【PORTABLE ROCK インタビュー】
今回のレコーディングも
とても楽しく、面白かった
L→R 中原信雄(Ba&Key&Programming)、野宮真貴(Vo)、鈴木智文(Gu&Key&Programming)
元PIZZICATO FIVEの野宮真貴(Vo)、東京ロッカーズの一員である8 1/2のメンバーだった鈴木智文(Gu)、YAPOOSのリーダーでもある中原信雄(Ba)という3人によって1982年に結成された幻のニューウェイブバンド・PORTABLE ROCKが復活! 新曲も収録したベスト盤『PAST & FUTURE ~My Favorite Portable Rock』について、バンドの歴史も交えて語ってもらった。
いろんな素敵な曲が
どんどんできていった
今回の再結成と言いますか、活動再開と言いますか…は野宮さんの“そう言えば、私たちまだ解散してなかったよね”のひと言から始まったそうですが、その辺のお話をもう少し具体的にお願いできますか?
野宮
まず、PORTABLE ROCKは解散していないので、だから再結成ではなくて…復活?(笑)
鈴木
でも、10年おきにライヴはしていて。
野宮
結成の経緯は、私が40年前にビクターのFLYING DOGというレーベルから鈴木慶一さんのプロデュースでソロデビューしたんですけど、それが一年ほどで契約がなくなりまして(苦笑)。その1stコンサートを今はもうない青山のベルコモンズでやって、その時のバックを務めてくれていたのがこのふたりなんです。で、私のソロの契約が終わって“さて、次はどうしよう?”という時に、彼らとバンドを組もうということになったんですね。そこから先も鈴木慶一さんと弟の鈴木博文さんがすごく力を貸してくれて、慶一さんのご実家の羽田にある湾岸スタジオで、PORTABLE ROCKのデモテープを作らせてもらいました。今回入っているものもそこで何曲かデモを録っていて。それで1980年代はバンド活動をしながら、それぞれに違うバンドをやったりしつつもPORTABLE ROCKは継続していたんですね。でも、1990年に私がPIZZICATO FIVEのメインヴォーカルに誘われて、そこから10年間はPIZZICATO FIVEに専念していたので、PORTABLE ROCKの活動はほとんどなかったんです。
鈴木
でも、僕らは音楽を生業にしようと昔から考えていたので、その1990年から2000年くらいまでの間、曲を書いたり、サポートでギターやベースを弾いたりしていました。
表に出る活動ではなく、他者のプロデュースをしたり、楽曲制作をしたり、演奏をしたりと。
鈴木
そうです。そういう感じで1990年代は過ごしていましたね。もともとニューウェイブってポストパンク的な感じで出てきたんですよね。僕はPORTABLE ROCKの前は8 1/2というパンクバンドをやっていたんですけど、時流的なことに影響されたところもあって、パンクが終わって“この次に何をやろうかな?”と思った時に、音色がちょっと変わっているとか、曲調がちょっとアマチュアっぽいとか、そういう雰囲気がニューウェイブというものを形作らせて、そこで発生してきたような気がしますね。
野宮
PORTABLE ROCKが?
鈴木
うん。PORTABLE ROCKも結局はアフターパンク、ポストパンクというか。
今となっては“ニューウェイブ”という言葉があるのでそれを使っていますが、当時は“アフターパンク=パンクのあとに来る音楽”という意識だったということですか?
鈴木
うん、そうですね。
なるほど。少し整理したいのですが、野宮さんはソロ契約が終了した時点で“まだ音楽を続けたい”“バンドがやりたい”という想いが強かったのでしょうか?
野宮
音楽をやりたい気持ちはありました。念願のデビューはしたものの、なかなか思うようにいかなかったけど、絶対にここで終わるはずはないと思っていたし。“次に何をやろうかな?”という時に、ふたりが“じゃあ、一緒にやってやろう”ということでデモテープを作っていくんですけど、いろんな素敵な曲がどんどんできていったんですよ。
“バンドを組もう”というよりも、最初期は野宮さんのデモを作ろうという感じだったんですね。
鈴木
そうです、そうです。そういう感じがありましたね。
それが自然とPORTABLE ROCKになっていったという。
鈴木
そうですね。ピチカートも3人組だけど(笑)、1980年代の中盤くらいまでは3人組ってバンドではなかったから。バンドってドラムがいないとって。だから、それとはちょっと違う視点で。ドラムがいなくても気軽にライヴができるという意味で“PORTABLE(=携帯用)”だし。
中原
ティアックの4ch(オープンリールデッキ)がその頃に発売されて、あれもでかかったと思う。あれがあったから自宅で多重録音ができて、“スタジオへ行かなくても曲作れるじゃん!”みたいな(笑)。
DIYな感じでしょうかね。“これがあれば自分たちだけで音楽が作れる”という。
中原
そうそう。
野宮
PORTABLE ROCKの名づけ親は鈴木慶一さんなんですよ。3人でポータブルに、ドラムがいなくても打ち込みを流しながらやれるということで。当て振りでライヴをやったこともありましたけどね(笑)。そのライヴを小西(康陽)さんが見てピチカート・ファイヴの着想を得たと。
少し話を遡りますが、鈴木さんと中原さんが野宮さんのコンサートで演奏された時の、お二方の野宮さんの印象はどうでしたか? さきほど8 1/2の名前が出ましたが、8 1/2と言えば東京ロッカーズの一員ですから、日本のニューウェイブの元祖と言っていい存在だったと思います。
野宮
中原さんはFILMSですしね。
そうです! そんなニューウェイブの草分け的存在だったおふた方から当時の野宮さんの音楽性はどう見えていたんでしょうか?
鈴木
ソロデビューアルバムの『ピンクの心』(1981年発表)はすごく良くできていて、曲もバラエティーに富んでいて、アレンジもいろんな人がやったりしてて、すごく勉強になりましたね。そこから受けた影響はあると思います。
野宮
『ピンクの心』の曲はハルメンズのメンバーが何曲か書いているしね(※註:ハルメンズは、1980年代初頭に活動したバンド。パール兄弟のサエキけんぞうや上野耕路らが在籍)。
中原
自分もあのアルバムは良くできているなと思いました。
となると、野宮さんから“一緒にやらないか?”と誘われた時は“これは面白そうなことになりそうだな”という感だったのでしょうか?
鈴木&中原
(※うなづく)
野宮
でも、“誘った”という感じでもないよね? 何となく自然発生的に3人で集まったという。
鈴木
そうかもね。“今日、結成だ!”とか宣言しなかったし(笑)。偶然が重なったんじゃない? その時、中ちゃん(中原の愛称)も曲を書いていて“真貴ちゃんが歌ったらどうかなぁ”とか言っていたし。で、“歌ってみませんか?”みたいな。真貴ちゃんからも“今度ソロのライヴが決まったのでバックをやってもらえませんか”って言われたり。
レコード会社や事務所が間を取り持ったということではなく、意気投合していく中で自然とこの3人での楽曲制作が始まったという感じなんですね。
野宮
そういうことですね。
中原
4chもあったし(笑)。
野宮
それで実験的にいろいろやったり。
“やってみたい!”という気持ちが勝ったんですね。
野宮
そうですね。それで曲がどんどん増えていって、それをカセットテープに録音して、手書きで曲名を書いて、関係者に配ったりとかしていましたね。
アーティスト
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