約20年ぶりにマティスの傑作が結集 
『マティス展』で、今こそ巨匠の凄さ
を理解する

アンリ・マティスの60年以上に及ぶ画業の軌跡を見わたす『マティス展』が、2023年4月27日(木)から8月20日(日)まで、東京都美術館にて開催されている。日本でマティスの大回顧展が開催されるのは約20年ぶり。本展ではパリ、ポンピドゥー・センターから名品約150点が来日し、まさしく“創造の冒険”といえるマティスの作風の変遷を実感できるようになっている。
マティスの名前には、頻繁に“色彩の魔術師”という称号が冠せられる。鮮やかな色彩、単純化されたカタチ、細かいことは気にしていなさそうな大胆な筆遣い……。そこから我々が思い描くのは、見る人の心に直接訴えかけるような、色彩のイリュージョンを自在に操る画家の姿である。
展示風景
けれど本展を巡ったあとでは、きっとその印象が少し変わるはずだ。マティスは魔術師というよりは、探求者だったのかもしれない。独自のスタイルをポーンと生み出して巨匠となったわけでなく、次々に新しい様式に挑戦して「◯◯風」の作品を制作しては、飽きたらず先へ行く……という、ひとりで美術史すごろくを体現しているような画家だ。その軸にあるのは、とにかく自分の感情や感覚をなんとかして表現したい、昇華したい! という切実な思いだったようだ。
本展は年代順に、第1章〜第8章で構成される。この記事では開幕前日に開催されたプレス向け内覧会の様子とともに、鑑賞のキーとなるポイントについて紹介していこう。
自らを託す様式を求めて
《読書する女性》1895年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
まず注目したいのは、《読書する女性》だ。画家として遅めのスタートを切ったマティスが、サロンで成功を収めた記念すべき一作である。丁寧に仕上げられた画面は伝統的な遠近法にのっとっているし、質感の描き分けにも注意が払われている。のちに野獣派と呼ばれるマティスにも、こんな“普通”の時代があったのか……と驚いてしまう。ちなみに、当時の師だったギュスターヴ・モローとの信頼関係は、翌年にマティスが印象派に接近したことを理由に断絶を迎えてしまう。
《豪奢、静寂、逸楽》1904年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
そして、マティスはサン=トロペでシニャックの色彩理論に触れ、《豪奢、静寂、逸楽》を制作する。本展の見どころのひとつである、日本初公開の大作だ。新印象主義風の点描技法を使って描かれており、純色を使ったまばゆく輝く画面が魅力的な作品だが、近くで見ると、しっかり輪郭線で人やモノのカタチが描かれているのが分かる。厳格な点描技法のルールからは明らかにはみ出しており、マティスも「色彩とデッサンの折り合いが上手くつかなかった」と自ら指摘しているらしい。
マティスが画家仲間のドランらと一緒に「フォーヴィスム(野獣派)」と称されて大注目を浴びることとなったのは、その翌年の秋である。春に《豪奢、静寂、逸楽》を発表したあと、夏に訪れたコリウール(フランス〜スペイン国境近くの田舎町)でブレイクスルーを経験し、色彩が爆発したような作品群を秋展で発表した。それから数ヶ月後にはシニャックと袂を分かっている。
展示風景
けれどマティスにとっては、フォーヴィスムと呼ばれた大胆な画風も、ひとつの通過点に過ぎなかった。いかにも野獣派な作風の期間は実はかなり短く、1905年前後の数年のみ。本展では小品《コリウール風景》でその雰囲気を知ることができるが、よりエポックメイキングな《帽子の女》《開いた窓、コリウール》といった作品を予備知識として仕入れておくと、ここでマティスらがどんな冒険に踏み出したのか、理解が深まるのでおすすめだ。
さらにエッジが立った表現へ
第2章には、異彩を放つ一枚がある。1914年の問題作《コリウールのフランス窓》だ。マティスはアトリエの窓や、その向こうの景色をよく描いた。そんな様々な窓の絵の中で、どう見てもちょっと変なのがこの一枚。まず、窓なのかなんなのか判別ができない。隣の《窓辺のヴァイオリン奏者》のおかげでどうにか窓らしく見えるが、色面を並べた抽象画と言ってもおかしくない。
左:《コリウールのフランス窓》1914年、右:《窓辺のヴァイオリン奏者》1918年、ともにポンピドゥー・センター/国立近代美術館
この窓はおよそ10年前の色鮮やかな作品《開いた窓、コリウール》と同じ窓だという。実際に見てみると、真っ黒に塗りつぶされた部分に、かすかにバルコニーの手すりの跡が見える。当初は窓の向こうの風景を描いていたものの、上から塗りこめてしまっているのだ。それを1914年に勃発した第一次世界大戦と関連づける解釈もあるらしいが、謎がある作品はワクワクする……。
そして第一次世界大戦をきっかけに、マティスはキュビスムの画家であるフアン・グリスと親しくなる。この時期のマティスの作品には明確なキュビスムの影響を見てとることができるだろう。つくづく、マティスとは挑戦を恐れない素直なタイプだと思う。
《白とバラ色の頭部》1914年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《白とバラ色の頭部》は、娘のマルグリットを描いたキュビスム風の肖像。ギリギリ人間らしさを保ちつつ、幾何学的な形態が印象的な作品だ。服のストライプと鼻のラインのせいで鉄格子の向こうにいるようにも見えるマルグリットだが、よくよく見ると右目と唇がとっても艶かしい。抽象化の向こう側にある生身の身体をチラ見せする、危ういバランスが見事である。
立体の悦び
展示風景
本展では、マティスが若い頃から絵画と並行して制作していた彫刻作品たちも多数展示されている。特に面白いのは、第3章で見られる《背中》の連作だ。
《背中I〜IV》1909 -1930年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
これらは左から右に向かって、それぞれ画風のターニングポイントとなる時期に制作されている。例えば2つめと3つめの間には第一次世界大戦があり、先述のようにキュビスムへの接近があった。女性の背中から丸み、うねりが消え、直線的なフォルムに変化しているのがよくわかる。
手前:《ジャネットI》1910年、奥:《ジャネットIV》1911年、ともにポンピドゥー・センター/国立近代美術館
女性頭部の連作《ジャネット》は、優美な《ジャネットI》からデフォルメを押し進めた《ジャネットIV》への変貌ぶりがすごい。とりわけ、サザエさん風に変化していく髪型に注目してみると、形態の捉え方の大胆さに驚かされる。彫刻のコーナーは絵画のオマケではなく、本展の大きな見どころだ。色彩のないブロンズ作品を通じて、マティスの“造形の冒険”を感じることができるだろう。
理屈抜きの安らぎ
第一次世界大戦後のマティスは、壊れてしまった世界とバランスを取るかのように、キュビスムから離れた比較的ナチュラルな作風の室内画・人物画を描くようになる。第4章は、パッと見て分かりやすく、見るものに受け入れられやすい作品が多いチャプターだ。
《赤いキュロットのオダリスク》1921年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
オダリスク(トルコのハーレム・後宮の女性)は1920年代にマティスが好んで取り上げたテーマ。オリエンタルな衣装を着せたモデルを、華麗な織物で飾ったアトリエ内特設ブースに配して描いた。今風に言うなら、自作フォトスポットでコスプレ撮影をするようなものである。マティスにとって、裸婦と風景の調和を探るにはそのようなお膳立てが必要だったようだ(そう言われてみれば、それは至極真っ当な感覚のような気がする)。ちなみに、当時マティスがリスペクトしていた老ルノワールも同様の制作スタイルをとっていたことが知られている。
《ニースの室内、シエスタ》1922年1月ごろ、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
会場片隅にある《ニースの室内、シエスタ》は、眺めていると自然と微笑んでしまうようなリラクシングな優品だ。マティスは自身の絵画について「精神安定剤」だとか「良い肘掛け椅子」のような、見る人に安らぎをもたらすものでありたいと語っている。この作品を前にすると、しみじみとその言葉の意味が伝わってくる。
《夢》1935年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
1935年に制作された《夢》も、同様に深い安らぎを感じさせてくれる必見の一枚だ。その後、壁画や挿絵の仕事を経て、30年代以降のマティスの画風はフォルムの単純化、陰影のない平塗りといった特色を獲得していく。
「線を描く」と「色を塗る」のタイムラグ
《赤の大きな室内》1948年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
第6章には、本展のチラシに採用されている、目玉作品の《赤の大きな室内》が。なぜこの一枚が重要かというと、晩年のマティスが最後に取り組んだ室内画シリーズの、最後に描かれた“集大成”だからである。この作品において、マティスは画面上で色彩とデッサンを調和させることに成功した、と解説にはある。その感覚を掴むには、同じ展示室にあるほかの室内画と比較してみるのがいいと思う。
《黄色と青の室内》1946年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
例えば《黄色と青の室内》は、同じ室内画シリーズの最初に描かれたもの。特に画面右側の椅子が顕著だが、色と関係なくカタチが存在しているように見える。比べると《赤の大きな室内》の画面では、2枚の画中画、2枚の毛皮敷物、ふたつの花瓶のように、「色彩」と「デッサン」のふたつが均衡を保って並んでいるのが分かるだろう。
ついに来た、融合のとき!
展示風景
色彩とデッサンはさらに、最晩年の「切り紙絵」によって融合を果たす。色を塗った紙をハサミで切り取り、貼り合わせる「切り紙絵」の手法は、ベッドで制作することの増えたマティスにとって都合がよく、色とカタチに時差が発生しないおかげで、さらに伸びやかな表現が可能となった。第7章に並ぶ作品を見ていると、まさに水を得た魚という言葉がぴったりの、画家の創作エネルギーに衝撃を受ける。いっせいに歌いだす色、踊るカタチは圧巻だ。
展示風景
大成功を収めた画文集『ジャズ』の作品たちが、壁に勢揃い。たっぷりと時間を取って堪能したいエリアだ。ここに至ってはもう何も難しいことは考えず、音楽を聴くつもりで楽しむのがいいような気がする。
展示風景
印刷されたものでなく、切り紙絵そのものの状態で展示されているのが、ブルー✕ホワイトの《アンフォラを持つ女性》だ。貼り合わせられた紙の質感や、ささくれ立ったようなハサミさばきの引っかかりなど、画家の手の痕跡をはっきりと見ることができる。シンプルながら見応えのある一作である。
南仏の一番素敵な時間を再現
最後の第8章は、マティスが最晩年に手掛けたヴァンス(南仏)のロザリオ礼拝堂の関連資料やドローイング、制作中の記録写真などが展示される。注目は、本展のために撮影された現地の4K映像だ。建物外観から内部、そして細部まで、まるで礼拝堂を訪れたような気分で鑑賞できる。
ロザリオ礼拝堂 堂内映像 (c) NHK
マティスが一番好きだったという冬の朝の光が満ちる様子や、午後、日没での様子をそれぞれ比較していくのが面白い。実際に観光で訪れても、なかなかこうは観察できないだろう……という周到なロケぶりである。
真っ白な礼拝堂に、輪郭線のみで描かれた聖母子像、そこへステンドグラスからの青い光が当たって、やはりここでも色彩とデッサンの響き合いが生まれている。そのふたつの共存がマティスにとって生涯のテーマと言える一大事だったことを、最後に改めて感じることができるだろう。
最後に……
どうしても触れておきたいポイントがもうひとつ。野心的なラインナップのミュージアムショップである。
ミュージアムショップにて
会場で度肝を抜かれた、「ブロンズみたいな黒蜜のかりんとう」(税込860円)をご覧あれ。確かに、かりんとうのふくよかなフォルムがマティスのブロンズ作品にそっくり……に見えてくる。こんなお土産をもらったら、個人的にはかなりうれしい。
ミュージアムショップにて
きれいな布地や織物を愛したマティスにちなんで、オリエンタルなラグの専門店がショップの一角に特別出店していた。これは斬新な試みだ。入念なリサーチに基づいて、当時の画家たちがアトリエに配していたものに近いデザインを取り揃えているのだそう。アートファンなら、見覚えのある柄につい足を止めて見入ってしまうだろう。
『マティス展』は、2023年8月20日(日)まで、東京都美術館にて開催
展示室中ほどにあるマティス年譜は、理解を深めるうえで必見です!
84歳で世を去ったマティスは、単純に考えて、ゴッホのちょうど2倍を生きている。本展はその長い道のりを丁寧に並走していく、“マティス決定版”と言えそうな貴重な機会だ。ぜひ積極的に知識を引き寄せて、巨匠がどんな道を通ってどこへ辿り着こうとしたのか、思いを巡らせてみてほしい。キャンバスに自身の感情、感覚を託すことを目指したマティスは、きっと2023年の私たちにそれを理解されることを望んでいる。

文・写真=小杉 美香

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