ウィーン国立バレエ団専属ピアニスト
が奏でる、「バレエ音楽」のみの珠玉
のコンサート 滝澤志野インタビュー

2023年7月、ウィーン国立歌劇場・バレエ団専属ピアニストの滝澤志野が「バレエ音楽の輝き」と題したリサイタルを行う。本番を前に、滝澤のインタビューが到着した。

ショパンの《椿姫》……?
ここに1枚のピアノ曲集CDがある。ショパン、リスト、チャイコフスキー、プロコフィエフ、ガーシュウィン……。おなじみの作曲者名がならぶ。
だが、曲名をよく見ると、一般のクラシック・ファンには耳慣れない表記が付いている——〈バットマン・タンデュ〉〈ピルエット〉〈ポアント〉……。
お気づきのように、これはバレエ・レッスン曲集なのである。『Dramatic Music for Ballet Class 1』と題されている(製作・販売:新書館)
よって、なかには、《「椿姫」第3幕より(ピアノ協奏曲第1番より第2楽章、ショパン)》などという不思議なトラックもある。
ここでいう《椿姫》とは、ヴェルディのオペラではなく、バレエ《椿姫》(ジョン・ノイマイヤー版)のことで、使用されている音楽が、ショパンなのだ。
おなじ演奏が2回続けて収録されているトラックもある。ウォーム・アップのバー・レッスン用だ。必ず左右2回おこなうので、いちいち戻し再生の必要がないよう2回連続で収録されているのだ。
このCDはピアニストのいないバレエ教室や、自習用として大人気で、現在まで5タイトルをリリース、ロングセラーとなっている。
ピアノ演奏は滝澤志野さん。
一般のクラシック・ファンはご存じないかもしれないが、ウィーン国立バレエ団の専属ピアニストである。バレエ界では世界的に知られた存在だ。
その滝澤さんが、この7月、大阪と東京で、たいへん珍しい「バレエ音楽」だけで構成されたコンサート『滝澤志野ピアノリサイタル~バレエ音楽の輝き~』を開催する。
だが……バレエ・ピアニストとは、一般のピアニストと、どう違うのだろうか。
そもそも、日本人の滝澤志野さんが、いかにして、世界最高のオペラハウスの専属バレエ・ピアニストに採用されたのだろうか。
帰国を前に、多忙な日々を過ごすウィーンの滝澤さんに、お話をうかがうことができた。
◆東京中のバレエ団に電話をかけて……
「私は大阪・堺の生まれですが、両親の影響で、子どものころから舞台芸術が大好きでした。ミュージカル、宝塚歌劇、歌舞伎……ところが、ステージよりも舞台裏のほうに興味津々だったんです。舞台上がこんなにすごいのなら、稽古場では、もっと大きなドラマがあるはず。どんな舞台裏なんだろう……と」
ピアノは幼稚園のころから習っており、大学は桐朋学園大学短期大学部のピアノ専攻に入学した(のちに同学部専攻科修了)。
「大学に入学した時、将来、ピアニストになろうと決意しました。ただし、“バレエ・ピアニスト”という仕事があるなんて、まったく知りませんでした」
転機は、大学4年のときに訪れた。
「演劇科バレエ授業のピアノ伴奏を1年間務めることになったのです。講師は、東京シティ・バレエ団芸術監督の安達悦子さんでした。そのとき初めて、バレエ用のピアノ譜を渡されて弾いたのですが、この仕事は自分に向いている、と思いました。というのも、私は3歳のころからヤマハ音楽教室に通い、専門科で作曲を習っていたため、即興演奏が得意だったんです。演劇科の授業ですから、それほど本格的ではありません。それでも、1年かけてバレエレッスン伴奏に親しんでゆき、新しい道が目の前に開けたような気がしました。憧れていた舞台裏の仕事でもありますし」
卒業後は、バレエ・ピアニストとしてのスキルを磨くために、ステージ・ピアニストのかたわら、バレエ教室やオペラの伴奏ピアニストをつとめ、4年ほどを過ごした。
「ある程度、自信がついたタイミングで、東京中のバレエ団に電話をかけて、バレエ・ピアニストの募集がないかを聞いてまわりました。そのなかで、ただ一か所、新国立劇場バレエ団だけが、『とりあえず履歴書を送ってください』と言ってくれたんです」
たまたま新国立劇場は、学生時代から「Z席」で通っていた憧れの劇場だった。
「履歴書を送ったら、すぐに1回弾きにきてくれといわれ、出かけました。それから、たびたびエキストラで呼ばれるようになり、次の年からレギュラーピアニストにしていただきました。その後しばらくしてからは、作品を弾くリハーサルピアニストとしても契約していただくようになりました」
こうして、滝澤さんのバレエ・ピアニスト人生がはじまった。
「当時の芸術監督は、牧阿佐美さんです。いくつかの作品で稽古ピアノをつとめましたが、ちょうど、次の芸術監督であるデヴィッド・ビントレーに交代する時期で、2010年《ペンギン・カフェ》の日本初演にかかわることになりました。エンタテインメントと芸術性の両方を兼ね備えたクリエイティブな作品で、ピアノを弾いていて、ほんとうに面白かったです」
バレエ・ファンならご存じ、あの《ペンギン・カフェ》は、滝澤さんが日本初演のピアノ伴奏を担当していたのだ! ビントレーの代表作で、1988年、イギリスのロイヤル・バレエで世界初演された。環境破壊をモチーフに、さまざまな動物たちが登場する、バレエ史に残るユニークな作品である。
「新国立劇場では7年ほど、契約ピアニストをつとめましたが、次第に、ヨーロッパの本場のバレエ団で弾きたいと思うようになりました。このままフリーランスでいることにも不安をおぼえはじめていたものですから」
そして今回も、“待つ”ことはしなかった。2011年、自らヨーロッパへ飛び出していったのである。
◆カウントをとるイギリス系に対し、ウィーンでは……
「ヨーロッパのバレエ・ピアニストは、基本的に専属です。そして、歌劇場には必ずバレエ団がある。ドレスデン、ベルリン、リンツ……いろいろな歌劇場のバレエ団を見学してまわりました。ですが、圧倒的第一希望だったのがウィーン国立歌劇場のバレエ団です。私は、6歳の時に家族旅行でウィーンへ来たことがあり、その時から自分のなかの原風景のようなイメージを、ずっと持っていました。就職活動の前の年に再度訪れて見学に入った瞬間、ビビッとくるものを感じ、“ここで働きたい”と思ったのです」
翌日、ピアニストのひとりからカフェに呼び出され、ちょうどピアニストが1人やめるところだと告げられた。自らのキャリアと希望を話すと、さっそくオーディションとなり、採用が決まった。
新国立劇場での採用といい、まさに滝澤さんには、運と才能の両方が備わっていたとしか思えない。
「ところが、実際に働き始めてみると、そう簡単にはいきませんでした。正直なところ、最初の数年間は、たいへんつらかったです」
世界最高の歌劇場、そのバレエ団の仕事は、さすがに日本とは内容がちがった。
「私は、日本ではイギリス系、ロシア系メソッドのものを多く弾いていました。新国立劇場では、特にロイヤル・バレエのフレデリック・アシュトンやケネス・マクミランの振付け作品が多かったです。イギリス系はきちんとカウントをとるので、伴奏もしやすい。ところがウィーンは、芸術監督マニュエル・ルグリがパリ・オペラ座出身で、ピエール・ラコットやルドルフ・ヌレエフの系統だったため、振付けがフランス系なのです。カウントなどとらない。なんというか……ポエムのような振付けなんです。そのため、なかなか慣れることができず、ダンサーから『そうじゃない』と、何度もいわれました」
おなじ作品なら、使用される楽譜もおなじだ。ところが、誰が振付けるかによって踊りが変わるので、当然ながら演奏のニュアンスも変わる。そこを理解し、すぐに対応するのが、プロのバレエ・ピアニストだ。楽譜どおりに弾いていればいいわけではないのである。
しかもウィーン国立バレエの専属ともなると、単なる伴奏だけではなく、スタッフの一員としてすべてをまかされるような面もある。
「本番でピアノを弾く仕事もあるんです。たとえばジョージ・バランシン振付けの《アレグロ・ブリランテ》では、チャイコフスキーの未完のピアノ協奏曲第3番第1楽章が使われています。そういうときは、ウィーン国立歌劇場管弦楽団と一緒にピットに入って、コンチェルトを弾きます。こうした仕事を続けるうちに、次第に周囲との信頼関係が生まれ、ようやく緊張がほどけてきたのが、2016年ころだったでしょうか」
それにしても、普段の仕事は、本番前のトレーニングやリハーサルにおけるピアノ伴奏が中心だ。
だが本番で演奏するのは、指揮者が振るオーケストラである。つまり本番では“別人”が伴奏するわけで、それによって生じる齟齬はないのだろうか。
「たしかに事前のピアノと、本番のオーケストラは、まったくおなじではありません。でもダンサーも指揮者もその点はもう慣れていて、小さな誤差を認めあいながら修正して、まとめています。オーケストラのコンサートだって、本番になると、細かい点がリハーサル通りではないことがありますよね。あれとおなじです。そもそも私の仕事は、本番でのオーケストラの響きを想定していなければなりません。管楽器ではこれ以上は息を伸ばせないだろう、大人数のオーケストラではこんなに速く演奏できないだろう……それらを考えながら伴奏しているので、本番でも、おおむねその通りにいっていると思います」
現在、ウィーン国立バレエは、シュターツ・オーパー(国立歌劇場)とフォルクス・オーパーの2か所で、年間に計100公演近くを上演している。人気があるのは、やはり《白鳥の湖》や《ドン・キホーテ》といった名作だ。
「この2作は、1961年に旧ソ連からフランスへ亡命したルドルフ・ヌレエフがウィーンで完成させた振付けなので、特に人気があります」
◆コンサートの“隠し玉”とは?
ところで、7月の日本でのリサイタルだが、おそらく、このようなコンサートは見たことも聞いたこともない方がほとんどのはずだ。
「バレエで使われる音楽のみをピアノで演奏するコンサートです。たしかに私自身も初めての経験です。でもすべて、ウィーン国立バレエの十八番〔おはこ〕で、長年ウィーンのお客様に愛されている曲ばかりなんですよ。たとえば、ショパンの《マズルカ第13番》と《ワルツ第14番》は、『ウエスト・サイド・ストーリー』などで知られるジェローム・ロビンズ振付けの舞台作品で使用されている曲です」
本来は観賞用ではないバレエ音楽を「コンサート」で演奏する——どこからこのような発想が生まれたのだろうか。
「長年、バレエ音楽を弾いているうちに、バレエの世界だけに留めておくのはもったいないと思うようになりました。バレエの世界には、こんなに美しい音楽があるのだということを、一般の音楽ファンにも知っていただきたい……さらに、できればクラシック・ファンとバレエ・ファンのかけ橋になるような、そんなコンサートができないかと思うようになったんです」
ゆえに今回は、チャイコフスキー《くるみ割り人形》のような人気曲もある一方、滝澤さんならではの“隠し玉”も用意されているのだという。
「プロコフィエフ《ロミオとジュリエット》の〈バルコニーのパ・ド・ドゥ〉です。第1幕の最後の部分で、10分近い演奏時間を要します。私はこの部分が大好きで、CD第1集の最後にボーナス・トラックとしてノーカットで収録したほど、思い入れのある曲です。
それがリサイタルで演奏されるというのだが、いったい、そのどこが“隠し玉”なのだろうか。
「プロコフィエフは、このバレエから10曲構成のピアノ組曲をつくっていますが、残念ながら〈バルコニーのパ・ド・ドゥ〉は、入っていないんです。ですから、この部分をピアノで聴いたことのある方は、あまりいらっしゃらないと思います。序曲も含めて、新しい音楽体験をして頂けるのではと思っています」
東京会場は、銀座のど真ん中「王子ホール」。世界トップレベルのアーティストが名演を繰り広げている、室内楽の名門ホールだ。
そして大阪会場は生まれ故郷、堺市の「フェニーチェ堺小ホール」。
「実は1990年、第1回堺ピアノ・コンクールで金賞をいただいた、それが私のピアニスト人生の最初の”賞”なんです。それだけに、地元・堺市や家族への恩返しになればとの思いもあります」
今後は、バレエ・ピアニストとしてはもちろんだが、バレエ全幕をピアノで演奏するようなコンサートにも関心があり、バレエ音楽の美しさを広く伝えていきたいという。
また、いままでのキャリアを生かした、劇場文化の振興にも興味をもっているようだ。
「バレエとピアノには、たいへん深い親和性があります。特に、チャイコフスキーとプロコフィエフのバレエ曲はとてもピアノ向きだと思います。そんな新しいピアノ音楽の魅力を、多くの皆様に知っていただきたいと願っています」
もしかしたら、今回のコンサートは、ピアノ・リサイタルの歴史を変えるような、そんな一夜になるかもしれない。
取材・文=富樫鉄火(音楽ライター)

SPICE

SPICE(スパイス)は、音楽、クラシック、舞台、アニメ・ゲーム、イベント・レジャー、映画、アートのニュースやレポート、インタビューやコラム、動画などHOTなコンテンツをお届けするエンターテイメント特化型情報メディアです。

連載コラム

  • ランキングには出てこない、マジ聴き必至の5曲!
  • これだけはおさえたい邦楽名盤列伝!
  • これだけはおさえたい洋楽名盤列伝!
  • MUSIC SUPPORTERS
  • Key Person
  • Listener’s Voice 〜Power To The Music〜
  • Editor's Talk Session

ギャラリー

  • 〝美根〟 / 「映画の指輪のつくり方」
  • SUIREN / 『Sui彩の景色』
  • ももすももす / 『きゅうりか、猫か。』
  • Star T Rat RIKI / 「なんでもムキムキ化計画」
  • SUPER★DRAGON / 「Cooking★RAKU」
  • ゆいにしお / 「ゆいにしおのmid-20s的生活」

新着