小川洋子原作『博士が愛した数式』演
出・加藤拓也×主演・串田和美〜「8
0分という有限の時間の中で無限の数
字をずっと追いかる儚なさ、矛盾が素
敵」(加藤)

昔のことは覚えていても、今の記憶は80分までしか覚えていられない数学博士と、家政婦、彼女の10歳の息子の交流を描いた、小川洋子の小説「博士が愛した数式」が、演出・加藤拓也、主演・串田和美で2023年2月に舞台化される(2月11日〜16日 まつもと市民芸術館 小ホール、2月19日~26日 東京芸術劇場シアターウエスト)。本屋大賞や読売文学賞小説賞を受賞したこの名作を下敷きにした作品を読んでいたら、いつも画集や写真集を覗き込みながら次なる舞台を構想し、稽古場に集うみんなとあれやこれや試行錯誤する串田の姿が重なってきた。二人は加藤率いる劇団「た組」の『今日もわからないうちに』(2019)で顔を合わせている。これも、忘れる/忘れない、忘れたい/忘れたくないをテーマにした記憶の話だった。

――『今日もわからないうちに』で串田さんにオファーを出されたときはどんな思いを持たれていたのですか?
加藤 串田さんのことを知ったのはNHKの朝ドラだったと思います。串田さんをお呼びしたときは、求められるであろうパブリックなイメージとは違う役をやっていただきたいと思ったんです。
串田 加藤さんとの出会いはすごくうれしかったですね。若いころなら「君も芝居やっているんだ、じゃあ一緒にやろうよ」なんてこともできたけれど、今は事務所に入っていたりすると、なかなか難しい。ふらっと出会って、喫茶店に入って、話して、芝居に出ることになるなんて何10年ぶりのことだったから。
加藤 6年前ですね。僕が23歳だったと思います。
加藤拓也
――串田さんからご覧になった加藤さんの印象はいかがでしたか? 
串田 今の話の続きで言えば、どうしても○○をやってきた、○○出身みたいな肩書がついて回る。仕方がない面もあるのかもしれないけど、加藤さんは素直だし、自由なんですよ。野球をやっていた少年が、運命なのか必然だったのかひゅーっと演劇の方へやってきた、本当にそれだけというか。そんな感じがした。若い世代だと特に、何かを背負っちゃってる人も多い。誰々チルドレンとか何とかリンクとか言われちゃったりするでしょ? そうじゃないところがすごく魅力的だった。だからこそつくれる芝居というのもあるんだよね。僕自身も1960年代に演劇を始めたんだけど、いろいろなことから自由でいたいとずっと思っていた。そういう意味で加藤さんはピュアに自分で考えている。無理に自分のスタイルをつくろうとするんじゃなくて、今やりたいことをやっている。それが自然に自分のスタイルになっていくという。そこに好感を持ったんだ。
――『今日もわからないうちに』で串田さんと作品をつくったことで、何か影響を受けたことはありますか?
加藤 どの作品をやっても、どなたとやっても影響は必ずあります。『今日もわからないうちに』はもう4年前になるから、そのときに何を考えていたかは忘れてしまったんですけど、串田さんがとにかくずっと楽しそうにされていたことがすごく印象に残っています。
串田和美
――串田さんは久しぶりに会った加藤さんはいかがですか?
串田 一緒に稽古をしていて、前よりも「君はどうしたいの?」というまなざしが出てきたような気がする。若いうちは自分がもがいてしまうものだけれど、そういうゆとりが出てきたのかな。
加藤 たしかに自分の中でアプローチしていく引き出しは増えていると思います。今回は串田さん以外は初めて一緒になる人ばかりです。

この稽古場にいることに何か感動することがある(串田)
――『博士が愛した数式』は2015年に一度、劇団で演出されているんですね。
加藤 串田さんと初めてお会いしたときにもその話をしました。改めて、取り組もうと思えたのは、初めて取り組んだときよりも今の方がもっと楽しくできると思う部分がたくさんあったからです。
――原作にはどんな魅力を感じられたのでしょうか?
加藤 この小説が持ってる不思議な時間がいいですよね。そして小川さんの小説にある、存在の肯定みたいなところが一番好きなんです。すごく昔から、そしてこれから先もきっと変わらず人間にとって大事なこと。そのことがプロセスを大事にする博士と重なる気がします。
串田 僕も、20年前に小説を読んだときにすごく舞台にしたいと思ったんだ。それは自分で演出するとか出演するとかではなく、舞台で表現されたら魅力的だろうなという思いだった。実は僕も記憶を失うとか記憶が途切れるとかいうことに興味があって。中平卓馬さんという写真家いたんだけど、自分が撮ったのかどうか記憶がないなど、いろいろな葛藤を持って写真を撮っていた。彼の写真を見ていると、覚えておくことも大事だけれど、忘れるということ、もちろん覚えているからしゃべれるんだけど、忘れていることについて話したいと感じる。今回改めてこの小説を読んで、そのこととリンクして、芝居も忘れるものなんだよなぁって。そして忘れたときからがじわっと力が出るものなんじゃないのという、矛盾した思いが僕の中にいつもはある。記憶は途切れる、これしか持たないという感じがすごく演劇的ですね。
串田和美
――戯曲を読んだときに、数字が何かすごくクリエイティブなものにも感じられ、同時にこれまで串田さんが稽古している姿、稽古場で方法をいろいろ試していく様子と重なったんですよね。
加藤 数学者と言うと無機質な印象があるかもしれません。ただ数字を無心に追いかけて、そこに感情もないように思われがちですけど、本当に一喜一憂して数字のことを追いかけているし、感情豊かに数字を見つめている方が多い。そして博士もまさにそうで、そのあたりは串田さんが演じられるのを見ていてすごくいいなと思います。数学者はなぜか子ども好きが多かったりもします。博士は80分という有限の時間の中で無限の数字をずっと追いかけ続けている。その儚なさ、抱える矛盾みたいなものが素敵です。そういった矛盾さえも全部肯定できる包容力が串田さんにおありになると思っています。
串田 記憶力が良くて、何でも覚えていて説明できる人はすごいし、(世の中は)そういう人がリードしていくのかもしれない。でもその人の話よりも、思い出せない人の話を聞きたいという感覚、演劇やアートはそういうものだと思うんです。そして実は数学もこちら側なんじゃないかな。ほとんどの科学者や数学者は研究というものは無駄なものだと自覚している気がする。でも無駄だからいいんですよ。科学によってお金が儲かるものを発明したり、戦争で勝てる兵器に利用したりされるから有益に感じるのだろうけど本質は無駄なんです。でも無駄に思えるものこそ大切だと思う。数学も無駄だからこそあるべきものだと思えるんですよ。忘れてもいい、全部を理解しなくてもいい、何か感じてくれればいいというようなものでありたいと思いますね。もちろん役者としてはうまくいかなくてイライラしたりすることも多いけれど、演じていてふといい時間だなと感じるときがある。この稽古場にいることに何か感動して、話がわからなくなったりしちゃうんだ(笑)。どこか別の空間に入り込んでしまいそうになる不思議な瞬間がよくあります。
加藤拓也
――博士を取り巻く人びと、家政婦役に安藤聖さん、彼女の息子のルート役に井上小百合さんという配役も面白いですね。
加藤 僕は小川さんの小説はリアリズムの手法を使ったおとぎ話だと感じる瞬間がよくあって、その印象をすごく大事にしたいです。
串田 本能というか理屈抜きにふっとその人に惹かれたり、その人のいる時間に癒されたりするじゃないですか。今日の稽古でやったシーンで言えば、博士が「君が料理をつくっている姿が好きなんだ」とただじーっと見ている。家政婦にしてみれば「なんですか、ただ料理してるだけですよ」って。ルートに対しても、どんどんそういう関係になってきているんです。この子がいるだけでいいなとか、もし記憶がもっと長く持っていたら「早く帰ってこないかな」とか「今日も来ないかな」とかって思うんじゃないかな。けれど博士はそれを思えない人。でもね、記憶はないかもしれないけれど、この家族の匂いとか家の温かさとか、そういうものをどこかで感じているんじゃないかな。まったく初めて会う人に対する警戒心がどんどんなくなっている気もする。そういう意味で記憶とは何だろう、何か残っているものがあるんじゃないかな。医学的には記憶はないかもしれないけど、ここにいると気持ちいいなぁとか、誰だかわからないけど懐かしいんだとかいうこともあるんじゃないかなって、だんだんこの二人とやっていてそんなことを感じますね。
――加藤さん、改めてどんな作品にしたいと思いますか?
加藤 串田さんがおっしゃってくださったような匂いや音など、五感を通して記憶がよみがえってくるような演劇にしたいと思っています。タイトルに「数式」と付いてるんですけど、決して難しい数学のお話ではありません。何か心地のいい時間が流れる演劇にしたいですね。
串田 僕は今回、できることなら、そこに存在しているだけで、懐かしい空気のようなものを感じてもらえるように演じたいと思っています。演じていないような、会ったことも見たこともないのに、ある種の見知らぬ懐かしさ、忘れてしまった記憶の気配みたいな。実際はそこに居るのか、観ている人たちの幻覚かもしれないような……。それは究極の舞台俳優の姿なのだろうから、きっとそうはいかないだろうとわかっているけど、その想いを大切に演じたいと思っています。
串田和美(右)と加藤拓也
取材・文:いまいこういち

アーティスト

SPICE

SPICE(スパイス)は、音楽、クラシック、舞台、アニメ・ゲーム、イベント・レジャー、映画、アートのニュースやレポート、インタビューやコラム、動画などHOTなコンテンツをお届けするエンターテイメント特化型情報メディアです。

新着