『没後90年記念 岸田劉生展』が開催
 初期から最晩年までの作品を制作年
代順に展示し、画業の変遷を辿る

『没後90年記念 岸田劉生展』が、2019年より東京、山口、愛知で順次開催される。
明治の先覚者・岸田吟香(1833-1905)を父として東京・銀座に生まれた岸田劉生(1891-1929)は、父の死後、キリスト教会の牧師を志すが、独学で水彩画を制作するなかで、画家になることを勧められて、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に油彩画を学ぶ。そして、雑誌に紹介されたポスト印象派(当時は後期印象派)の画家たち(ゴッホ、ゴーギャン、マチスなど)を知り、「第二の誕生」と自ら呼ぶほどの衝撃を受けた。
《銀座数寄屋橋》1909年頃 油彩・板 郡山市立美術館蔵

《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年11月5日 油彩・麻布 東京国立近代美術館蔵 *重要文化財 [東京展、山口展に出品予定]

1912年には、斎藤与里、高村光太郎、萬鐡五郎らとともに、ヒユウザン会を結成、強烈な色彩と筆致による油彩画を発表する。しかし、画家としての自己の道を探求するために、「近代的傾向…離れ」に踏み出し、徹底した細密描写による写実表現を突き詰めた先に、ミケランジェロやデューラーなど西洋古典絵画を発見して、「クラシックの感化」を受けた独創的な画風を確立する。1915年には、木村荘八、椿貞雄らとともにのちの草土社を結成、若い画家たちに圧倒的な影響を与えた。最愛の娘・麗子の誕生とともに、自己のなかの「内なる美」で満たされた究極の写実による油彩画に取り組む。
《壺の上に林檎が載って在る》1916年11月3日 油彩・板 東京国立近代美術館蔵
その後、素描や水彩画の直截な表現のなかに「写実の欠除」の意義を見出すとともに、関東大震災により京都に移住した頃から、東洋美術(宋元院体画、浮世絵など)に特有の写実表現のなかに「卑近の美」を発見して、日本画にも真剣に取り組んだ。しかし、鎌倉に転居して、再び油彩画に新たな道を探求しはじめた1929年、満州旅行から帰国直後に体調を壊して、山口県の徳山において客死する。享年38歳だった。
《麦二三寸》1920年3月16日 油彩・麻布 三重県立美術館蔵

《黒き土の上に立てる女》1914年7月25日 油彩・麻布 似鳥美術館蔵

日本の近代美術の歴史は、フランスの近代美術を追随した歴史であったと言えるが、画家・岸田劉生は、ただひとり、初期から晩年に至るまで、自己の価値判断によって、自己の歩む道を選択して、自己の絵画を展開していった。フランス近代絵画から北方ルネサンスの古典絵画、中国の宋元院体画から初期肉筆浮世絵へと、西洋と東洋の古典美術を自己の眼だけで発見、探求することで、自己の絵画を創造、深化させたのだ。
《近藤医学博士之像》1925年3月20日 油彩・麻布 神奈川県立近代美術館蔵
本展では、岸田劉生の絵画の道において、道標となる作品を選び、基本的に制作年代順に展示することで、その変転を繰り返した人生の歩みとともに、画家・岸田劉生の芸術を顕彰しようとする内容となっている。
《路傍秋晴》1929年11月 油彩・麻布 吉野石膏株式会社蔵

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