‟親密な空間”に響かせた、ピアニス
ト務川慧悟の音楽世界~4日間2プログ
ラムを届けた浜離宮朝日ホールでのリ
サイタルをレポート

務川慧悟が浜離宮朝日ホールで4日間のリサイタルを行った。プログラムは2種類で、2022年12月15日(木)・16日(金)と、20日(火)・21日(水)がそれぞれ同一プロ。中心軸となったのは、リリースされたばかりのCDとリンクする形で、ラヴェル作品である。前半には、ラヴェルの世界観とどこか通底するものや、希望の声が寄せられた曲、そして何より務川が4日間の舞台を浜離宮朝日ホールに選んだ理由に則した作品が置かれ、後半はラヴェルで固めた。筆者は15日(木)と20日(火)のコンサートに足を運んだ。本稿はその公演に基づいたレポートである。
リハーサルの様子
15日(木)の前半は、J.S.バッハのフランス組曲第5番ト長調で幕を開けた。この瀟洒で小さな舞曲からなる組曲で開始したこと、そしてその演奏からは、務川が「浜離宮朝日ホールを選んだ理由」がとてもよく表れているように感じた。今回のリサイタルで務川がもっとも大切にしたかったのは、「親密な空間」である。リサイタルに先立つインタビュー(ピアニスト務川慧悟が語る『ラヴェル全集』とパリでの暮らし、古楽が教えてくれた音楽のこと)および公演中のMCでも、務川自身がそのことについて語った。ピアノ文化が充実した19世紀ヨーロッパのサロンのように、繊細な音楽表現を隅々まで届けられる親密さをもったホールで、務川には明確に、響かせたい音楽世界があった。バッハの作品の中でも、たとえば「半音階的幻想曲とフーガ」のようなものや、組曲でもより規模の大きなパルティータなどではなく、繊細でチャーミングなフランス組曲で彼は全プログラムを始めたことに、その思いが込められている。最初の「アルマンド」の力みのない柔らかな響きから、そのコンセプトはすぐに伝わった。気品と華やかさに溢れ、なんとも流麗である。リピートする前のほんのちょっとした間合いに、務川の息遣いが近くに感じる。リピート後は、さりげなく即興的な装飾が楽しい。バロック以前の演奏習慣を尊重していることが伝わる演奏だ。「クーラント」ははしゃぎすぎず、心地よい流れの中で立体感を作り、「サラバンド」はテノールの声部を人の声のように浮き立たせ立体感を作る。「ジーグ」は声部間の掛け合いが面白く、溌剌とした滑舌のよい響きで組曲を締めくくった。
続く西村朗の《星の鏡》は驚異的な美しさだった。会場全体が、純度の高い透明感のある響きに包まれ、重音のひとつひとつは、務川の抑制の効いた美意識の高さがそのまま結晶となって鳴り響くかのようであった。いたずらに感情的、抒情的にならない務川の音楽は、次のモーツァルトのイ短調ソナタK.310でもその特性がよく表れた。第一楽章ではイ短調の主題がもつ痛切さ、あらゆるファクターでコントラスト高く描き分ける演奏に、このソナタのもつ激しい性質がヒリヒリするほど伝わる。その一方で、緩徐楽章では無駄に耽美的な雰囲気に陥らず、どこか冷たく硬質なタッチで描くからこそ、逆説的に、内側に込められた強い感情を伝える。務川の知性は感性となだらかに溶け合い、ソナタ形式のロジカルな構成こそが放つ音楽の情動に、ひたすら心を奪われた。
後半のラヴェルは《前奏曲》で開始した。ゆったりとした冒頭のモチーフが天へと立ち上るように紡がれ、細やかだが自然な流れが見事であった。《水の戯れ》もやはり、響きのブレンド感が絶妙で、決して濁ることなく、ふわりと立ち昇る音の方向性が感じられた。音楽は決して目に見えないものなのに、音を追うように何度も視線を上げてしまった。主旋律を浮き立たせながらも、細やかな音型はミクロな泡を思わせた。
《鏡》より〈道化師の朝の歌〉は、安定したテンポによってスペイン的リズムが持つグルーヴ感が生じ、同音連打の中に見せるダイナミクスのグラデーションにドキドキとさせられた。この曲で、務川は音色のレンジもまた一段広げてきた。グリッサンドの一つ一つにも音色変化を持たせ、そのヴァリエーションには驚愕させられる。
この日最後のプログラムは《クープランの墓》だ。〈プレリュード〉では流麗な音型の中にも、ごく微細な緩急をつけ、弾力のある音楽を生んだ。〈フーガ〉が織りなす精妙な綾、〈フォルラーヌ〉の怪しく官能的な響きにうっとりとさせられる。
ラヴェル作品全集のCDライナーノートで、務川自身がラヴェルの音楽の持つ「二面性」という性質について思いを馳せた。「あたかも計算された機械のような様相を呈していながらも、その実、その本質的なメッセージはあまりにも人間的なそれである、という二面性」と彼は綴った。柔らかくもどこか冷たく、硬質な響きかと思えば人肌の官能性を思わせる。精緻さの先にある芳しい自由。緻密さの果てにこそ姿を現す妖艶さ。まさに「二面性」という言葉に収斂していく音楽が、務川の演奏によって目の前で展開されてゆく。なんと美しい時間なのだろう。
〈リゴドン〉は華やかさも勢いに任せず丁寧に紡ぎ出す。〈メヌエット〉の素朴さは、諦念ともどこか違うが、さっぱりとした哀しさとして響き、実に典雅だ。〈トッカータ〉は精妙ながらフィナーレ感に満ち満ちていた。
この日のアンコールはラヴェルの《ボロディン風に》。洒脱な演奏に「コケティッシュ」という言葉が浮かんだ。そしてもう一曲、最後はドビュッシーの「前奏曲」第2巻から「花火」。やはり緻密だが、決して息の詰まることのない、流れるような演奏。その香りの余韻に包まれながら帰途に着いた聴衆は多かったことだろう。
12月20日(火)、二つ目のプログラムは、務川が取り上げたことで広く知られることとなったラモーの《ガヴォットと6つのドゥーブル》で幕を開けた。リクエストの声が多く、このリサイタルでも演奏することにしたとのこと。各ドゥーブル(変奏)の精妙なテンポ設計が、じわじわと聴き手の感情を揺さぶるバロックの世界。離鍵の仕方がチェンバロ的な響きをもたらし、誠実で抒情的な音楽にいきなり惹きつけられた。
2曲目はシューマンの《クライスレリアーナ》。務川がこれまでほとんどステージ上で取り上げて来なかった作品であり、自身にとっても新たな挑戦の一つ。ラモーのあと袖に下がり、少し間をあけて登場したが、椅子に腰掛けると弾き始めは速やかだった。すでに音楽がそこにあったように、スッと入る。入(い)りのスムーズな美しさは、務川の演奏の一つの特徴だろう。一つ目のプログラムのモーツァルトのソナタでも、座ってからの弾き始めが速く、あの烈火のごとき音楽にスッといざなわれたのを思い出した。第1曲は上昇するバスの歩みが濁らずクリアに届き、中間部は羽毛のように柔らかな響きのコントラストが美しい。第3曲はとてもナラティヴな演奏で、音楽的な物語がわかりやすく惹き込まれた。第6曲は落日を思わせる穏やかさ、深さ、仄暗さ。第7曲は感情の沸点を思わせるが、滑舌の良いタッチで音が混濁しない。全曲を通じて、務川の語り口の多さをあらためて知る。ドラマティックではあるが、いたずらにスペクタクルで大仰な表現はない。品位のある語り口が美しかった。
後半のラヴェルは、まずは《ソナチネ》である。第1楽章は細部まで作り込まれたミニチュアの装飾品を思わせる、粒立ちのよいタッチで描いていく。第2楽章は陶器のような輝きと冷たさを思わせる響き。和音ひとつひとつの音の重なりに、どれだけのバランス意識を働かせているのだろう。素晴らしい。終盤にはあえて、ほんの少しの濁りを持たせたのが心憎い。第3楽章は勢いと流れがありつつ、細密画のような繊細さ。
《亡き王女のためのパヴァーヌ》はこのリサイタルでの忘れ難い聴体験となった。多彩な音色、よく伸びて上昇する響きは、筆者にとっては、この作品のあまりに理想的なもので、もはや形而上的な領域に突き抜けるようであった。ムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)とまで言うと言い過ぎだろうか。目の前で演奏されている音楽が、何か抽象的で大きな力とつながっていくような、そんな経験をした。
プログラムの締めくくりは《夜のガスパール》である。〈オンディーヌ〉は細やかなテクスチュアの中で、主旋律はじっくりと浮き立たせた。幻惑的でとろけるようなグリッサンドと、閃光の迸るアルペジオは圧巻。〈絞首台〉は儀式のような緊張感の中にどこか柔らかさがあり、内省的であると同時に開かれたものを感じた。アンビバレントなものが同居して鳴り響く不思議さ。ここにも務川の言う「二面性」が息衝いているのであった。〈スカルボ〉も無駄な揺らぎを感じさせない拍感、細密に音色を弾き分けるメロディーやハーモニー、トレモロや同音連打やグリッサンドの立体感が鮮やかだった。
アンコールに入る前のMCで、務川は一つの種明かしをした。この日使用したピアノは、15日(木)・16日(金)に弾いたスタインウェイとは違い、ホールが所有するもう一台の楽器とのことだった。両日聴いた方々の中には、この日の音色の方が、どちらかといえば太い響きのように感じた人もいたのではないだろうか。筆者は個人的には15日(木)・16日(金)の、より線の細く透明感のある響きのピアノの方が、ラヴェルには合っているように思った。西村作品をそちらのピアノで聴けたのもよかった。20日(火)のピアノは、シューマン作品を念頭に置いたのだろうか。いずれにせよ、それぞれの特性を感じ取りながら演奏していた務川は、「こちらのピアノでも、15日(木)・16日(金)のプログラムの曲を弾いてみたくなった」ということで、アンコールに《水の戯れ》を弾いた。よく伸びる、まろやかさのある音色が印象的だった。日本のリサイタルで《クライスレリアーナ》を初披露したことは「一大イベント」だったと話す。アンコール2曲目には、シューマンの《ユーゲントアルバム》から第30曲を披露してくれた。シンプルで繰り返しの多いこの作品を、務川はじんわりと心に深く染み入る音色変化で聴かせた。やはり帰り道にずっとずっと、その響きが耳と心に残った。
終演後のサイン会の様子
終演後のサイン会の様子
取材・文=飯田有抄

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