欅坂46、『不協和音』で見えた明確な方向性。『サイレントマジョリティー』と繋がる秘められた物語とは?

欅坂46、『不協和音』で見えた明確な方向性。『サイレントマジョリティー』と繋がる秘められた物語とは?

欅坂46、『不協和音』で見えた明確な
方向性。『サイレントマジョリティー
』と繋がる秘められた物語とは?

これまでの楽曲を見てみると、コンセプトが一貫しており大人や社会という対象に対して動じることなく自己を主張していくといったスタイルが、欅坂46の特徴のひとつだと言えよう(例外として、3rdシングル『二人セゾン』では新たな挑戦を試みている)。

形を変えながら様々な楽曲に挑戦してきた彼女らが本作ではどのような作品を見せてくれるのか期待して待っていたが、今回は良い意味で原点回帰作と言える。いや、一年前にリリースされたデビュー曲『サイレントマジョリティー』 の世界観を踏襲しつつ、さらに自己を前面に押し出した作品は、歯切れのよいリズムから繰り出される言葉のひとつひとつが明確な意思を持って我々に語りかける、そんな曲になっている。

4thシングル『不協和音』は、原点回帰を狙った楽曲なので、『サイレントマジョリティー』と共通項がいくつも見られる。しかし、当初プロデューサーの秋元康は、通常盤に収録されている『エキセントリック』を表題曲にすることを考えていたようだ。実際は『不協和音』が4thシングルの表題曲に選ばれたわけであるが、何か意図してのことであるころは間違いない。これらの意図を探るとともに一年前にリリースされた『サイレントマジョリティー』との比較を通じて彼女たちの進化を明らかにしたい。
欅坂46 サイレントマジョリティー
初めに、『サイレントマジョリティー』の歌詞の一節を見てみる。
「サイレントマジョリティー」とは物言わぬ多数派という意味。この曲は全体を通して、サイレントマジョリティーという存在に対し「君は君らしく行けていけ」「自己主張をしろ」と導く「誰か」が存在している。いわば、客観的な視点で描かれた曲だ。このメッセージを発しているのは作詞をしている秋元康であり、欅坂46自身の主張とは言い難い。
グループとしての主張が感じられない理由としては、端的に言えば秋元康の詞を歌いきることが出来なかったからである。歌いきれないという言い方が正しいのかは分からないが、当時の彼女たちはまだ素人同然の女の子にすぎなかった。
『サイレントマジョリティー』のようなメッセージ性が強く、リスナーに対して扇動する立場として彼女たちが歌うというのは時期早々だったように感じる。彼女たちにはまだ積み上げてきたものが何もないのだから。
しかし、『不協和音』でパフォーマンスを見せる彼女たちは、説得力のより高い作品を提供してきた。この一年で彼女たちは、どのような成長を遂げてきたのであろうか。
以上を踏まえて、『不協和音』について歌詞の内容中心に『サイレントマジョリティー』との比較を通じて解釈していきたい。恐らくグループとしての成長を感じ取ることができるだろう。
不協和音との比較
Aメロからいきなり挑戦的な内容の歌詞でスタートする。『サイレントマジョリティー』とは異なるのは、本作では「僕」という存在が意思を持って発言していることだろう。ここには『サイレントマジョリティー』に現れていた扇動する立場の「誰か」は存在していない。
そして、「僕はYesと言わない」という言葉は、「Yesでいいのか?」に対する答えだと受け取れる。ここでの「僕」という存在は欅坂46自身であり、『サイレントマジョリティー』を受けて1年後に導き出した答えである。また、「首を縦に振らない まわりの誰もが頷いたとしても」には、『サイレントマジョリティー』の歌詞「誰かと違うことに何をためらうのだろう」に対応している。ここではデビュー作で感じることのできなかった彼女たちの言葉ひとつひとつに説得力が生まれている。堂々と歌い上げる姿は、デビューから一年とは思えないほどの貫禄がある。
「僕は嫌だ」は、非常に平明でありながら重みのある言葉となって私たちに訴えかけてくる。ここはセンターの平手友梨奈が担当するパートであるが、先日NHKで公開された『SONGS』において、彼女は「『僕は嫌だ』は私の心の叫びかなって思ってますね」と発言していた。自分に自信がないままセンターに立たされたことに対する思いや、自己嫌悪の両方がこのひとことに込められているのだ。
それが顕著に表れていたのは、国立代々木競技場第一体育館で行われたデビュー1周年記念ライブである。平手はライブで表現すると言っていた通り、彼女が発した「僕は嫌だ」には心から湧き上がる感情をすべてぶつけられているように感じた。平手に限らず誰しもが右も左も分からない状態では大人に流されてしまいそうになるだろう。そのような状況では「僕は嫌だ」と主張することに大きな意味がある。
この「僕は嫌だ」には長濱ねるのパートもあるのだが、ファンの間では賛否両論のようである。長濱の声質の柔らかさなどもあり、この好戦的なセリフには合わないということなのだろう。実際に初めて聴いた際に違和感を覚えたのは事実である。

成長したグループの成長を描いた作品
しかし、長濱ねるを起用したのには意図があるはずである。「不協和音」には調和の欠如という意味が存在するが、調和がとれていない様を表現するという意味も込めて長濱を起用したのだろう。即ち、メンバー各々の多彩な個性を体現した箇所なのだ。初めて聴いたときに感じた違和感こそが本作の狙いであったのだ。
『サイレントマジョリティー』、『不協和音』はどちらも秋元康が作詞をしたものであるが、歌詞を見てみると前者は秋元康からグループへの提言を込めた作品であり、後者はそれを踏まえて成長したグループの成長を描いた作品ということになる。
つまり、『不協和音』は、『サイレントマジョリティー』で扇動されたていた僕=欅坂46が自己主張をしていく様を描いた作品であり、『サイレントマジョリティー』から一年を経たグループ全体の成長を暗示しているのだ。

このように秋元康は、欅坂46の進化をこの二曲を通して表現する。メンバー各々が個性を発揮し、自己を解放していくグループこそが「欅坂46」なのである。二年目に突入した彼女たちはこれからどのようなグループになっているだろうか。
これからも見守っていきたい。

UtaTen

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