ブラックロックのパワーを見せつけた
ファンカデリックの『マゴット・ブレ
イン』
これだけはおさえたい洋楽名盤列伝!
黒人らしいドロドロのファンクを演奏することで知られたパーラメントとファンカデリック。このふたつのグループはメンバーもほぼ同じで、初期のパーラメントは玄人向けのファンクを、ファンカデリックはロック寄りのファンクをやっていた。先人のジミ・ヘンドリックスやスライ&ザ・ファミリーストーンに影響を受けたファンカデリックのサウンドは、80年代後半から90年代前半にかけて登場する黒人ロックグループのリヴィング・カラー、バッド・ブレインズ、レニー・クラヴィッツらに大きな影響を与えている。今回紹介するファンカデリックの3rdアルバム『マゴット・ブレイン』は、黒人のみで演奏される最も初期のロックであり、まさにブラックロックの原点ともいえる傑作だ。
ジミヘンとスライ・ストーン
「黒人はブルースとR&Bを演奏し、白人はカントリーとロックを演奏する」。70年代前半、ロックが全盛となった時代には、こんな台詞が当たり前のようにまかり通っていたのだが、実際に当時のミュージシャンを見ていると、そんなに間違ってはいなかったように思う。僕が中学生の頃は、ロックのギターを弾く黒人はジミヘンしか知らなかったし、黒人と白人の混合グループはスライ&ザ・ファミリーストーンぐらいであった。当時大人気のサンタナも黒白混合であったが、リーダーのカルロス・サンタナは日本人の僕が見ても明らかに純粋な白人ではなかったから、黒人でロックミュージシャンと言えば、ジミヘンとスライ&ザ・ファミリーストーンだけだった。まぁ、今になって思えばスライはファンク系のグループでありロックではないのだが…。
では、なぜジミヘンとスライは黒人であるにもかかわらず、ロックをやっていたのか。いや、逆に、なぜ黒人の中でジミヘンとスライぐらいしかロックをやっていなかったのか。それには60年代にはまだ当たり前だった人種差別の問題がついてまわるのだ。ジミヘンにしてもプロのミュージシャンとして活動を始めた頃は、アイズレー・ブラザーズやリトル・リチャードなど黒人アーティストのバックを務めており、彼がロックミュージシャンとして活動するようになったのは差別の少なかったイギリスに渡ってからのこと。また、スライもヒッピー文化が全盛時であったことに加えて、ヒッピーが多く人種差別の少ないサンフランシスコで活動していたからである。
もちろん当時は、白人がブルースやR&Bを演奏するのは多かったのに、黒人がロックやカントリーをやると周りから止められることが多かった。それは、差別する側の「何でも思うまま」と、差別される側の「黒人らしさ」という意識からくるものであった。それだけに、当時ジミヘンやスライがロック的な演奏をするというのは相当の思い切りが必要であった。ただ、彼らは周囲に何と言われようが、自分の音楽を表現するためにロックのセオリーが必要不可欠の要素だったのである。そういう意味で、環境(イギリスやサンフランシスコでの演奏活動)が味方をしたとはいえ、彼らの天才ぶりは凄まじいと思う。
アメリカ南部(田舎)では白人と黒人が協力
余談になるが、アメリカ南部の田舎町で作られていたソウルに関しては白人と黒人が協力して音楽を制作していた。オーティス・レディング、アレサ・フランクリン、パーシー・スレッジ(男が女を愛する時)らのレコードでは、ヴォーカルは黒人であっても、ソングライターとバック・ミュージシャンは白人であり、それは普通の光景であった。アメリカの田舎では差別が激しかったことは間違いないが、一方で黒人のカントリーシンガーや白人のブルースシンガーなどが一緒に活動していたのである。そして、それらの音楽は90年代に入ってアメリカーナと呼ばれるようになった。
ザ・パーラメンツとファンカデリック
パーラメントとファンカデリックを率いるジョージ・クリントンは50年代半ばから活動するアーティストで、当初はコーラスグループとして活動し、シングルをリリースし続けるが、人気を得るようになったのは60年代後半になってから。苦節10年である。当時のはザ・パーラメンツと名乗っていた。そこそこの利益を生むようになってからは、コーラス隊を支えるバックバンドも雇えるようになるのだが、気付けばジェームス・ブラウンはファンクを生み出し、ジミヘンやスライはロックを演奏する時代になっていたのである。そしてザ・パーラメンツのバックバンドの名前を、ファンクとサイケデリック(ロック)を混ぜ合わせたファンカデリックと名付けている。ここらあたりに、新しい音楽を生み出そうとする彼らの意欲を感じるのは、僕だけではないだろう。
ザ・パーラメンツの名前でアルバムが出せない!?
ようやく中堅レコード会社との契約が決まり、ファンクロックグループとしてアルバム制作をスタート。しかし、リリースする前になって、ザ・パーラメンツの名前が版権の問題で使えないことが分かる。そこで、もう1枚分アルバムの制作を開始し、こちらはバックバンドのファンカデリック名義でのリリースを決めた。結果、70年にまずファンカデリック名義での『Funkadelic』をリリース、それからすぐにゴタゴタしていた既に録音済みのアルバム『Osmium』をパーラメント名義で出すことになるのだ。おそらく、ザ・パーラメンツ名義での著作権問題がなければ、ファンカデリックというグループは存在しなかったであろうと思われる。アクシデントも捨てたものじゃない。
クリントンはメンバーは同じでもこれらふたつのグループにそれぞれ役割を持たせることにした。パーラメントはファンクを前面に出したヴォーカルグループ、ファンカデリックはエディ・ヘイゼルのアグレッシブなギターを前面に押し出したロック寄りのグループである。
どちらも70年にデビューしているが、しばらくはファンカデリックのアルバム制作を優先するようになる。なぜなら当時のパーラメントの音楽性はスライ&ザ・ファミリーストーンと似ていたからヒットを出すのが難しいと判断したからであろうし、ジミヘンに似た音楽性を持つファンカデリックはジミヘン亡き後(70年9月に死亡)、そのオリジナリティーは独走状態にあったからだ。ファンカデリックは、デビューアルバムをリリース後、早くも2作目『Free Your Mind… And Your Ass Will Follow』(‘70)をリリース、ほぼ前作と同じスタイルの作品であった。
本作『マゴット・ブレイン』について
そして71年、ジミヘンのスピリットを持ちつつ、ファンカデリックのオリジナリティーが炸裂する本作『マゴット・ブレイン』がリリースされた。アルバム全編、当時20歳のエディ・ヘイゼルが熱いロックギターを披露しており、80年代後半に増殖したリヴィング・カラー、バッド・ブレインズ、レニー・クラヴィッツといったブラックロックのアーティストたちに大きな影響を与えた記念碑的作品となった。
アルバムは全7曲を収録。1曲目のタイトルトラックは10分にも及ぶインストのスローバラードで、ワウ、ファズ、ディレイなどを駆使しながら弾きまくるヘイゼルのロックフィールはすごい。2曲目の「Can You Get To That」や6曲目の「Back In Our Minds」など、軽めのポップなナンバーもあるが、基本はハードロックであり、ベースとドラムのヘヴィさは正真正銘のロックである。
残念なことに“ロックグループ”としてのファンカデリックは本作で最後となる。このあとはメンバーチェンジにより、パーラメント風のファンク路線へと舵を切ることになるのである。それはディスコブームに便乗するためでもあっただろうし、本物のファンクを目指したいという気もあっただろう。ただ、クリントンは、このあたりの二律背反的なやり方を巧みにマネージメントできるだけの力量を持っていたと思う。
パーラメントとファンカデリックは、このあと大きな人気を呼ぶことになるのだが、先ほども述べたように90年前後のブラックロックのアーティストに大きな影響を与えたのは本作までである。黒人がロックを演奏しても問題ないよというメッセージを、当時の黒人の若者たちに伝えられたのは、やはりファンカデリックの破天荒なロックスピリットのおかげなのである。
もし、黒人のみのロックを体験したことがないのであれば、ファンカデリックをぜひ聴いてみてください♪
TEXT:河崎直人
アーティスト
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