宮本浩次、斉藤和義、いきものがかり
、星野 源、椎名林檎、ポルノグラフ
ィティ……日本を代表するドラマー・
玉田豊夢の知られざるキャリアと信念
に迫った【インタビュー連載・匠の人

本格的にメジャーの現場に現れたのは、2001年夏、二回目のROCK IN JAPAN FES.に出演するために中村一義が集めたメンバーがそのまま100s(百式)というバンドになった、そのドラマーとして。以降、100sで一緒だった池田貴史のレキシ、メンバーとして活動する小谷美紗子Trio、斉藤和義いきものがかり椎名林檎や星野 源などなど、数え切れないほどのビッグ・アーティストのレコーディングやライブに、ひっぱりだこになってキャリア20年余。宮本浩次曰く「日本代表」、ドラマー玉田豊夢にご登場いただいた。2002年の100sの初ツアーに密着取材したことがあって、その時から「すごいドラマーだなあ」と思っていたが、その後あちこちのライブや音源で「あ、ここでも叩いてる!」と出くわし続ける20年を経ての初インタビューなので、個人的にも感慨深いものがありました。
──最初に音楽を好きになった頃のこと、最初に楽器を始めた頃のことを教えてください。
どちらかと言うと、音楽よりも、タイコとかドラムに興味を持った方が早くて。5歳ぐらいの時に、祖母の家に青いコンガがあったんですね。もうめちゃくちゃ叩きたくて頼んだら、「叔父さんのものだから叩かしてあげられない」って断られて。僕、兄弟が5人いて。6つ離れた姉、2つ上の兄、みんな音楽が好きで。当時、『ザ・ベストテン』とか『ザ・トップテン』とかの音楽番組で、チェッカーズとかを観ていて……ゴダイゴとか、メロディが美しい曲が好きだった記憶があるんですけど、それと同時に、前で歌っている人よりも、後ろで叩いてるドラマーの方に目がいっていて。肉体的に動きがあって、音がわかりやすい楽器に興味を持ったんだと思います。地元は大分県の臼杵市というところなんですけど、臼杵祇園まつりというのがあって。山車で練り歩く時の、♪ドンドンチキチンドンチキチン、っていう祭り太鼓をやりたいなあと思っていて。物心ついた頃から、太鼓とかドラムに異様に興味があったというか、生まれながらにして好きだったような気がしますね。
──小学校では叩けなかったんですか?
鼓笛隊で小太鼓がどうしてもやりたくて、先生に言ったんですけど、小太鼓は女子だったんです。中太鼓、大太鼓は男子だったんですけど。だから、打楽器をやりたいと思いつつできない、っていうのがずっとあって。
──兄弟の影響で他の楽器に興味を持ったりとかは?
そう、姉貴がピアノを習っていて、兄貴はギターをやっていたんですけど、僕はそっちにはまったく興味を示さなかったんです。親父が絵描きで、絵を描いたりとか、ものを作ったりとか、兄弟みんなそうやって育ってきたところもあるので。
──あ、画家だったんですか。
そうです。祖父が印刷業を始めた家なんですけど、親父はその後継ぎもしながら絵を描いていて。若い頃、東京に行ってたんですけど、臼杵に戻ってからは、臼杵のいい風景を水彩画で描いていて、それが料亭とかに飾られていたりするような人で。二科展の審査員もしたりとか。芸術とか、そういった類のものに理解があった家だったんですね。
──ドラムを叩けないとなると、たとえば積んだマンガ雑誌を叩くとか?
まさにそうでした。小6の時にテレビの音楽番組とかを観ながら、見様見真似で叩き始めました。紙を重ねて色鉛筆で叩くと、スネアみたいにパシャッパシャッて音がするのがすごい気持ちよくて。それで音楽に合わして、2-4(通常のビートでスネアを入れる2拍目と4拍目のこと)を叩き始めたのが最初です。左手で2-4を叩くっていうのは認識してなくて、右手で2-4を叩くところから入って。それで、「ドラム、なかったら作るか」っていう発想になって、自分で作り始めたのが、12歳ぐらいです。
──作るというのは?
まだ本物のドラムを見たことがなくて、町に一軒の小さい楽器屋さんにPearlのカタログだけあったんで、それをもらって来て、穴が空くぐらい見ながら作りました。うち、印刷屋だったんで、フィルムとかが運ばれてきた廃材で、しっかりした厚いダンボールの、ちょうどドラムの胴に適したサイズの筒があったんです。それを切って。フィルム素材もいっぱい捨ててあるもので、それを切って筒に貼り付けて。キックは、大きめのバケツを横にして、フィルムをはって、ペダルも作って。缶を切り抜いてシンバルにして、ライドはクラッシュの「♪シャーン」とは音が違う、「♪チンチンチン」って粒が出る音がする、とかいうことを感じ取って、それを再現するのに明け暮れていたんですね。で、ラジカセを目の前に置いて、ひたすらひとりでコピーをやってました。
──たとえばどんな音楽を?
聖飢魔IIのミュージックビデオ集を姉貴が持ってて、それにめちゃくちゃハマって。「WINNER!」って曲のラスサビに入った時に、ドラムの横からのショットになるんですけど、ライデン(湯沢)さんが、めちゃくちゃ楽しそうに叩いてるかっこいいショットが抜かれてるんです。それにもやられたっていうのが、ドラムを始めるきっかけだったかもしれないです。ユニコーンの『PANIC ATTACK』とか『服部』が中1中2ぐらいだったんですが、ユニコーンの最初のライブビデオを観ながら、めちゃくちゃコピーしました。
──ああ、『MOVIE』の1作目。ABEDONが入る直前で、笹路正徳さんが鍵盤の。
そうです! 川西(幸一)さんやライデンさんの、男っぽくて華やかなプレイにすごく憧れて。その頃、『(リズム&)ドラム・マガジン』を本屋で発見して読み始めたんですけど、川西さんもライデンさんもジョン・ボーナムが大好きで、共通点がたくさんあって。それで「ジョン・ボーナムが好きなのか」って思って洋楽を聴いたり、ルーツを辿るようになっていくんですけど。
■中2の時点でなんの疑いもなく、「もうドラムしかない」と思ってました
──その時期はいつ頃まで続くんですか?
中2ぐらいですかね。カタログをもらってた楽器屋さんのいちばん奥に部屋があって、そこが実はスタジオになっててドラムセットがあることを発見してしまって。もう叩きたくてしょうがなくて、友達を誘って、スタジオ代割り勘で、初めて生のドラムを叩いたんです。ヘッドもベコベコだし、シンバルも割れてるんでめちゃくちゃ変な音で。「なんだこの音は!?」っていう違和感と、でもすごく大きい音がするっていう興奮が大きかった。何年か前、ツアー中に実家に帰った時に、その楽器屋に行ってご挨拶をして。久しぶりにそのドラムセットを叩かしてもらったんですけど、泣きました。スタジオに入った瞬間に、匂いがまったく変わってなかったんです。その叩いた時の写真を妹に撮ってもらって、今ツイッターのアイコンにしてます(笑)。中学生当時はドラムは買えなかったので、トレーニング用のキットを買って、ひたすら叩いてました。
──じゃあ、本物のドラムを日常的に叩けるようになったのは──。
高校ですね。臼杵から片道2時間ぐらいかかる別府の高校に通ったんですけど、始発の電車で行って、授業を受けて。吹奏楽部に入ったので、ドラムや打楽器は叩ける環境になったんですけど、高校になると吹奏楽部でドラムを叩いてたら、すぐ誘われるようになりました。ちょっとやんちゃな人らと一緒にパンクのバンドをやったり。ライブもやってましたね。ひたすら速い曲を息継ぎなしで叩く、みたいな。そういうのも経験しつつ、TOTOやスティーリー・ダン、AORが好きな友達もできたので、ジェフ・ポーカロ(TOTOのドラマー)みたいな流れも自分に入って来ました。部活が終わって、電車に乗って、大分駅で一回下りて、スタジオでバンド練習して、最終電車で家に帰って、また始発で家を出るっていうのを、3年間ひたすらやっていましたね。4、5バンド掛け持ちして。お金はないのでCDはレンタルしてたんですけど、AC/DCとチック・コリアを一緒に借りるみたいな(笑)。全部カセットに落として、朝も夜もひたすら聴きながら通学して、みたいな高校時代でした。
──「これで食うんだ」というのは、もう揺るぎないものになっていた?
中2のダンボールのドラムの時点で、もう100%なんの疑いもなく、「もうこれしかない」と思ってました。
──そういう生活だと、高校の成績は?
もうズタボロでしたね。ただ、学校には行くんです、行ったらドラムが叩けるんで。だから、行き帰りだけで大変なんですけど、卒業する時は皆勤賞もらいました(笑)。それこそ、夏休みも冬休みも行ってましたんで。機材も、スネアを持って行ったり、シンバルを持って行ったりするようになって。
──あ、じゃあ買い始めたんですね。
はい。スタジオのドラムにはチャイナ・シンバルがないから、チャイナとスタンド、ペダルとスネア、かなりの重量のやつを両肩に担いで、電車で通ってました。スネアは、Pearlの上位機種のやつを頑張って買ったんですけど、夜中に臼杵に帰り着いて……めちゃくちゃ重いんで、自転車のカゴにそれを乗っけて体勢を整えようとしたら……その時、橋の上だったんですけど、自転車が傾いて、大事なスネアが川の中に落ちちゃって。それで夜中にひとりで川に入ったのも一生忘れられない思い出です(笑)。
──(笑)で、東京の音楽の専門学校へ行くんですよね。どこに行かれたんですか?
当時は東京コミュニケーションアートっていう専門学校だったんですけど、今はTSM、東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校っていう名前になりました。葛西にあるんですけど。
──ゴダイゴのギターの浅野孝已が副校長の?
そうです。そこに入って、ヒロ(山口寛雄)とまっちぃ(町田昌弘)が同級生で、あのふたりと最初に友達になりましたね。
──後に中村一義のバンド、100sを一緒にやることになるベーシストとギタリストですね。
そうですね。専門学校は……まじめに授業に出て、基礎とかをやればよかったんですけど、学校にブースとかいっぱいあって合奏できるんですよ。それで、ヒロとかと一緒に演奏する方が楽しくて、コピーしたり、ジャムったりばかりしていて。
高野寛さんが中村一義くんに僕を紹介してくれて『ERA』に参加することになりました
──高校の時はライブハウスでやったりしていたんですよね。東京では?
全然なかったです。葛西って都心からちょっと遠いじゃないですか。学校で演奏していて2年間終わった感じでしたね。
──そうすると、卒業する時に困りますよね。
そうですね。なんにもなくなったんですけど、まったく焦る気持ちもなくて(笑)。「なんとかなるだろう」みたいな楽観的な考え方でバイトしながら生活してました。一個上のベースの先輩から電話がかかって来て……南こうせつさんとかとセッション活動をしていたピアノコウジさんという鍵盤の方がいるんですけど、その方がベースの先輩とつながっていて、「すごい鍵盤の人とゴスペルやるんだけど、一緒にやらない?」って誘ってくれて。そこに行ったのが、人生でいちばん重要な出会いでしたね。それで、渋谷のクロコダイルでやったり、いろんな教会でやったり、地方に行ったりしたんです。ピアノコウジさんが当時、森脇松平さんっていうシンガーソングライターのアルバムをプロデュースする時に、そのレコーディングに誘ってくれて。その森脇さんが、オフィス・インテンツィオの所属で──。
──ああ、高橋幸宏さんの事務所。
そうです。インテンツィオ主催のイベント・ライブが毎月原宿RUIDOであったんですけど。その時に僕らは松平さんのバンドで出て、高野寛さんとかも出ていて。
──なるほど、高野さんは元インテンツィオで、その後中村一義と同じファイブ・ディーに所属してましたね。
そうなんです。それで、僕のプレイを高野さんが観てくれて、中村一義くんが高野さんに「同世代でドラムいないですかね?」って言った時に、僕を紹介してくれました。それで中村くんのアルバム『ERA』のレコーディングに参加することになったのが、25歳とかでしたね。
──で、デビューしてもライブをやらなかった中村一義が、一回目のROCK IN JAPAN FES.(2000年)のトリで初ライブをやるはずが台風でできなかった。その時のバックメンバーとして玉田さんはもういたんですよね。
そうです。後に100sに参加するメンバーでは、僕と池ちゃん(池田貴史/レキシ)がいて。あのROCK IN JAPANが中止になった時の光景も、一生忘れないですね。土砂降りの中、イエモン(THE YELLOW MONKEY)がやっている時に、強風でステージの天井がバーン!と剥がれて中止になっちゃった。昨日のことのように思い出されますねえ。
──翌年のROCK IN JAPAN FES.に出たメンバーで、100sというバンドになるわけですが、100sでの活動はいかがでした?
中村くんの曲はデモがもうすごすぎて。それを生音に変換して再現して、というのを必死にやるだけみたいな感覚でしたね。
■斉藤和義さんには、楽器好き、音楽好きっていう点で近いものを感じました
──それ以降、スタジオや人のバックでの仕事も増えていくわけですよね。
そうですね。中村くん以降、レコーディングとかライブとかに呼んでいただけるようになりました。それで、26歳か27歳の時に、100sの「セブンスター」のMVの撮影日に池ちゃんから「小谷美紗子っていうシンガーがいて、バンドをやりたいんだけど」っていう相談を受けて。で、帰り道、池ちゃんを車に乗っけて帰っていたら、小谷美紗子のCDを持ってて、一緒に聴いて「こういう人なんだけど」「おお、なんかすごいね」という話をして。その次の日に、GRAPEVINEとかをやってる高野勲さんから電話がかかって来て。「レコーディングのプリプロ的なことをやるから、来てほしい」「誰なんですか?」「まあ、いいから」みたいな感じで。それで行ったら小谷美紗子だったんです。同じ時期に、そのふたりから話が来て、小谷美紗子の現場が始まりましたね。
──後にバンド(小谷美紗子Trio)に発展しましたよね。
あれはちょっと後ですね。小谷美紗子のアルバムが出て、バンド編成のツアーに参加したんですけど、それをやって僕が提案したんです。少ない編成でピアノ・トリオでやってみたらおもしろいんじゃない?って。
──その次の経験として大きかった仕事は?
斉藤和義さんですね。あと、いきものがかり。ちょうど同じぐらいの時期でした。斉藤さんが2008年ぐらいで、いきものがかりは前からレコーディングはやってたんですけど、ツアーは2009年からですね。
──斉藤和義の現場はどのような経験でした?
斉藤さんの曲は好きで昔から聴いていたんです。だから一緒にやることになった時は本当に嬉しかったですね。斉藤さんはロックンロールのスウィング感やロールする感覚を、歌やギターやドラムで示してくれるロックンロール先生みたいな存在ですね。そして、あの人間性というか……あの飄々とした感じは、どこに行って、誰と話してても変わらない。それがすごいなと思いました。あと、ツアーを回ってて、一緒に飲んだり、地方でセッションする中で、楽器好き、音楽好きっていう点で近いものを感じました。「あ、かっこいい」っていう感覚が似ている気がします。
──いきものがかりはどうですか?
いきものがかりで、初めて全都道府県をツアーすることができたんですよね。30代前半から半ばぐらいで見た全県行った景色とか、空気感とか、匂いとかをいまだに思い出します。あと、バンマスの本間(昭光)さんは「すごいプロのバンマスだな」って思いました。そういう方とも初めてお仕事したので。全部のパズルのピースがガッガッガッてはまってるような進め方っていうか、曖昧なところがない。それでみんなが安心してリハーサルできて、リラックスした気持ちで現場が回っていくというプロとしての仕事の仕方はすごく勉強になりました。メンバーから得たものももちろん大きかったです。
──あと、椎名林檎、絢香、星野 源とか、ビッグネームの仕事、多いですよね。
ああ、林檎ちゃんもすごいですね。レコーディングの時、仮歌がもう……なんだろう、脳味噌に雷が落ちるような声というか。かなり刺激的な歌声ですね。そしてレコーディングでもライブのリハーサルでもミュージシャンが良い演奏をすると全力で褒めて自信を持たせて、どんどん良いプレイを引き出す。すごい人です。絢香ちゃんは歌がうますぎて。仮歌で「え、もうこれでいいんじゃない?」っていうクオリティを100%出してくる。Superflyの(越智)志帆ちゃんもそうだし、いきものがかりの(吉岡)聖恵ちゃんもそう。共通したストイックさを感じるし、研ぎ澄まされ方にアスリートを感じますね。
──星野 源はレコーディングはあったけど、ライブへの参加は今年になってからですよね(1月に開催された”Reassembly”)。
そうですね。以前からお声がけはして頂いてたんですけど、なかなかスケジュールが合わなくて参加できてなかったので、今回ようやく一緒にライブができて本当に嬉しかったです。最終日は源くんの誕生日で、しかもお客さんの声出しが解禁になった日だったので、そのあまりにもすごい歓声に源くんも泣いていたし、僕にとっても夢にまで観た3年ぶりのお客さんの大歓声だったので感動して涙が出ました。曲については、源くんの曲ってすごくポップだしグルーヴしているからノれるし聴きやすいんだけど、実は曲をおもしろくする音楽的な仕掛けみたいなものがふんだんにちりばめられていて、それが演奏者からするとすごく難しいことだったりするので、一筋縄ではいかない曲ばかりなんです。僕がレコーディングに参加した「創造」や「サピエンス」もめちゃくちゃ難しくて、録音しながらあまりにも叩けなくてちょっと涙出ました(笑)。今回のライブのセットリストにはその2曲が入ってなかったので、いつかライブでやれたらいいなあと思ってます。源くんもある意味ストイックというか、すごいミュージシャンだなと思います。テレビでも毎回生演奏にこだわっているし、アレンジやバンド編成も変えたりして、ミュージシャンの見せ所みたいな部分もすごく考えてくれてる人だなあと感じて嬉しくなります。
■宮本(浩次)さんはどの場面でも全力でぶつかり合う感覚になる。それがたまらない
──2022年には、宮本浩次とポルノグラフティのツアーがありましたよね。
はい。宮本さんは、「P.S. I love you」のレコーディングから呼ばれました。そこからレコーディングを何曲かやって、そのあと全都道府県ツアーがあって。
──どんなもんでした? 宮本さんと全都道府県回るというのは。
宮本さんって、独自の緊張感があるというか。めちゃくちゃ紳士的で、にこやかで、スタジオでのリハとかもすごいスムーズなんですけど、たまに急にはりつめたりすることもあるので気を抜けないというか。全県ツアーもそんな感じで、リハも本番も穏やかに進んではいつつも、独自の緊張感がずっとありました。それが僕はすごく好きなんです。歌もほんとスタジオリハから100%で、ちょっと軽く流すっていう感覚がない。どの場面でも全力でぶつかり合う感覚になるというか。それがたまらないですね。
──その全都道府県ツアー、ポルノグラフィティのツアーと同時進行でしたよね。かなりむちゃなスケジュールで。
(笑)そうですね。ポルノは何本か田中駿汰くんが叩いてくれたりしつつ、宮本さんのツアーと並行してやりました。(岡野)昭仁くんもアスリート・タイプな感じがしますね。体力作りとかも含めて。絶対に歌のクオリティを保って進化するんだ!という強い意志を感じます。僕はポルノの二人の広島弁が大好きで、MCですごくほっこりして、曲になるとビッ!とカッコいい二人になる。このバランスが素晴らしいといつも思います。
──プロになって以降で、好きなドラマーとか憧れのドラマーって、います?
たくさんいますねえ……あと僕、21歳の時に、LAに3ヵ月行って、ジェームス・ギャドソンのところにちょっといたことがあるんです。
──え、弟子入りしたんですか?
いや、日本人のギタリストの友達がギャドソンと知り合いになっていて。「絶対来た方がいい」って言われて、その人のアパートに住まわしてもらって、3ヵ月間毎晩、ギャドソンがギグをやるのにくっついて行って、真隣で見させてもらったんです。その影響も大きいですね。
──仕事を始めて以降で、自分のプレイに煮詰まったりとか、悩んでしまったりとか、そういうスランプの時期はなかったですか?
もうむちゃくちゃあります。ずっとそうかもしれないです。「あ、解き放たれた、今日もうめちゃくちゃ良い感じのライブができた」とかいう瞬間って全然ないっていうか。そこから解き放たれたいんで、叩く前にたくさんウォーミングアップしたりとか、地道にストレッチをして。「ああ、調子悪い」とか、そういう自分のマイナスな要素をなるべく減らしたいという思いがありますね。だから、怖くてライブ映像とか一切見れないです。もちろんいつも全力を尽くしてはいるんですけど。
──頭の中には、もっと上の理想がある?
そうなんだと思います。到達点というか。
──その「あ、解き放たれた!」と思えたライブって、たとえば47都道府県を回ったら、そのうち何本ぐらいあります?
そういう感覚になるのは……4本とか。
──少ない(笑)。それは大変ですね。
そうですね。その時って、自分の調子ももちろんですけど、全部の具合がいいっていうか。歌も、楽器も、お客さんの感じも、会場の鳴りとかも、すべてが合致して、もう超自由みたいな感覚になることが、本当たまにあります。常にそうなるのは絶対無理なんですけど、なるべくその感覚になれたらなって思いながらやってる感じですかね。
──宮本さんが、「玉田豊夢は職人のように合わせないところが良い」というようなことを言っていたと聞いたことがあって。今の話でそれを思い出しました。
ああ、でもそれは、もうめちゃくちゃうれしいですね。そうありたいと思ってるので。宮本さんは本当に歌がぶっとくてうまいというベーシックがありながら、型にはまらないというか、はみ出すところにすごく魅力を感じますし、命を削りながら歌う姿は一緒にやっていても圧倒されて感動します。だから僕も「きっちり守ってますよ」じゃなくて、もっと一緒に爆発したい、一緒に泣きたい、みたいな風に思ってます。どのアーティストとやっていても、そうなれたらいいなと思いながらやっていますね。仕事としてやってるけど、仕事でやっている感じじゃない感覚にバンドがなれたらいいな、っていうか。
──いかにもバック・バンドみたいな、整然とした感じは好きじゃない?
そうなんです。そういうタイプの人は上手だなとは思うんですけど、「かっこいいな」とか、「おもしろいな」とは思えないんですよね。あと、お客さんは楽器をやってる人が多いわけじゃないので、そういう人たちにより伝わるようにしたいなとはいつも思ってるかもしれないですね。すごいテクニカルなことをやるっていうことより伝わる表現を、っていうか。「おっ、いい!」っていう感覚になってもらえたらいいなと思いながら、ライブもレコーディングもしているかもしれないですね。
取材・文=兵庫慎司

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