《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員イ
ンタビュー〜 Vol.3 鶴澤燕三(文楽
三味線)

三人遣いの人形が躍動する舞台の横、“床”と呼ばれる空間で、義太夫節を語る太夫の隣で演奏する三味線弾き。その第一人者の一人が鶴澤燕三(64)だ。ひょんなことから三味線に魅入られ、国立劇場の文楽養成所の研修生から文楽の世界へ。近年円熟の時を迎えつつある彼は、6年間続く国立劇場建て替えをこの秋に控える中、文楽の未来をどうみつめているのだろうか?
ウクレレ、笛、三味線と出会って
15年ほど前だろうか、NHKの英語トーク番組に燕三さんが出演し、英語で文楽の案内をしていたことがあった。のちにハワイで育ったと知り、納得。ご本人は「小学生で帰国したので全然喋れなくて」と笑うが、最初に手にした楽器は、そのハワイで出会ったウクレレだった。
「音楽は小さいころから好きでしたね。姉が3人に弟が1人の5人姉弟で、姉が3人ともピアノを習っていたので次は僕の番だと楽しみにしていたら、父に『男は剣道だ』とハワイの道場に連れて行かれてがっかりしたのを覚えています。ハワイで最初に通った日本人学校が閉鎖的で排他的な雰囲気だったので、姉弟みんなでクーデターを起こして、現地の学校に転校して。ハワイの小学校では、ウクレレが必須科目なんです。決して上手ではなかったけれど、クラスの数人でバンドを組んでクリスマスパーティーなどで弾いていましたね。コミックバンドみたいになっちゃって、演奏にはあまり身が入ってなかったですけど(笑)」
とはいえ、燕三さんにとって三味線に繋がる楽器は、帰国後に日本で習ったお囃子の笛だという。
「地元・葉山の御霊神社でお祭りの時に演奏するお囃子の横笛を吹く姿がカッコいいと思い、演奏者の募集に応募したんです。五線譜ではない楽譜で、オヒャラヒャーラヒャなどと書いてあって、初見では全く意味がわからない。それをお師匠さんに、まず笛から習い、その笛と太鼓がどう絡むかを聴いて覚えて、そうすると自然に太鼓も叩けるようになるので両方やっていました。楽しくてね」
そして、受験勉強をしなければならないと思いつつ志望校も決まらずにいた高校3年生の冬休み、ついに三味線と運命の出会いをする。
「ぼーっとテレビを見ていたら、長唄、民謡、小唄、義太夫などの三味線の特集をやっていたんです。義太夫は(四世竹本)津太夫師匠と(二世野澤)勝太郎師匠の『逆櫓』をやっていて、興味を抱いて。年明けに同級生に話したら『僕のお母さん、城ヶ島で民謡の教室に通っているから見に行こうよ』と言うので、受験勉強で忙しい時期のはずなのに城ヶ島まで行って見学したところ、面白そうだったんです。そこに来ていらした先生が葉山の隣の逗子に居られるというので、『じゃあ、うちに来なさい』『お願いします』。その頃、両親が転勤で香港にいたので姉に相談したら『いいよ! 大学ばかりが能じゃないよ』と、さっさと鎌倉の小町通りにある三味線屋に行って三味線一式買ってくれ、通い始めました。それが非常に面白くて。他の生徒さんは皆おばさんで一人だけ高校生ですから、随分と可愛がられましたね。通い始めて3ヶ月ほど経ったある時、大学の卒業論文を淡路の人形芝居で書いていた福岡の従姉妹がたまたま家に遊びに来て、『三味線がやりたいなら、今、国立劇場で文楽の研修生募集しているよ』と教えてくれたんです。その場で彼女が国立劇場に電話し、翌日見学に行ったら、『これは凄い』と引き込まれて。民謡がどうこうではないのですが、文楽の三味線は音色が全く違っていて、直感ですが、より奥が深そうな気がしました。民謡の先生に『研修生になろうと思うんです』と言ったら、大いに励ましながら送り出してくれたのにはとても感謝しています」
≫五世燕三師匠に弟子入りし、文楽の世界へ
五世燕三師匠に弟子入りし、文楽の世界へ
こうして1977年、国立劇場文楽第4期研修生になった燕三さん。同期には八王子車人形の人形遣い・五世西川古柳や、演出家・蜷川幸雄の舞台に数多く出演した俳優・妹尾正文らがいる。応募の段階では11人いた研修生も、卒業の頃には半分になっていたという。一時はご両親に反対されながらも意志を貫いた燕三さん。この養成所で出会ったのが、のちの師匠・五世鶴澤燕三だ。
「研修2年目の時、過去に卒業した人たちが発表会のようなものをする“既成研修”の『妹背山婦女庭訓』の道行に『君も出演しなさい』と言われて。でもまだ稽古してもらっていなかったので、担当講師の五世燕三師匠が教えてくれることになったんです。途中までは習ったことがあったけれど、その先を1日の2時限で全部叩き込まれて、『覚えんのやで』と言われて師匠は帰ってしまって。テープ聴くな、テープ録るなという人なので大変でしたが、師匠が言ったことを必死で吸収して、忘れないうちに何度も何度も弾いて。翌日、一応間違えずに弾いたら師匠は眼鏡の奥で目に涙を溜めて『よう覚えた!』。こんなに褒められるのか、こういう人の弟子になりたいなと思い、卒業時に師匠に弟子入りの希望を出しました。周りには『燕三師匠は厳しいからやめとき』と言われたけれど、かまわず弟子になったら、私にとっては非常に相性の良い師匠でしたね。弟子になってからも一回、とある演目を一段全部覚えた時に、やはり『よう覚えた』と褒めてもらったことがあります」
入門間もない頃
師匠である五世鶴澤燕三と
燕三師匠のもとで鶴澤燕二郎を名乗り、77年に初舞台。修業を重ねる中、師匠から口を酸っぱくして言われたことがある。
『三味線弾きは太夫に好かれなあかんで』と。それは媚びを売って貢ぎ物して、というようなことではなく、芸においてです。隣にいる太夫を乗せたり苦しめたりいっぱいに語ってもらったりするのが、三味線の仕事。そのためには浄瑠璃(太夫が語る物語)を、太夫の生理、息の引きよう出しようを含めて覚えていなければいけない。自分が語れるくらい勉強する必要があります。若くて経験がない三味線弾きはそれができず、大先輩格の太夫に無視されてしまうことがあるんですが、その経験も大事なんですよね。『ああ、無視された、全然役に立っていない』と認識しますので。大阪では“蝠聚(ふくじゅ)会”という、語るのも三味線を弾くのも三味線弾きがやる勉強会を開いているのですが、この時に太夫役をやると、『この三味線、ここにこだわっているけれどそれは要らないな』『これだと酸欠状態になってしまう』など、色々とわかってくるんです」
師弟関係が終わりを告げたのは、95年。師匠が公演中に脳出血で倒れたのだ。代役は燕三さんが勤めた。「師匠の代わりは何回かさせてもらっていたのですが、以前は師匠が病気や怪我でも稽古はしてくれていた。でも脳出血で意識がないというところでの代わりは、本当に切なかった」と振り返る。師匠はこの年に引退し、2001年に逝去。そして06年、師匠の名を六世として襲名した。
「僕にはその気は全然なかったんです。師匠がつけてくれた燕二郎という名前が好きだったので。でも(太夫の最高位・切場語りの)竹本住太夫師匠に『君、燕三継ぐ気ないか』と言われて、師匠のおかみさんに話したらおかみさんのほうが大喜びで、トントン拍子で襲名まで行ってしまいました」
13年、燕三さんは好きだったその前名を、やはり研修所で教えたことから弟子入りを志願してきた若者につけた。鶴澤燕二郎、現在27歳だ。
「研修生の時、恐ろしいほど筋が良い子だなと思って見ていました。そうしたら自分のところに来たいと言うので妻に相談したところ、『燕二郎の名前を継がせてもいいと思うぐらいだったら取れば』と言われまして。それで弟子に取って燕二郎の名前を名乗ってもらうことになりました。僕の期待度は、名をあげた時点でちょっとは理解してくれているかなと思いますが、あとは本人次第。役はまだなかなか回ってきませんけれども、勉強会などもやっているのでそれが将来、花咲けば、と。僕も全然役がつかないころ、千歳(太夫)くんと身の丈に合わない切場(きりば。クライマックスのこと)ばかり自主公演でやりましたが、師匠は『知らんより知っているほうがいい』と言って、嫌な顔一つせず『よっしゃ』と稽古してくれたのを覚えています。燕二郎にはとにかく文楽を辞めずに頑張ってほしいですね」
≫修業は死ぬまで通過点
修業は死ぬまで通過点
燕三襲名から17年。14年には脳梗塞を患ったが同年中に復帰した。もともと冴えのある三味線だったが、近年はその一音一音が研ぎ澄まされ、全てが必要な音として鳴っているという印象だ。
「脳梗塞で倒れて以来、変わったみたいなんです。今はだいぶ戻ってきたけども、復帰した最初の舞台では三味線のツボ(弦を押さえる位置)がわからなくて。手元を見ればよかったのですが、三味線弾きの矜持として、やはり三味線をかまえたらまっすぐ前を向いて弾くもの。見ずに弾けたときにはホッとしました。無理やりの復帰でかなりの荒療治でしたが、僕には良かった。きちんと治るまで何年も休んでいたら、文楽は辞めていたでしょうから。かつての演奏の映像を見ると『こんなに弾けたんだ』と思います。今は昔のようには手が回らないので、鮮やかに弾きこなすというより、弾く音、バチ使い、タイミング、太夫さんが語れるように……といったところに重点を置いている。そういう意味で、違った芸風になったのかもしれません」
令和4年12月の文楽公演にて   提供:国立劇場
2月の東京公演で演奏するのは、近松門左衛門の傑作『心中天網島』の大和屋の段。物語としては、その前の北新地河庄の段や天満紙屋内の段に描かれるような人間模様もなければ、最後の心中のような大きな出来事もまだなく、表面上は主人公の小春と治兵衛が小春のいる大和屋を一緒に抜け出して心中へと向かうだけなのだが、密かに大きな悲劇に向かって全てが動き出す大事な場面だ。燕三さんは過去に何度もこの段を弾いている。
「何遍やらせていただいても恐ろしい曲です。人形の動きはあまりないのですが、こっち(太夫と三味線)は大変な緊張の連続。ほとんど心の休まる間がない曲の一つですね。文楽では段の始まりはだいたい弾き始めればそのまま進んでいける弾き出しが多いけど、大和屋の段の場合、舞台に上がって弾き出すと太夫と三味線の関係がわからなくなって、最初は本当に恐ろしい目に遭いました。カミソリで切るような河庄の段、ナタを振るうような天満紙屋内の段に対して、大和屋の段は針に糸を通すような作業。今回もとにかくできることをやるだけです。修業する身にゴールはなく、常に発見があるし、失敗もある。会心の出来だと思ったら、妻に酷評されたりしますから(笑)。死ぬまでは、全てが通過点なんです」

≫「技芸員への3つの質問」
「技芸員への3つの質問」
【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード
師匠の仕事で、女の黒髪を題材にした『黒髪』(栗崎碧監督)という短編映画の場面の一つとして、太夫1人と三味線3人、あとお七の人形で八百屋お七が黒髪振り乱して走るというのをやりに、太秦映画村のスタジオまで師匠の三味線を持って行った時のことです。今はだいたい長いままの三味線を持ち歩きますが、当時は外を出歩く時は必ず小さく折って収納していたんです。その師匠の三味線を現場で接ごうと思ったら根緒(三味線の弦と胴をつなぐ組紐)のかけ方が悪くて弦がビヨーンとなってしまって。共演する今の(鶴澤)清友兄さんが『何やってんだ、貸せ! 自分のやり』と半笑いで怒りながらやってくれて。研修生から上がって初めての、本公演以外の現場だったので、私自身がテンパっていて。非常に情けなくてバカバカしい失敗で、忘れられない初年度の出来事です。清友兄さんには感謝しています。
【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること
今の劇場では、小劇場の舞台の音響ですね。床で演奏した時の音はピカイチなので、新しい劇場でも必ず再現されることを願っています。
あとはとにかく文楽を見捨てないでください、と、それに尽きますよね。建て替えまでの6年間、他劇場をなんとか都合してやっていただけるということなんですけど、その間にジリ貧になってもう東京での公演はやらない、などということになったら困ります。新しい建物に関しては、私が口出しできることではありませんが、文楽にとって使い易い劇場であることを希望します。
【その3】オフの過ごし方
あまりこだわっていないですね。どこかに遊びに行くとか泊りがけで旅行するとか、そういうこともほとんどありません。車の中で聴くのはロック。ツェッペリン、ビートルズ、クイーン、ブルース・スプリングスティーンも聴くしイーグルスも聴くし、トム・ウェイツも聴きます。中学・高校時代からの延長で、家にあるレコードやCDからiPodに落としているので、今時のバンドは全然知らないんですよ。

取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)

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