阪神淡路大震災から22年。記憶するこ
との意味は
不登校の子どもたちを対象に長野県にキャンプをしにきていた医療関係者がいましたが、震災後もその活動は続けていました。私はキャンプを取材させてもらったり、その子どものうち、灘区の親類宅に避難していた子どもを訪ねたりしていました。その子とは、保護者を通じて、その後も、年賀状を交換したり、手紙のやりとりしていたのですが、引越しや転職などでいつのまにか連絡が途絶えていました。連絡を取りたいと思っていたところ、SNSを通じて、連絡を取ることができました。
震災を風化してはいけないと思う一方で、辛い体験は忘れても構わないという思いもあります。そのため、あのとき取材した子どもたちがいつまでも震災を覚えているのかが気になったりしていました。東日本大震災の被災した子どもたちはあれから6年ほどが経とうとしていますが、22年も経った阪神大震災の被災者の中にも、鮮明に記憶している人もいる一方で、なるべく思い出さないようにしてきたという人もいます。忘れることで、過度なトラウマを抱えこまないためです。
SNSを通じて連絡を取ることができた被災者は、私のことを忘れていました。しかし、当時の取材記事を保護者が持っていたことで、なんとなく思い出したようでした。「なるべく震災のニュースを見ないようにしてきた」と言っていましたが、まだ震災に対して、負の意味で“こだわり"があるのかもしれません。小学生にとっては、生まれ育った街が火の海になり、建物が崩れている姿はそれだけでもショックだったはずです。東日本大震災で福島県いわき市から埼玉県に避難してきた小学生が津波被害にあったため、「私の街は終わった」と言っていたのを思い出します。
神戸新聞Web坂(1月16日)によりますと、阪神・淡路大震災の被災地12市(当時は10市10町)で、震災後の入庁者が全職員の半数を超えたといいます。当時の行政の危機対応を経験した職員が少なくなるなかで、当時の教訓を記憶し、後世に記憶していくことがますます重要になっています。その意味では、風化することなく、記憶し、教訓としていくことの大切さがあります。
その一方で、思い出さないことで、あるいは忘れることで、心のバランスを取っている場合もあります。もちろん、いつかトラウマの蓋が開いてしまうことだってあります。東日本大震災のときに、当時のことを思い出して、心が苦しくなった人もいました。震災トラウマが吹き出した場合、周囲が「もう20年以上も経っているのに!」と思わずに接して欲しいものです。70年以上も経っている第二次世界大戦の沖縄戦トラウマがいまだにあるのを鑑みれば、阪神・淡路大震災のトラウマも予断を許さないのかもしれません。
[執筆者:渋井哲也]
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