ピアニスト 反田恭平、軌跡の“集大
成” 満場の観客が沸いた、リサイタ
ルツアー最終地・東京公演をレポート

2023年7月23日(日)、東京のサントリーホールで開催された『反田恭平 ピアノリサイタル 2023』東京公演。この日は、本格的にウィーンに拠点を移した反田の久々の日本でのリサイタルツアー最終日だ。7月中旬の猛暑の中、10日間で九州から東北まで7都市を巡るという強行スケジュールながら、最終日の東京公演での反田は疲れなど微塵も感じさせぬ集中力と熱量で満場の客席を魅了した。当日の演奏会の模様を振り返ってみよう。
ピアニスト反田恭平による日本リサイタルツアー。プログラムの内容もあいかわらず興味深い。前半は スクリャービン「幻想曲 作品28」、ラフマニノフの「前奏曲 作品3-2《鐘》」、そして同「ソナタ 第2番」のオールロシアプログラム。そして後半はショパン「バラード」全4曲 演奏という構成だ。
ご存知の通り、反田はつねにプログラミングにおいて明確な意図と文脈を持たせている。それはショパン・コンクールの第一次から第三次予選に至るプログラミングでもつねにそうだった。今回は、反田が20代前半に拠点をおいたロシアの作曲家、そして、その後、さらに自らの音楽に磨きをかけるべく居を移したポーランド出身の作曲家ショパンの作品をラインナップし、ピアニスト “反田恭平” の土台をつくりあげた二つの国の、そして敬愛する作曲家たちの作品を通して、自らが歩んできた軌跡の “集大成” といえるべきものを日本のファンに呈示したかたちだ。
中でも、ショパンに少なからず影響を受けた二人のロシアの作曲家、スクリャービンとラフマニノフの作品群をプログラム前半部に置き、ショパン作品を後半部に置くことで、そのリリシズムの源流や詩的なダイナミズムの源泉を改めて示唆する意図は実に面白い。そのような意味では、後半部で独創的で多彩、かつ自由な構成要素を基調とするショパンの一連のバラードをあえて全4曲演奏した意義は大きい。
第一曲目 スクリャービン 幻想曲―――ロマンティシズムの極致ともいえるこの作品を感情過多に陥ることなく、息の長いフレージングにおいても理知的にダイナミクスを構築。この気性の激しい長尺の“ソナタ”を格調高く弾き上げた。後半に進行するにつれてクラスター的重量感のある濃密な旋律が展開してゆくが、みずみずしく艶のある音と和声感でこの作曲家特有の神秘的ともいえる成熟した後期ロマンの芳香を燻(くゆ)らせ、冒頭から正統派のロシアンピアニズムの極致を聴かせた。
二曲目は ラフマニノフ 前奏曲「鐘」―――当初は「前奏曲 作品23-4」が予定されていたが同作品に変更。(作品23-4という)ショパンのノクターン風のものもこのラインナップの流れでは多いに期待されたが、次に置かれている 同作曲家による「ソナタ 第2番」への流れを考えると「鐘」への置き換えは文脈を重視する反田ならではの懸命な判断だろう。(「鐘」にもソナタ 第2番 にも共通してラフマニノフが常套的に用いた鐘の音を模した音型やグレゴリオ聖歌 “怒りの日(Dies Irae)” から想起された旋律が出現するのだ。)何よりも当日の演奏は、あえて変更する理由など述べるまでもない程に秀逸な演奏であった。
冒頭の十数小節の厚みのある重音のつらなりをここまで流麗にロマンティックに歌えるピアニストが他にいるだろうか――そう思わせるほどの詩的な導入に、この作品がクレムリン(と言われる)の鐘の音を象徴的に描いた威容を誇る作品というよりも、“Morceux de Fantaisie”と副題にもあるようにある種の“幻想的小品”であることを強く思い起させてくれる。
中間部(アジタート)の旋律で聴かせた渾身の歌心。テヌートやアクセントの付け方、そして独特な ”ため” のある節回しは若き日にロシアの空気を吸収し尽したであろう反田ならではの独自の境地といえるものだ。フォルテフォルティッシモ(fff)の重音の連なりからなる再現部を経て鐘の音が遠のいてゆく終結部(コーダ)―――音の強弱を通して精緻に練り上げられた遠近法の巧みさは絶品としか言いようがない。こういう箇所でも反田の中ではしっかりとオーケストラが鳴っているのだろう。最後の最後に響き渡る無言にも近い“言葉”の力を通してこの作品の本質が一段と伝わってきたように思えた。
前半最後はラフマニノフの大曲「ソナタ 第2番」。第一楽章――前曲の「鐘」から立ち上がることなく続けて演奏された。冒頭の性急な下降音型をともなう数小節による動機付けを激烈なダイナミクスレンジで一気に印象付ける。その後の第二主題と展開(“怒りの日”の旋律による)では、オーケストラルな重層感や対位法的な複雑さを緩急を効かせながら力強く訴求し、時に成熟した後期ロマン派ならではのいぶし銀のような滴の輝きを細部にしたたらせながら歌い紡ぐ。ここまでの流れの中で、長大なフレージングやパースペクティブにおける意図の明瞭さ、そして思索に満ちた深遠な音の世界に、反田が確実に“巨匠への道”を進みつつあると感じずにはいられない瞬間に幾度となく遭遇したことも付け加えておきたい。
第二楽章――ショパン ソナタ 第2番の第三楽章(葬送)にも通ずる荘重な世界観にあふれる。後半、カデンツァを経た後の回想部分――愛惜を覚えるかのようなピアニッシモの響きはこの世の存在を超越したものの何かを思わせるある種、霊感に満ちた美しさだった。
終楽章――コンチェルトを彷彿とさせる力強い技巧を見せつけながらも、壮大なロシアの大地の鼓動を独自のリズム感と歌でダイナミックに表現しているかのようだ。それはある意味で、幾重もの生命の営みの息づかいが生々しく感じられるようなリアリスティックさに満ちていた。多数の民族が生きるロシアの大地に交わり合う無数の言葉の響きや多種多様な人々の表情すら目に浮かぶような饒舌な言語が反田の生みだす一つひとつの節から滲みあふれる。映像を伴うという感覚よりも、生命あるものの感情がうごめく力強い鼓動がおのずと聞こえてくるのだ。
特に第二主題再現のTempo Rubatoでの “持って行き方” の巧みさは格別だ。そのままフィナーレに突入し、反田が得意とする同作曲家の 協奏曲 第3番 の終結部のあのダイナミズムが乗り移ったかのような説得力のあるエンディングへと帰結。その高揚感に、客席からは音の鳴りやまぬうちに待たずして拍手が起きるほどだった。
後半はショパンのバラード全4曲。前述したように、恐らく1番と4番だけでも十分にも思えるが、あえて全4曲の演奏だ。演奏順序は2→3→1→4番というところにその本質が見えてくる。
第2番 はやや序奏的な意味合いがあるにせよ、やはり第3・1・4番は印象的だ。特に第3番では、今まで反田のショパンというとマズルカなどの民族的な特徴のあるもの饒舌さが際立っていたが、ショパン・コンクール後、数年を経た今、よりいっそうギャラントな洒脱さも加わり、“遊び”とフランス風のサロン的“洗練”が備わった感がある。ショパンの常套句である軽やかなパッセージや装飾音も一皮も二皮も剥けたようだ。
大団円的なフィナーレもラフマニノフのそれとは打って変わって、パリのサロン的華やかさを絵に描いたような情景描写的な巧みさが印象的だ。それは色彩的感覚というよりも、むしろ反田の持つ独特な身体的感覚からおのずと生まれでる躍動感によるものと言ったほうが良いかもしれない。
第1番 は冒頭のあの有名な序奏部分こそ奇をてらうことなく真摯に大人びた情感を聴かせるが、やはりここぞという箇所でのフレーズの構築、大胆なまでのアゴーギク(緩急)の効かせ方の巧みさが際立つ。一歩間違えれば破綻しそうなところまで自由に崩す箇所もあるが、同時に見事なまでに様式感をも感じさせるという懐の深さがやはり「これぞ反田のショパン」というところだろう。そのあたり、今の反田がいかに自らの音楽に自信を持っているかがうかがい知れる。
そして、本プログラム最後を飾る 第4番。前曲の 第1番 と並んで今の反田を聴くには打ってつけの傑作だ。この作品特有の内面の心の高ぶり、内に燃えるパッションを“今の”反田がどう演奏するか興味深く期待感も高まる。
自らの心の赴くままに真摯に、そして曲想に忠実に淡々と演奏する姿がまず快い。しかし、そのシンプルな内省的表現の奥底に、やはり内声部の処理の巧みさや倍音効果を見事に駆使した和声の立体感が手に取るように感じられるのが、いかにも反田らしい。そして一つひとつのフレージングの作り方が何よりも緻密だ。この曲が内包するすべての要素を着実に際立たせることで高まる推進力とともに、ダイナミックレンジの幅も以前の演奏よりもさらに大きく縦横無尽な広がりを見せる。意義を持たせた詩的な間の取り方の巧みさなども含めそのディテールへの驚くほどの緻密な練り上げ方は、コンクール以降、さらに多くの大舞台を踏み、数多くのレコーディングを経て達した今の反田の一つの境地を物語るものだろう。
全曲を終えて満場の客席から万雷の拍手で迎えられる反田。客席の熱狂もかつてのような全員スタンディングオベーションというものではなく、今回のプログラムにふさわしい空気感の中での心のこもった“内に燃える”オベーションが清々しかった。
アンコールに応えて、ショパンの「ラルゴ」と「英雄ポロネーズ」 (ポロネーズの後の熱狂ぶりはやはりコンクール後の凱旋演奏会を彷彿させるものだった!)、そしてシューマン=リスト「献呈」。ドイツリートを学んだ筆者としては “ワオ” というほどマニエリスティックな “くずし” 方に度肝を抜かれたが、Mir beschieden~♪ というくだりのあのルバートを伴ったモルデントの妙なる美しさなど、ドキッとするほどに真に迫る “言葉” の美しさが随所にあふれており、最後までヨーロッパ音楽の神髄を格調高く、しかし、骨の髄まで堪能させてくれたことに感謝せずにはいられなかった。
終了後にはサイン会が行われファン一人ひとりと交流した
取材・文=朝岡久美子

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