あ、読んでいたのね。
山本:で、そういうのもあって「これはやらないといけない」と思って電話しましたね。
――逆にいうと、鮫島さんは変な話、じゃあ例えばもうやれそうにないから切り捨てるでも、一人で頑張ろうでも、方向性変えようでもできるわけじゃないですか。それをしなかった理由って何ですか?
鮫島:あの~、横にいて言うのも恥ずかしいんですけど。やっぱり山ちゃんしかいないんですよね、こんなこと言うのめっちゃ恥ずかしいんですけど。
――まあインタビューですから。
鮫島:はい(笑)。山ちゃんしかいないんですよ。他の人とやろうとか全く思わない。当時僕、嫁さんが実家にもう帰る、みたいな話も出ていたんです。芸人辞めて帰って、嫁さんの実家の宮崎で過ごすという話もちょっと出ていて。でも嫁さんの実家行ったら俺鹿児島出身だから、なんか宮崎の人にばっかり囲まれて嫌だなあ……とか(笑)。その時嫁さんに一度「山ちゃんも連れてっていい?」とか言っているんですよ。だったら宮崎行ってもいいかなとか(笑)。それぐらい山ちゃんじゃないと僕はダメなんですよ。他に芸人の友達もいないし。先輩後輩ともそんなしょっちゅうつるんでいるわけでもないし。山ちゃんがいなかったら何もやっていないな、まあ、帰ってこれるんだったら続けたいなという気持ちでしたね。帰ってくるだろうというそんな変な自信もあったし。
――連絡来た時どうでした?
鮫島:いやもう、ガッツポーズしましたね。やった、やっと来たよ!と言って。待ってたよ!と言って。で、山ちゃんが帰ってくるタイミングで僕は今度は膝の靭帯を切っちゃって。一ヶ月休業するんですよ(笑)それで山ちゃん、一人で舞台に出て(笑)。
山本:禊みたいなものですね、その間は。
――大谷さんからやってみなよと、要は山本さんを待ち受けるまでの受け皿として作ったアニソンディスコですが、今年で7年目。
鮫島:そうそう、7年目。
――その間にメンバーも結構入れ替わっているじゃないですか。
鮫島:だいぶ入れ替わりましたね。
――今のメンバーはどうですか?
鮫島:そうですね。みんなそれぞれ…。なんですかね、不満もありますよ、もちろんそれぞれ不満もありますけど、頑張っているなと思うこともいっぱいあります。僕が全員に対して同じ方向を向こうぜというよりは、適材適所にみんなの活躍する場を作るのが今一番良いかなという感じですかね。もうなんか、変に期待しない。みんなに期待しないで。僕から指示を出すだけで、それぞれそこで頑張ってくれたら良いかなって。あとはもう、無理させないというのがありますね。
――ソロのDJ活動も増えていますもんね。
鮫島:そうですね、アニソンディスコとしてしかDJできないのはフットワーク悪いですからね。フットワーク軽くできたほうがいいと思うし。あと絶対周りのDJからバカにされないくらいのある程度の技術というか、そこはできた方がいいなというのを感じて、それは鍛えましたね。一人であちこち武者修行とか行きましたし。それで今、おかげさまであちこち一人で呼ばれることも増えたし、一人でもある程度の盛り上がりはできるようになった。必ず終わったあとは「今日は僕一人でしたけどアニソンディスコではもっといろんな面白い仲間がいて、今日以上に絶対楽しいので来てください」という風に言うようにしていますね。
撮影:大塚正明
――それでやっている中で気持ちの変化とかあったりするんですか?アニソンに対する考え方とか。
鮫島:もともと普通に音楽が好きで、ロックとか好きだからアニソンはちょっと、偏見で見ていたところがあったんです。でも「もってけ!セーラーふく」を聞いた瞬間に「あ、すごいんだな」というのがわかって。アニメのOP90秒という尺で作品のことを伝えて、収めて、曲としても展開がしっかり盛り上がって。お客さんもライブで楽しめるようなギミックもいっぱい入っている。なんか、アニソンって90秒のとんでもないコマーシャルソングだなって気づいたんです。それからは偏見もなく。今はもうアニソンしか聴いていないくらいですからね。アニソンってすごいなって思いますね、やっぱり。
――「もってけ!セーラーふく」は当時結構衝撃的に迎えられましたね。
鮫島:いや、ベースがすごいじゃないですか。黒人が弾いてるの?っていうくらい。
――それでもアニソンディスコって、芸人さんがジャイアンナイトの流れを汲んで始めたものじゃないですか。ダンサーがいて振付があって、というものですが、最初無茶苦茶ネットで叩かれました。
鮫島:めっちゃ叩かれましたね!
山本:すごかったですね。
鮫島:ツイッターでもずっとバトってましたからね。
――あの頃ってやっていてどうだったんですか?固定のお客さんはいらっしゃったじゃないですか。
鮫島:ファンはいたんですけど、叩かれて心は正直辛かったです。でも来てくれるお客さんが喜んで帰ってくれることが全部答えだと思っていたので。絶対間違ったことはやっていない!絶対楽しいことをやっている!という自覚はずっとありました。そんな声には負けないぞっていう。絶対俺ら、楽しいことを間違いなくやっているよっていう気持ちはありましたね。今もありますし。
――主将が戦い続けていることを山本さんはどう思いますか?
山本:いやなんか、こう、二人で行くのは違うなと思って。だって鮫ちゃん叩くとき絶対僕に言うんですよ。「これ、叩いていい?俺行くわ」っつって。絶対言うんですよ。で、僕は「うん、いいよ。いこう」って言うんです。
鮫島:一回山ちゃんが、フリーザの感じで「殺しますよ」とリプを飛ばしたら「予告殺人だ!」みたいになって(笑)。それはそれでまた炎上しちゃって。もうお前何にも言うなって言ったんです。
山本:そうそうそう。これはダメだと思って。
鮫島:殺しますよはまずいよ!って言って。
――まあ多分、叩かれた理由って、鮫島さん自身があんまりアニメを見てないって言っていたからだと思うんですよ。
鮫島:そうなんです、そこなんです。
――でもなんか、偏見がないなと言う気がします。僕らアニメファンって、いい意味で思い入れがあって、悪く言うと作品に対する偏見があると思うんです。このアニメはこうだ!とかこの作品はこうだ!とか。それがないんだなっていうのは感じました。
鮫島:それこそ昔ブログに書いたんですけど。偏見がまた偏見を生んでいるのがいやなんです。オタクをカテゴライズすると、多分昔ってそこに入る人は世間からちょっとずつ偏見を受けていたと思うんです。今でこそ世間の認知も増えましたけど、その人たちがまた違うジャンルのことを穿った目で見ているのは違うんじゃないかと俺は思っていて。ジャンルは違えども、偏見を受けているもの同士で戦っても変じゃない?っていう。
――確かにそう言う所はあるかもしれませんね。
鮫島:もっと共存して、お互いを尊重し合えた方が。偏見を持っている側の人たちに対して勝てるんじゃないの?っていう気持ちはあったんですよね。アニソンディスコをやりながら、アニソンディスコ試練の10番勝負というのをやって、ロックDJイベントに出たり、アイドルイベントに出たり、ラッパーとかとも対バンとかしたんですけど。それも全部、偏見を取っ払いたいというか。アニソンって結構すごくないですか?ということを違うジャンルにもぶつけていきたいという気持ちでやったんです。それを始めてからなんかその、アニクラ界隈からのディスる目が減ったような気がしましたね、あの当時。2013年かな。
撮影:大塚正明
――そういう活動をしている中で、コンビとしての流れはどうだったんですか?
鮫島:まあ、お笑いのライブはで続けていますし。ネタもずっと作り続けているんですけど。でもアニソンディスコがなかったら多分もうやめているなっていうのはありますね。吉本興業の中にいても多分、月2回のお笑いのライブ出て、たまになんかスペシャル版の夏の芸人大集合みたいなライブにたまに呼ばれるくらいのポジションで収まっているんだと思ったんですよ。ある時、僕芸人として疲弊しまくっている不健康な状態だけど、そこに、アニソンディスコという生命維持装置を身体にぶっこんで続けていると思ったんです。BAN BAN BANという漫才師、コント師で行ける時が来ればいいなという気持ちもあったんですけども、ある時期からなんかそれも違うなと思い始めて。この生命維持装置をつけた身体のままで人前に出て。こんなボロボロだけどなんか頑張れていますよという方が面白えなという気持ちになったんです。
――やっぱり意識の変革が。
鮫島:変わりました。
――山本さんも、一度心を病んだフリーザというキャラですが、やっぱりキャッチーじゃないですか。
鮫島:キャッチーですね。
――今それこそテレビも結構。
鮫島:そうなんです。今年入ってから月1本2本は絶対あるんですよね。
山本:ありますね。
――コンビでありがちだと思うんですけど。片方が何かしらで跳ねる時って、どういう気持ちなんですか?
鮫島:う~ん。アニソンディスコを始めた2010年より前だったら多分チクショーって思っていたと思うんですけど。最近は変わって、全然応援したいし。むしろ山ちゃんがいっぱい出て来れた方がアニソンディスコにも恩恵が返ってくるんで。どんどん出ろと。で、僕はちょっとテレビに出ることを諦めているんですよ。オーディションも受かんないし、もういいわ。その代わり俺はアニソンディスコにいるお客さん、それをどんどん広げて、絶対に生き残っていけるはずだって。むしろ、これ続けていればテレビの方から来るぞっていう。そんな気持ちでいるんですよ。もうなんか、あらゆるお笑いの猛者たちとひな壇で戦うのは無理だと思っているんですよ、俺。
――山本さんはどうなんですか?そう言っている鮫島さんに対して。
山本:僕自身もなんですけど、テレビに出ることは、広告としか思っていないです。BAN BAN BANの名前、アニソンディスコが出た時に「あ、テレビでていた人だ」って指さされるような広告としか思っていないんですよ。だから本当に、目先の人気とかより、目先の営業というか。テレビ出て「○○に出演中BAN BAN BAN!」と言って営業が増えればなって思いながら参加しているんですよ。
鮫島:なんかもうテレビに出て、飯食っていくっていう時代でもなくなってきている気がするんですよね。
――そうですね。
鮫島:僕ら以外にも今、吉本の中でどんどん自分でコンテンツを作り始めている芸人さんがいっぱいるんです真剣にロックのバンドをしている人がいたり。自分でタクシーを営業している芸人がいたり。引越し屋をやっている芸人もいたり。みんな何かしらで番組に呼ばれることが出てきている。番組のひな壇じゃなくて個体として成り立つ芸人になればいいやという気持ちですね。あとは今いるお客さんを大事に。顧客満足度をガンガン上げていくという。イベンター芸人になろうかな思っていますね。
撮影:大塚正明
――これから先、いろんなイベントも、7周年も控えていますけども、アニソンディスコだけじゃなく、BAN BAN BANの未来像をお互いにどう思っているかというのを聞きたいなと思います。
鮫島:多分山ちゃんはこのまま色々番組に呼ばれてくれるのが一番良いと僕は思っていまして。アニソンディスコは最終的に僕が一人でも守れるイベントでないといけないと思っていますし。いつみんながいなくなるかもわからないですから。頼らないようなイベントにしようと思っています。コンビとしては、面白パーティー芸人であっちこっち呼ばれていくのが理想なのかなと。
山本:僕は、あれですね。変な話僕らは子供も、家族もいるので、家族もアニソンディスコだったり、BAN BAN BANだったりで幸せになってくれたら嬉しいなと思いますね。
――では、BAN BAN BANからこれを見ている人にメッセージを。
鮫島: BAN BAN BANは、我々は決してみなさんを裏切ることはないと思っていますので、信じてBAN BAN BAN、アニソンディスコについて来てください。絶対にみなさんを幸せにします。
――じゃあ最後に、お互い相方に一言。いないと思って。
山本:いないと思って!(笑)
鮫島:うわ、恥ずかしい。わあ~。ん~と……まだまだ一緒に頑張りましょう。
山本:えっと……私もですね、ずっと二人三脚でいきますので、これからもよろしくお願いいたします。
インタビュー・文:加東岳史 撮影・大塚正明
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 日時:2017年8月11日(金・祝)
 会場:渋谷WOMB LIVE/渋谷WOMB LOUNGE
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