菊池桃子のデビューアルバム
『OCEAN SIDE』は、
林 哲司のプロデュースによる
シティポップの傑作
林 哲司が全ての楽曲を作曲
その観点で菊池桃子を語るのなら、言うまでもなく、彼女の楽曲の最重要人物は林 哲司である。デビューシングル「青春のいじわる」(1984年)から、現時点での最後のシングル作品である12th「ガラスの草原」(1987年)まで、カップリング曲も含めてその楽曲はすべて氏が作曲したものだ(10th「アイドルを探せ」(1987年)までは編曲もすべて氏によるもの)。アルバムも今回紹介する1st『OCEAN SIDE』から4th『ESCAPE FROM DIMENSION』(1987年)まで、その全作曲を林 哲司が手掛けているのだから、こと歌手・菊池桃子の成功ということだけで言えば、それは林 哲司の手腕によるところであったことは疑いようがない事実であろう。
氏は菊池桃子を手掛ける直前に、上田正樹「悲しい色やね」(1982年)、杏里「悲しみがとまらない」(1983年)、中森明菜「北ウイング」(1984年)といったヒット曲を手掛けているし、それ以前にも竹内まりや「SEPTEMBER」(1979年)をはじめ、昨今の世界的シティポップブームの火付け役とも言われている松原みき「真夜中のドア〜Stay With Me」(1979年)を世に送り出しているのだから、林 哲司の才能もさることながら、氏を菊池桃子の音楽的パートナーに据えた人物(プロデューサーの藤田浩一氏だろうか)の慧眼にも確かなものがあったと言えそうだ。
これは完全に個人的な見解だが、もし菊池桃子のコンポーザーが林 哲司でなかったとしたら、歌手・菊池桃子の評価は間違いなく今とは違ったものとなっていただろう。やや語弊がある言い方をすると、歌手としては成功していなかった可能性すらあるのではないかと感じている。仮に○○○○の作曲だったら…とか、△△△△のプロデュースだったら…とか、なかなか簡単には想像がつかないけれども、少なくともデビュー時に、いわゆるアイドル然とした楽曲を持ってこなかったことは菊池桃子の成功のカギだったようにも思う。彼女の芸能活動の端緒は『パンツの穴』だったことを考えると、歌手としての楽曲も軽めのお色気路線でスタート…なんてことも可能性としてはゼロではなかっただろうし、むしろそっちのほうが自然の方向だったかもしれない。制作サイドはまったくそんなことは考えていなかったのだろうが、万が一にも間違ってそうならなくて本当に良かったと、他人事ながら思うところではある。
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