《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員イ
ンタビュー〜 Vol. 7 豊竹呂勢太夫
(文楽太夫)

高音も難なくこなす美声、物語を克明に伝える語り。豊竹呂勢太夫(58)は今や文楽を担うとされる太夫の一人だ。初代国立劇場が閉場し、他劇場での公演をスタートした文楽。昨年12月のシアター1010に続き、2月は日本青年館ホールで公演……と新しい挑戦が続く中、今年芸歴40年となる彼は、どのようにこの芸能と向き合っているのだろうか?
“和”に魅せられ、人形劇に心惹かれて
趣味も義太夫関連のグッズ集めと、公私ともに文楽漬けの呂勢太夫さん。その原点は、幼い頃に親しんだ世田谷の祖父母の家にあった。
「母親が弟を産んだあと体調が悪かったため、私は曾祖母と祖父母が住む梅ヶ丘の家によく預けられていたんです。戦後すぐに建てられたような日本家屋で、庭に灯籠があり、冬は火鉢に鉄瓶が乗っていて。そこで和の雰囲気に親しみました。特に曾祖母は、武島羽衣さんに短歌を習っていたり、お茶をやっていたり、柳田國男さんと本を貸し借りしたり、道明寺の先代やこないだ亡くなった住職さんが家に泊まりに来たりするような文化人。全く大阪人の匂いのしない人だったのですが実は大阪の出身で、晩年の超高齢になった頃お風呂に入ったら『年寄りに新湯は毒』なんて『絵本太功記』の尼ケ崎の段の一節を語り出したりして。警察署長の娘で厳格な家庭に育ったのに、大阪人の体には義太夫節がしみ込んでいたんですね。この曾祖母がとても可愛がってくれ、よく渋い番茶を一緒に飲んだりしていたので(笑)、その影響は結構大きいんじゃないかと思います」
文楽を知ったきっかけは、1973年から1975年まで放映されていたNHKの連続人形劇『新八犬伝』。
「夢中になって見ていました。当時は私だけじゃなく、みんな好きでしたよね。そこから先がうちの親の変なところで、『そんなに人形劇が好きなら文楽というものがあるよ』と。親は別に、文楽がすごく好きだったわけではないんですよ。祖父母は歌舞伎を観に行っていたし、母は大学の時に日本舞踊をやっていたから、文楽も行ったことがある、という程度だったのですが、『新八犬伝』の音楽に義太夫の三味線が使われていることがわかるくらいの知識はありました。祖母の友人の息子の友達という人が国立劇場に勤めていたので、その方に文楽の切符を取っていただいて観に行ったところすっかりハマり、しょっちゅう切符をお願いしていたら、ある日、佐々木英之助さんという当時の養成課の一番偉い人が、カモが来たということで(笑)『文楽の人に会わせてあげましょう』と、楽屋にたまたまいた先代(五世豊竹)呂太夫師匠に紹介してくださいました」
しかし、呂勢太夫さんの父の転勤で富山県へ行くことに。すると佐々木は、地歌を習うよう勧めた。
「義太夫の三味線は大きくて子供には弾けないから、文楽では最初、地歌の三味線をお稽古することが多いんです。指使いがほぼ一緒なので。それで(地歌箏曲演奏家で人間国宝の)菊原初子先生のお弟子さんを紹介してもらい、地歌の三味線とお箏を教わりました。もともと楽器が好きで、家にあるピアノや祖母のお箏や太鼓で遊んでいましたし、ブラスバンド部ではパーカッション担当だったくらいなので楽しかったですね。新しいことを覚えてできるようになるのが嬉しくて。その先生は今95歳くらいなのですがお元気で、この前も巡業の際にお目にかかったんですよ」
≫10代で学んだ重造師匠、南部太夫師匠
10代で学んだ重造師匠、南部太夫師匠
2年ほど富山で過ごしたあと東京へ戻った呂勢太夫少年は、以前楽屋で挨拶をした呂太夫師匠の紹介で、13歳から四世鶴澤重造のもとへ通い始める。1899年生まれの重造師匠は当時80歳。新しい弟子は取らないと言っていたが、呂太夫師匠の頼みで引き受けてくれた。
「学校の帰りにお稽古に通いました。事前に録音を聴くこともなくまっさらな状態で行き、お師匠さんが一遍見本を聴かせてくれて2回目一緒にやって、3回目は一人でやって……稽古を録音しておいて後から聞き直すなんてこともしない、昔流の稽古で。重造師匠は指導が上手いと言われていて、私は孫みたいな年齢ですから可愛がってもらいました。『無理だと笑われるくらい、目標を高く持て』とよく言われましたね。あと、『今はカフェも映画もあって、誘惑がたくさんあるけれど、いつも浄瑠璃のことを考えていなきゃダメだよ』とも」
祖父が三味線の初世鶴澤重造、父が太夫の2世豊竹呂太夫だった重造師匠に、初めは三味線と語りの両方を教わっていたという呂勢太夫さん。
「どちらに向いているか分からないから、という理由です。ただ、私は当時ガリガリに痩せていたので三味線弾きのほうが合っていると思われていたようで、私が太夫になりたいと言ったら師匠はがっかりしていたと、師匠の奥さんに後から聞きました。どうして太夫を選んだのか、子供の頃のことなので今となっては上手く説明できないのですが」
高校生の頃(左)。鶴澤重造師匠(右)宅での稽古風景。      提供:呂勢太夫
太夫を志した呂勢太夫さんは、1982年、国立劇場文楽第8期研修生に編入し、2年後、五世竹本南部太夫に弟子入り。竹本南寿太夫の名で初舞台を踏む。
重造師匠と南部太夫師匠について、呂勢太夫さんが共通して印象に残っているのは、自身の師匠をどこまでも尊敬する姿勢だ。
「重造師匠は10代の時、自分の師匠である三世鶴澤清六師匠の三味線を取ってこいと言われて緊張して、 天神(三味線の一番上の部分)をぶつけて欠いてしまったのですが、清六師匠は最初怖い顔をしていたけれど途中で急に優しい顔になって、『お前には、まだ三味線の大切さは分からない』と許してくれたそうです。その話を、80代の重造師匠は涙を流しながら話すんです。南部太夫師匠も同じで、修業時代、自分の師匠である先代の南部太夫師匠が熱で舞台に出られなくなって代役を仰せつかり、三味線の二世野澤喜左衛門師匠の宿屋で朝まで稽古してもらって戻ったら、師匠は熱があるのに寝ずに待っていてくれたという話をしながら、やはり号泣するんですよ。何十年前の話なのに、その時の感情が蘇るほど師匠を尊敬している。子供心に、文楽の師弟ってすごいなと感じました。我々の世界では、師匠の言動も芸に対する取り組み方も、すべてを身近に見るわけですよね。若ければ若いほどこっちも素直で、自分の価値観がまだないから、そういうものが染み付く。悪く言えば“洗脳”ですが(笑)、ビジネスライクなお付き合いではなく、ものすごく密着した師弟関係なんです」
南部太夫師匠のもとで兄弟子となった松香太夫との出会いも大きかったという。
「とても親切な方で、文楽人としての常識や言動、考え方を仕込んでくれました。例えば、何か失敗したら、翌日ではなくすぐに謝りに行け、行ったら『こんな遅い時間に来やがって』と師匠は言うけど、一晩放っておいて翌日行くより、怒られてもすぐに謝るなり何なりして解決しておく方がいい、とか。どなたかに稽古していただいて自分の師匠と違うことを教わったあと、その方と師匠と両方の前でやることになったら、師匠じゃない方に教わったことをやれ、師匠は怒ってもまた教えてくれるけれど、他の人は『わしの言うことを聞かない』となったらもう教えてくれない、とか。入門当初は松香兄さんに毎日怒られていて、本当に口うるさい人だなと逆恨み(笑)していましたが、今となっては自分の財産。松香太夫兄さんが最初に色々細かく教えて下さったお陰で、厳しい文楽の世界で今まで曲がりなりにもやっていくことができましたので、本当に感謝しています」

≫呂太夫師匠、嶋太夫師匠のもとで研鑽を積む

呂太夫師匠、嶋太夫師匠のもとで研鑽を積む
南部太夫師匠は、弟子入りの翌年にあたる1985年に他界。同年、呂勢太夫さんは、かつて楽屋で挨拶をした呂太夫の門下となり、1988年には豊竹呂勢太夫と改名した。高齢だった二人の師匠と違い、呂太夫は当時40代に入ったばかり。勢いに乗る壮年期の師匠の姿は刺激になったことだろう。
「呂太夫師匠は当時超売れっ子で、付き合っている方も超一流。美術家の朝倉摂さん、イサムノグチさん、当時の日本舞踊のトップクラスの名手である先代の吾妻徳穂さんや吉村雄輝さんといった方々とおつき合いしておられました。そんな方々と仕事をされる時、鞄持ちとして私も連れて行っていただいたり、一緒の舞台に出させていただいたりしたことも、貴重な体験でしたね。そして、太夫としての基礎はほとんど呂太夫師匠に教えていただきました。若い頃、今の(竹本)錣太夫兄さんが誘ってくださってよく一緒に勉強会をやったのですが、そういう時の呂太夫師匠の指導は、細かいところというより、ぶつかり稽古というか、『もっといけ、もっといけ』『いっぱいに語れ』という感じ。考えてみれば、南部師匠もいっぱいに語られる方でしたし、(のちに師事する八世豊竹)嶋太夫師匠も、それから(現在、組むことが多い三味線の鶴澤)清治師匠も『いっぱいにやれ』とおっしゃる方ですから、私の師匠方はどなたも方針が一緒。細かいところの技術がどうこうより、浄瑠璃に対する取り組み方が間違っていることのほうが、ものすごく怒られます」
太夫の語りには技巧が散りばめられており、闇雲に力で押してできるものではない。いっぱいに、と言われても、若い頃はなかなか難しい。
「呂太夫師匠の弟子だった20歳くらいの頃、素浄瑠璃の会で『一谷嫩軍記』の熊谷桜の段を勤めた時、『ヤイ、なまくら親仁(おやじ)め!』という梶原の詞のところを大きく太く言おうと滅茶苦茶に気張ったら、本番の舞台で『オエッ~』とえずいて咳き込んで中断してしまったんです。聴きに来てくださっていた(四世竹本)越路太夫師匠のお宅に翌日、お礼にうかがったら、すごくニコニコしながら『君、昨日舞台で咳込んでいたね』『気張ったら喉がイガイガしてああいうことになるのだとわかっただろう。よろしい』と。よろしいわけがないのですが、間違ったことをやるとこうなるということを、人前で恥ずかしい思いをして、身をもって知ったのだから、それはそれでいい、という理屈なんです。嶋太夫師匠もよくおっしゃっていました、『1年生は1年生の浄瑠璃、10年生は10年生の浄瑠璃をやれ』『通っていくべき道を通らずにズルしていこうとするのは絶対にアカン』と。上の人からしたら、この曲をこいつがやれば当然こういう個所で失敗してこうなるだろうと予想がつくので、失敗しないように逃げてやるほうが怒られるんです。一生懸命、失敗を恐れず挑戦して行くほうがためになる。嶋太夫師匠は『技術がないんだから、お前がこんな役をやって喉を傷めないほうがおかしい。痛まないように加減してやるんじゃなくて、痛めては治し、痛めては治して……を繰り返すことで声の幅も芸の輪郭もできるんだ』と。実際、太夫の師匠方で、若手が舞台で喉を痛めて怒る人はいません。『声の使いようが間違っているから痛むんだ』『気張ってるさかい、そうなるんじゃ』とは言っても、痛めないようにやれとは言わない。やっている本人もガラガラ声を聴かされるお客さんも辛いけれど、そういう時こそ勉強になるんです」
2000年に呂太夫師匠が55歳の若さで帰らぬ人となり、嶋太夫師匠の門下となった呂勢太夫さん。2020年の逝去まで20年間、一番長く師弟関係を結んだ嶋太夫師匠は、教え方に定評がある人物だった。
「相手が誰でも同じように教える方もいますが、嶋太夫師匠は人によって言うことを変えるんですよ。この話としてふさわしいかどうかわからないのですが、巡業の解説で私が『義太夫節はまず若いうちに形を覚えて、それから人生経験などを反映してプラスアルファを加えていくんです』という話をして楽屋へ帰ったら、師匠が目を三角にしているんです。『浄瑠璃は形と違うねん。大事なのは情や。何を言ってるんや』とめちゃくちゃ怒られた。ところが翌日、師匠が若い弟弟子の稽古をしているのを聞いていたら『まず浄瑠璃は形や!』(笑)。今思うと、私が、何十年もやっているのにいまだに形なんかに囚われている、と思われて、そうじゃないとおっしゃりたかったんだろうと思います。その人の芸歴や今の力に応じて、必要なことをちゃんと教えて、舞台に出られるよう整えて下さる師匠でした」
技芸員によって昨年出版された本「文楽名鑑2023」の「怖いもの」の項目に、呂勢太夫さんが「師匠(亡くなった今でもしょっちゅう夢に出る)」と書いたのは、この嶋太夫のことだ。
「これは笑い話ですけど、師匠が引退されたあと、若い人たちの勉強会があったんです。その翌日、師匠のお宅にうかがったら『昨日の会を聴いて、〇〇(ご自分の弟子)を厳しく叱ったから、もう明日から来ないかもしれない』と心配しているんですよ。『そんなことはないと思いますが』などと話していたら師匠が『まあ、あんたは子供の時からやっていて文楽は厳しい世界だと見知っているから、何を言っても大丈夫だけど』とおっしゃる。『えっ、そう思われていたの?』と結構ショックでしたね(笑)。師匠からはよく、『お前は将来、人に教えなきゃいけない。自分だけできたらそれでいいんじゃなく、自分が教わったことを後輩に伝えていかなきゃいけない。だから特別な稽古をしているんや』とも言われました」
※『一谷嫩軍記』の嫩の字の右側は正しくは「欠」となります

≫人間国宝・鶴澤清治と組んで

人間国宝・鶴澤清治と組んで
呂勢太夫さんは勉強会にも精力的に取り組み、若手の賞なども毎年のように受賞していたにも関わらず、本公演でずっと役がつかず不遇の時を過ごす中、2008年から三味線弾きの人間国宝・鶴澤清治の三味線と組むようになる。以来、15年超の歳月が流れた。
「清治師匠に引き上げていただき、大きな役をいただけるようになりました。師匠に特に教わったのは、勉強の仕方。最初の稽古の前には自分でお手本の録音を聴いて勉強していくのですが、例えば自分が録音を聴いて、この曲は『四角いものだ』と思って四角く作って行くと、『何を聴いてるんだ? 全然違う。三角だよ』。え?と思うのですが、言われて家に帰って改めて聴き直すと確かに『三角』なんです。力がないから正しく取れていない。そういうのがたくさんあるんですよ。最初の頃は特に”完コピ“をしてくるようにと言われました。自分流なんてとんでもない。画家でも何でもまず模写だろう、と。越路師匠の完コピなんてできるわけがないのですが、必死にテープを聴いて真似しても『全然違う。越路さん、そんなんとちゃうわ』って。『仮名手本忠臣蔵』の六段目(勘平腹切)の『母は涙の隙よりも、勘平が傍へ差し寄つて』と言うところを稽古してもらっていた時に、『越路さんだとね、おばあさんが横にググっと近づいてくる気配を語りに感じたわ。君のは何もない』。嬉しいとか悲しいとかそういう文章だったら、嬉しかったら嬉しそうに、悲しかったら悲しそうに語らないといけないことくらいは誰でもわかりますが、『勘平が傍へ差し寄つて』なんて、ただ勘平のそばに近寄ったという説明の文章。それを、おばあさんがずーっと迫って来た気配を感じたと言われて。それを表現される越路師匠は勿論ですが、そういうところまで感じ取ることができる感性をお持ちの清治師匠も、やっぱり名人ですよね」
その清治師匠との稽古では、一緒に録音テープを聴くこともあるという。
「清治師匠がお手本のテープを取り出してきて、『君はこう言ったけど、越路さんはそうは言ってないよね(ガチャッ)』と再生されて、一緒に聴く。『ここをゆっくり語ったら次は早く言ってるだろ。君、どっちもテンポが一緒』とか、そういうふうに、聴くべきポイントを教えてくださるんです。あと、これは本当に身の細る思いがするのですが、私との稽古の録音を再生しながら『ほら、ここ、こうなっているじゃないか、全然感情出てないよね』。恥ずかしいし情けないけどすごくためになります。普通、清治師匠くらいになったら、もう過去の人の録音なんて聴かないで自分流になさると思うでしょう? 何回もやった役でも、必ず過去の録音を聴き直す。初めての役だったら、ご自身も先人の完コピをされる。本当に勉強になります」
その清治師匠との本番中のエピソードは本連載Vol. 5の清治師匠のインタビューにも載せたが、ここで改めてご紹介しよう。
「清治師匠に引き上げていただいて1年ほど経った頃、師匠が作曲を手掛けた『天変斯止嵐后晴(てんぺすとあらしのちはれ)』の本番中、急に師匠の三味線の演奏にものすごく力が入ったんですよ。終わって盆がぐるっと回ったあと、『君ね、休憩するなら楽屋でして』『僕は相手が越路さんだろうと誰だろうと同じ気持ちでやっている。君はそれが足りない』。手抜きなんかしていたつもりは全くないのですが、足りないというわけです。舞台に出ていた人形遣いの(吉田)玉男さんが『今日の三味線、凄かったね』とおっしゃったので『僕が舞台で怒られていたんです』と答えて。それくらい、すごい迫力でした。『自分はこんなふうにやっているんだ』と横で示してくれた。いっぱいに語ること、それは今も本当に、いつも肝に銘じています」
令和4年5月国立劇場文楽公演にて        撮影:小川知子 

≫​芸歴40年から、その先へ

芸歴40年から、その先へ
2024年は、呂勢太夫さんにとって、芸歴40年の節目となる。
「次々と課題が出て、それをクリアすることで精一杯。うっとり悩んでいる場合ではなかったです。色々な方に、それこそありとあらゆるご注意を受けて来ましたが、これだけは言われたことがないのは、『浄瑠璃が好きじゃないのか?』。義太夫が好きなので、やめようと思ったことはまあないですかね。もちろん怒られて落ち込むとかできなくてとか、そういうのはありますけれども。若い頃はフシが合っている間違っているというような上っ面のレベルでしたが、今はそういうレベルを過ぎたからこそ、余計に昔の先輩や師匠方の凄さがわかる。それに引き換え自分は……と考えると、辛いし恥ずかしい。最近になって、義太夫は本当に難しいということが、身をもってわかってきました」
難しさは、関東出身である点にも感じているという。
「以前、(竹本)源太夫師匠にお稽古していただいた時、『訛っているかと言えば訛っていないし、間違っているかと聞かれても間違っているとまでは言えないけど、私が聞いたら気持ち悪い。何や違う』と言われました。山城師匠(豊竹山城少掾)のような関東出身の名人もいらっしゃいますが、やっぱり上方の芸能だというのは間違いないですから。東北の、例えばズーズー弁は、イントネーションだけではなく声の出し方も違いますよね。今はもう無くなってきているのかもしれないけれど、大阪にも本来はそういうものがあって、(竹本)住太夫師匠によく私は発声が『地声ばっかりでオンがない』と怒られていました。やはり、完コピを頑張るしかないですね」
一説には、太夫は三味線が弾けると良くないとも聞く。両方を学んだ呂勢太夫さんはどう思っているのだろうか。
「よく言われますね。確かに三味線をわかってしまっていることによる弊害というのはあるかもしれません。三味線を知らない人は三味線の枠から出て語ることができるのですが、知っていると枠からなかなか出られない。次にどうなるかがわかるから、どうしても輪郭というか、スケールが小さくなってしまいがち。『枠から抜けろ』と言われ続けてきました。でも、昔の太夫には三味線が弾ける人も多かったんです。例えば、竹本摂津大掾師匠は元三味線弾きですし、三味線を弾きながら他人に稽古をする太夫は結構いたので、根本的な問題ではないのかなと思っています」
呂勢太夫さんが初舞台を踏んでからの40年で、文楽自体も、そして文楽を巡る状況も、変わった。その中で呂勢太夫さんはどんなことを感じているのだろうか。
「やっぱり一番はコロナです。あれ以来習慣が変わり、他の人の舞台を聴かずに自分の出番が終わったら帰る若い人も増えました。でも本当は、良いものも悪いものも、観たり聴いたりするのが大切なんです。その時は分からなくても。そういうことをしている人が少なくなったことは一番心配していますね」
さて、2月は清治師匠と『艶容女舞衣』酒屋の段の奥を勤める。大坂上塩町の酒屋・茜屋の半七は、美濃屋の三勝とかねてより恋仲で、妻・お園を娶りながらもお通という子供を儲け、家に帰らず、お園の父・宗岸はお園を連れ戻す。ある日、半七の父・半兵衛とその女房が、丁稚に連れてこられた捨て子を不憫に思って引き取ることにしたところへ、お園の妻としての貞節に打たれた宗岸が、再びお園を連れてくる。捨て子を見てお通だと気づくお園。お通の懐から出てきた書き置きを読み、ひょんなことから人を殺めた半七と三勝が死ぬ覚悟であることを知った一同は嘆き、外ではその様子を見ながら半七と三勝が不孝を嘆く——。呂勢太夫さんは2022年の前回に続いて、この奥を語る。
「嶋太夫師匠が、皆が交代で手紙を読む場面がすごく難しいとおっしゃっていました。登場人物は多いのに、手紙を読むだけですから、語りだけであの光景を形にするのは大変なんです。手紙だからあからさまに全て感情を入れてはダメで、例えばお園が読んでいるところはそこにお園の感情はもちろん入るのだけれど、ただ文字を追っている感じのところもあって、どこもかしこも感情を入れて語ったら読んでいるように聞こえないし、何もなくただ読んだら今度はお客さんに何も伝わらないから、読んでいることによっての感情みたいなものは出さなければならないし」
その手紙の場面の前には、お園が一人、夫を想いながら「今頃は半七つぁん、どこにどうしてござろうぞ」と嘆く有名なクドキがある。
「昔はあのくだりは誰でも知っている名曲中の名曲でしたが、現代人にお園の気持ちはわかりにくいですよね。いっそ自分が死んでしまったら、というような感覚は今の人にはないでしょうから、それをどう伝えるか。とにかくやればやるほど新しい発見や新しいできないところが出てくるので、今回もドキドキしています」
今、58歳。60代、70代をどう見据えているのか、訊いた。
「昔の師匠方が私らの年齢の時には、もっとすごい浄瑠璃を語っていたので、焦ります。ただ、一応それを生で聴けたことは、一つの財産です。やっぱり、録音って全然違うんですよ。(竹本)津太夫師匠の浄瑠璃なんか、録音では本当の良さが全く出てないですから。その一方で、後輩も伸びてきているので、目標は、追い抜いていった後輩に追いつくこと(笑)。私はいつもいっぱいいっぱいなのですが、それはいっぱいにやらなきゃいけないっていうこととは違う。後輩でも、(竹本)碩太夫くんなどは芸に余裕がありますよね。若いから経験不足なところも当然あるけど、お客さんが余裕を持って聴くことができる。語る中身に関しても、例えば(豊竹)靖太夫くんなんて聴いていると情が出ていて凄いなと思う。(竹本)織太夫さんのあのスケール感なんかも。私にないものを持っている人は目標にしたいですね。若い頃は浄瑠璃の本当の難しさなんてわからないから、あんな役やりたいなとかああいうのを語ってみたいな、などと気楽に思っていましたけど、今、現実にそれが来ると大変。こんな凄い曲、覚えられないだろうとか最後まで語るの無理だろうとか配役が出る度にドキドキです。清治師匠にはいつも『本読みが足りない』『君、この作品で何をお客さんに伝えようとしているの?』と言われるので、もっと作品の世界を掘り下げていかなければと気を引き締めています」

≫「技芸員への3つの質問」

「技芸員への3つの質問」
【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード
昔は、自分の師匠と一緒に行かない巡業に弟子が連れて行って貰う時は、その巡業に行く偉い人に師匠が「南寿太夫をお願いします」というふうに頼む習慣があったんです。師匠がいない開放感で野放し状態にならないよう、巡業の間はその人を師匠だと思って、その師匠の用事もするし、向こうも弟子を連れてご飯に行く時なんかは自分の弟子でないその人も一緒に連れて行ってくれるんです。初めて夏の「青少年芸術劇場」という巡業に行った時は津太夫師匠がトップで、南部師匠が直接頼んでくれました。南部太夫師匠は小柄ですが津太夫師匠は大きな方なので、袴を畳むのも全然勝手が違っていて(笑)。津太夫師匠は、例えばご自分がカレーライスを注文したとして、弟子が遠慮をして自分もカレーライスを、と言うと、「わしはカレーライスでもお前は好きな物を食べたらええ」と怒るから、好きな物を頼んだらいい、とお弟子さんに言われました。私は試しませんでしたけど(笑)。そういえば、これは呂太夫師匠の方針だったのですが、自分の師匠以外にもほとんどの太夫さんから稽古をしていただきました。辞められた(豊竹)十九太夫さんから芸の注意を受けた人はあまりいないのですが、私は結構注意されましたし、住太夫師匠に弟子以外で一番叱られたのも私かもしれないですね。私が悪くなくても、「何故、弟弟子のあいつらに言ってやらへんねん、水臭いやつやなあ」なんて怒られて。脳梗塞から住太夫師匠が復帰されて楽屋の前に行ったら「ロッセー、ロッセー」と反復発声しておられるのが中から聞こえてくるんですよ。挨拶するのに中に入ったらニヤッとしながら「これ、言いにくいから練習してるねん」って(笑)。
【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること
やっぱり、私が最初に文楽に接したのが、1974年11月の国立劇場ですから、私の人生の中では大きな存在です。今思えば若手公演でしたが、『加賀見山旧錦絵』長局の段を十九太夫さんが語っていて。尾上がお初と話している場面でお客さんが笑ったので、私が母親に「どうして笑っているの?」と聞いたら、うちの親はちゃんとわかっていて『自分は歌舞伎より浄瑠璃が好きだ』と言ったからだよと説明してくれましたよ。草履打の段で、だんだら幕が落とされると角隠しをつけた奥女中たちがズラーっと並んでいてすごく綺麗だったのもよく覚えています。
2代目の劇場にはとにかく、1日も早く完成していただきたいです。東京での本拠地がなくなるとは夢にも思っていなくて。お客さんあっての文楽ですから、東京のお客さんが、文楽がないと生きていけないと思っていてくださらなければいけない。だからこそ違う劇場で公演をするわけですが、とにかく途切れてしまわないよう、文楽の禁断症状(笑)を維持していただかないと困るんです。
【その3】オフの過ごし方
私は趣味も職業も義太夫なので、骨董市に行って義太夫関連のグッズを探すくらいでしょうか。清治師匠からは「君ねえ、物より人間にもっと興味を持った方がいいよ」と冗談交じりに言われて、確かにそうだなとは思うのですが。見台コレクションの中での一番自慢の品は、戦前の見台屋さんの広告にもなった見台。文楽の見台って、遠目には立派でも近くで見ると本当に凝っているものは少ないんです。でもこの見台は蒔絵が豪華で工芸品としてもものすごい。それが宝物です。まだ使ったことはありません。昔と違って今は劇場も乾燥していますから、迂闊に持っていくとひび割れて壊れてしまいかねないのですが、使わないで持っているのも意味がないので、いつの日か……。
見台屋さんの広告にもなった見台。    提供:呂勢太夫

取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)

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