【The 13th tailor インタビュー】
自分のアイデンティティーに
振りきった音楽を提示する場

The 13th tailor

TVアニメ『ポプテピピック』をはじめ、さまざまなコンテンツにて劇伴/楽曲を手がけた気鋭の作家として知られている羽柴 吟。彼が楽曲の世界観にフィットするシンガーを迎えて楽曲制作を行なうプロジェクト・The 13th tailorを始動させた。TVアニメ『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』のEDテーマとなる「Gospelion in a classic love」をリードに据えた1stシングルは、美しさや陰りを湛えた魅力的な世界を堪能できる。羽柴に彼の音楽的な背景やプロジェクトの処女作などについて語ってもらった。

Limp Bizkitや
Buckcherryに衝撃を受けた

音楽に目覚めた時期やきっかけを聞かせていただけますか?

音楽が好きだと思ったのは中学校の時です。僕は幼い頃からピアノとバイオリンを習いながらオーケストラ団体に所属していました。クラシックは教えてもらわないとできないからすごく嫌いで、ピアノを弾くのもバイオリンを弾くのも大嫌いだったから結構反発をしていたんです(笑)。当時はクラシック以外の音楽はあまり知らず、観に行くのはオーケストラ団体の主催するコンクールやコンサートが多かったです。そういう環境で育ってきましたが、中学校の時に友達のお兄ちゃんが部屋でずっとLimp BizkitとかBuckcherryとかのHIP HOPを聴いていて、“なんだ、これは!? めっちゃカッコ良い!”と思ったんですよ。それから、Limp BizkitとBuckcherryのCDを借りてめちゃくちゃ聴くようになりました。単純に衝撃を受けたんですよね。そこでロックに目覚めて高校生になってからは、家で親が使っているWindows 96のパソコンで世界の音楽に触れました。いろいろな音楽を探りましたが、ハマったのはヒップホップとレゲェ。特に2PACは今でもずっと聴いていますよ。

洋楽に惹かれたんですね。

J-POPも聴いたりしていましたけど、断然洋楽のほうが好きでしたね。僕は地元が愛知の中でもヒップホップの街だったんですよ。周りのみんながヒップホップを大好きだったこともあり、Limp Bizkitをはじめとしたミクスチャーにも惹かれたのかもしれない。あとは、友達のお兄ちゃんはエミネムとかも聴いていたので、エミネムにも自然と触れていました。

クラシックからまったく違うところに行かれましたね(笑)。ロックに目覚めてからギターなども始められたのでしょうか?

知人のお兄ちゃんがギターを貸してくれて、さらに弾き方を教えてくれたんです。そこからバンドもやるようになりました。ミクスチャーが好きだったけど、高校生でミクスチャーを分かる人もおらず、その時はSUM 41などをコピーしていました。Dragon Ashもやったのかな? お兄ちゃんはバンドもやっていて、SEX MASHINEGUNSと対バンしたりもしていたんですよ。メタラーだったけど、僕はメタルを弾けないし、分からないという感じでした(笑)。お兄ちゃんからWhitesnakeとかBON JOVI のCD借りて、聴いてはいましたけどね。

知人のお兄さんという存在が近くにいたのが大きかったことが分かります。作曲は、いつ頃からされるようになったのでしょう?

地元で人気だったインディーズバンドのヴォーカルが作曲をしていて、それに影響を受けて自分も曲を作りたいと思ったんです。当時は作曲用ソフトがすごく高くて。なので、無料作曲ソフトのCherryをそのバンドのヴォーカルに教えてもらって、MIDIオーディオインターフェイスを親に買ってもらいました。ROLANDのSDというモデルです。それからはパソコンでポチポチと打ち込んでJ-POPっぽいものを作ってみたり、ピアノインスト曲やテクノの4つ打ちを作ってみたりするようになりましたね。音質はすごく悪いんですけど(笑)。

ロックではなく、J-POPなどを作られたんですね。

その時にやっていたバンドはポップスだったので、ロックを作ろうという思考にはならなかったです。作曲に関してはピアノのインスト曲が多かったですね。ギターをいい音質で録るやり方が分からなかったんです。ドラムもペチペチした音だったし(笑)。4つ打ちの曲も作ったけど、当時はサイドチェインとかを知らずに作っていたので、ゲームで流れるようなインストとかピアノ曲になってしまって。

洋楽ロックで音楽に目覚められたわけですが、美しいものやエモーショナルなものが好きだということが根底にある気がします。

そうですね。中高生の時は“エモ”というジャンルを知らず、二十歳くらいの時に初めて知ったんです。それまでもいろいろな音楽を聴いていたけど、エモ系とかスクリーモとかにすごく惹かれて、自分はエモのメロディーやハモりが一番好きだと思いました。

追い求めていた音楽に出会えたんですね。では、コンポーザーとしてはどのように頭角を現していかれたのでしょうか?

もともと僕はずっとハードコアシーンでライヴをしていたんですけど、一度病気になったんです。その時は歩けなくなってしまって、ベッドで寝たきりの生活を数カ月くらい送ることになって一度音楽の夢を諦めたんです。そこで、精神的に路頭に迷ったというか。歌えないし、歌うこと以外で音楽だと何ができるかを考えた時に、インディーズ界隈のクラブに出ていたヒップホップのDJとかラッパー、R&Bシンガーの友人からライヴの入場曲を作ってほしいという話をもらったんです。それで作ってみたら、バンドではなくDJやラッパーのための曲だったのに、なぜか作れたんですよね。そういう曲を作るようになったのがコンポーザーとしての第一歩でしたね。お金にはなりませんでしたけど(笑)。名前が広まるきっかけになったのは、知人のお母さんが音楽業界でバリバリ活躍している人で、その人のアシスタントをしたんです。そこで、一気に輪が広がりましたね。当時は自分が作った曲をMyspaceにあげていて。それらの曲は語学留学をきっかけにニューヨークに滞在している時、ひたすら街を歩き回って見た情景…建物とかセントラルパーク、ブルックリンといったいろんな景色を見て、“これを音にしたらどうなるんだろう?”と思いながら作った曲たちでした。その曲たちを周りの人に聴いてもらったら、“いいね”と言ってくれることが多くて、Myspaceの曲が作曲家の第一歩になりました。

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